社会性昆虫のアリ社会の遺伝子による完全なる統制と遺伝子の呪縛を離れたヒト


情報技術の飛躍的なイノベーション、所謂、情報革命が『創発』の可能性を切り開いたというのは、ブログや個人サイトを含めた情報発信能力の分散と趣味の多様化によるコミュニティの細分化が大きな要素として機能しているという事だろう。
特に、インターネットが普及する以前は、新聞・テレビ・雑誌といったマスメディア以外の一個人が不特定多数に向けて何らかのメッセージを表明することは非常に困難であるか、右翼の街宣車のように完全に一方通行であるか、無作為のビラのばら撒きなどに頼るしかなかった。

従来のマスメディアから国民へ発信される情報は、単方向的であり画一的である為に、事件事故や政治的課題、社会問題に関する解釈の正当性は絶えずマスメディアの側にあった。市場の商品経済において需要を一種の情報操作としての広告や宣伝で喚起してきたのもマスメディアであり、現在でもテレビCMというのは商品の知名度を上げ、購買意欲を高める為に大きな力を果たしていることは否めない。
しかし、インターネットの普及により、マスメディアが発信する情報が更に各個人によって読み解かれその解釈が個人のブログやウェブサイトで発信されることで、マスメディアの言説の正当性は相対化され、そのテキストは多種多様な形で解釈され厳しい評価にさらされるようになった。

情報流通の掌握が価値創出や社会管理のカギを握るということは、中央集権的な権力存立の不可能性へと帰結し、必然的に権力は分散し細分化すると同時に、個人は自己の興味関心に適合する仲間のいる領域へと吸収されていく。
現在、音楽、映画、雑誌にしても小説、漫画、ファッションにしても、そのジャンルは余りに煩瑣で複雑に細分化され、全体を見渡す事が難しく、また、それぞれの趣味に応じて棲み分けが進行している。
それは、閉鎖的なコミュニティの点在化や自分と異なる年代、趣味や考えの他者とのコミュニケーション断絶を生み出していく。



ised@glocomの記事では、創発的秩序を信頼する場合には、バラバラに細分化されるコミュニティやアトミズム的な自由な個人の振る舞いを全体的利害を見据えるような共通の価値観なり判断軸で把握して統御する必要はないと考えているようです。
しかし、社会を認識する場合に要素還元主義的な考えが妥当ではないとしても、自然発生的なネットワーク形成と自律的な秩序確立を『アリの生態のアナロジー』を基礎において説明する事には、客観的な根拠はないことに注意する必要もあるでしょう。
自然界の事実は、人間社会の現象や倫理規範にそのままあてはめることが出来ないという自然主義の誤謬に陥らないように慎重により良い社会制度や法制度を試行錯誤していく必要があります。
個人(個体)は、必ずしも全体的な情況を把握する必要がないし、政治的関心を抱かず、集団的利害に注意を払わなくても自然発生的な秩序が生じるという『創発的秩序』は、単純な社会構造を持つアリやハチといった社会性昆虫の場合には遺伝子の命令に従う事で容易に実現できるかもしれませんが、人間は遺伝子によってその行動の全てを規定されておらず、種の保存を目的として黙々と社会的役割を果たし続けるアリやハチとは異なります。

巨視的な全体を概観する視点や知識を持たずに、微視的な自己の興味や利益のみに従って行動すれば、自然発生的な秩序が創発するという発想の根底に、自然世界の模倣としての創発的秩序があるならば、人間社会と人間意識の独自性と不規則性に目を向ける必要を感じますね。



http://ised-glocom.g.hatena.ne.jp/ised/00011030

こういった既存のメディアでは成しえない情報共有と社会的ネットワークの形成というものをポジティブに捉える時、これを「創発的秩序」と呼び習わし、積極的に評価する潮流があります。創発とは、システム理論では個々の要素の集まりが全体として持つ働きのうち、要素に還元できないような特徴を呼びます。

 さてこうした創発性への信頼にもとづくネットワーク社会論をもっとも極端なところまで押し進めて考えると、既存の民主主義に対する理念は根底から揺さぶられることになります。どういうことか。まず、創発性の重要な考えとして、個々の要素は全体を把握する必要がない、個々が勝手に振る舞っていても全体の秩序は生まれるというものがありますが、頻繁に持ち出される例として、アリの生態のアナロジー*8――女王アリはけして個々の兵隊アリに逐一命令を出しているわけではなく、統一的視点を持った指導者は存在しないのにも関わらず、全体としては系統立てられた秩序が存在する群体――がその基礎になっています。

 この主張を展開していくと、人々を縛る余計な法や規範は取り払うべきであって、各人が自由に振る舞い、ネットワーク形成を行える環境そのものを設計することこそが、最重要な課題となります。つまり政治的主張の基礎となりうるのは、個人の政治的志向や集合的利害への関心ではなく、新たなルールを形成しうるネットワーク環境それ自体である、というテーゼに行き着くのです。


以下は、保守主義の立場からのサイバーカスケードによる民主主義の危機についての批判です。


 創発主義から引き出される「全体的な動向を個々人が認識しなくても秩序は生まれる。個々人は自らのローカルな利害関心にのみ注意を払えばよく、全体的認識は必要ない」という政治的立場に対して、ネット・コミュニケーションのもつ創発特性がカスケード的な衆愚制に陥る危険性を指摘する人々の立場はこうです。「全体的な認識はどこかで担保されねばならない。人々が政治的関心や公共性への志向を喪失し、個別の利害関心のみを行動原理として集合的決定に参加するような事態は、端的に言って民主制の崩壊を意味する」、と。

ネットワークから生み出される価値や自然発生的な秩序を創発するという情報社会論は、よく分かりますが、ここでポピュリズムへのカスケードを起こさないようにする為には『個人的な興味や利益の枠組みに閉じ篭るのではなく、公共領域の問題意識も同時に所有すること』がキーになってくる気がします。

個別の利害関心のみを行動原理としても、他者の利害関心と衝突して、自分だけが不当に損害を与えられたり、興味関心を満たす対象を奪われたりする可能性がでてきます。そういった『ゼロサムゲーム的な弱肉強食社会』になってしまえば、大多数の人は、個別の利害関心を満たせず抑圧され搾取される危険性があるので、やはり、エゴイストであっても全体的情況の最低レベルでの把握は欠かせないでしょう。社会的関係や経済活動における市民のコンセンサスを得た公正性や平等性を担保する規範、競争原理で淘汰されても何度でも復帰でき、重篤な疾病や障害を負えば生活を保護されるセーフティネットとしての社会保障は整備する必要があると思います。
個別の利害関心のみの行動原理の中には、自分が競争原理で排除されたら、事故や病気で所得を得られなくなったら、他人と権利や利害が衝突して不当な権利侵害を受けたらといった社会的関心も含まれるでしょうし、それらを解決する為には一定の社会制度を確立する為の開かれた討議とコンセンサスが必要になってくるでしょう。