喪失される『師資相承』と空中楼閣として聳える人徳


国語教諭:相田みつをの詩知らず、女子生徒けなす
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20041225k0000m040190000c.html

 
書き初めの宿題に書家、詩人として著名な相田みつをの詩を書いたところ、中学の男性国語教諭(53)に「やくざの書くような言葉だ」などとばかにされ、これが原因で卒業文集にもほおに傷のある似顔絵を描かれたとして、横浜市立中学の元女子生徒が市に慰謝料など350万円の支払いを求めた訴訟で、横浜地裁の河辺義典裁判長は24日、教諭らの責任を認め、市に計25万円の支払いを命じた。元生徒は別の男性教諭(46)から部活動中に腰をけられており、支払額はこの賠償5万円を含む。

 判決によると、元生徒は3年生だった01年1月、「花はたださく ただひたすらに」と書いた書き初めを、国語の授業に提出した。書家で詩人だった相田みつをの詩だが、国語教諭はこの詩を知らず、ほおに指を当てて(傷跡を)なぞる仕草をして「こういう人たちが書くような言葉だね」と発言した。同級生は笑い、元生徒は「やくざ」などとからかわれるようになった。

 その後、生徒たちが卒業文集で互いの10年後を想像した似顔絵を描き合った際、元生徒は、ほおに傷がある絵を描かれた。担任の女性教諭(38)は、絵を見ていながら修正せずに文集を配った。

 学校はその後、元生徒の母親の抗議で文集を回収し、印刷し直した文集を配り直した。

 判決は教諭の発言を「(発言で)嫌がらせを受けるのは当然予想され、不適切で軽率」と批判。似顔絵についても「(担任が)訂正の必要性を認識すべきだった」とした。【内橋寿明】


日本から、真の人生の先達として子ども達から仰がれる教師の姿が稀有なものとなりつつある観がある。
様々な職業の名称に、“師”という敬称が科されるが、その多くは人格的な高潔さまでを示さず、技術・技能・知識において専門的に優れた者といった意味の接尾語として機能する。
師とは、その語源を辿れば、諸葛亮孔明が『出師の表』を主君に奉じた事例にあるように、古代中国・周王朝の軍隊の単位であり、転じて軍隊の指導者の意をとった。
後世に至って、師とは、師父や師匠という言葉にあるように、『深い叡智と豊かな経験に支えられる品位ある人格のもとに人を教え導く者』を指す事となる。
教師とは、一般的に、児童生徒や保護者から『先生』と呼ばれる。

先生というものは、単純に先に生まれた年長者のことを指すのではなく、自らに先駆けて、道を修めた学徳ある者というのが原義であろう。
少なくとも生徒や保護者が『先生』と呼びかけてくる事に対して、社交辞令的な職業アイデンティティの確認や自己の優越感の保障に結びつけるだけに終わってはならない。
先生と呼ばれる事によって自尊心や自覚を高めるのは行き過ぎた慢心でなければ、自らが果たすべき役割や取るべき態度を自覚する良い刺激となる。
子どもを人格として見下すといった傲慢不遜や向上心や自己研鑽を阻害する自惚れに陥らぬよう、敬意を抱かれるに相応しい教養と人格が求められる。

何も、完璧な尊敬されるべき人格者や隙のない博覧強記な知識人になれというような荒唐無稽な理想論を述べているのではなく、最低限のレベルで次世代を担う子どもを教育し、指導するにふさわしい程度の人間性や教養、そして、子どもを愛する感情を持って欲しいという切なる思いである。
最低限のレベルが何処にあるのかについての見解は十人十色だろうが、私は、『子ども達に積極的に尊敬されなくてもよいが、子ども達がかつての先生を振り返った時に、人間として侮蔑されたり、唾棄されたりされない程度』という水準に置きたいと考えている。

ここで判断を早まってはならないのは『嫌われている先生≠人間として軽蔑されるべき先生』という点であろう。
私たち大人は、懐かしい学生時代や子ども時代を思い出す時に、『あの頃は、○○先生の話されている内容が全く腑に落ちず、屁理屈や理想論を言っているようで嫌いな先生であったが、今になって考えてみるとなるほどあの発言や叱責にはこういった含意と意図が込められていたのか』と感慨深く思える先生に思い当たる場合がある。
若しくは、おどおどとして人間関係が余り得意でない為に、生徒に軽んじられて授業中も私語でガヤガヤと騒がしかった先生の授業や板書を思い出してみると、『確かにあの先生は生徒を率先して指導し、間違いを説諭するといった教師に求められる能力には欠けていたが、専門の歴史分野(担当分野)における教養や熱意には端倪すべからざるものがあったな。自分達の人格や知性が未熟であった為に、あの先生が伝えようとしてくれた知識や価値を受け止めることが出来なくて本当に勿体無いことをしてしまった。』としみじみと懐古できる先生もいるだろう。
自分自身が生徒の時点で、嫌われている先生、馬鹿にされている先生というだけでは、自分の人生というスパンを通しての人物評価は定まらない。

どれだけ長い年月を経ても、どれだけ人生経験を積み重ねて、広範な人物評価の視座を獲得しても、教育者として、人間として、大人として高く評価できる性質や特質を見つけ出す事が出来ない先生がいるとしたらそれは悲しい事である。しかし、そういった悲しさを伝えてくるような事件事故を聞く度に、何処と無く日本の行く末や子ども達の人格形成といったものに暗澹たる黒雲を垣間見る思いがしてしまうのである。

最低限のレベルの態度、振る舞い、言動、感情表出といった人格というのは、勿論、私生活に及んでまでの高尚な倫理観や模範的な生活態度といった、言っている私自身が、到底実現不能な人格の基準を要求しているわけではない。
子ども達を前にして教育指導としての授業を行う時、子ども達の生活態度や礼儀作法の乱れを注意するといった生活指導を行う時、全校集会や始業式・終業式といった公式の行事で子どもを指導管理する時には、教育者として、先生と呼ばれるに相応しい最低限の倫理観と教養を備えた人格をもって行動して欲しいといった職業意識だけでも十分に実践可能な事柄を言っているに過ぎない。

色々と厳しい視点で語ってしまったが、勿論、現場の真摯に教育に当たる教師達の並々でない苦労にも十分な配慮はする必要があると思います。
一旦、国家の教育指針として出されたゆとり教育の指導要領に従って、子どもの自主性や創造性を重視した生きる力を育む“総合的な学習時間”を有意義に活用しようとして取り組んでいた矢先に、今度は、OECDの学習到達度調査の国際比較の成績が悪かったから、ゆとり教育は大衆愚民化政策で日本の将来が危ぶまれるといった世論が形成されて、その非難の矛先が見当違いの現場の教師達に向かってしまっています。
真面目に意欲的に取り組んで一定の成果を上げても、比較調査される順位や数値のみによって、その教育内容全てが否定されるような論調はやはりおかしいと思います。
ゆとり教育に問題があるとしても、その責任追求は、教育政策の指針に対する権限のない一教師ではなく、国家施策としての教育行政全般の問題に向けられるべきではないでしょうか。


教師達自身が精神的なバランスを崩してしまう事も多い学校現場の問題は、青少年の非行・犯罪・逸脱行為をはじめとして、子ども達の間にも増加しているメンタルヘルスの問題への対応、世代間格差や価値観の多様化も影響した子ども達とのコミュニケーション不全や生活指導上の困難などがあり、どれも単純な熱意や努力だけでは解決はおろか対応さえも覚束ない難しい問題です。
学校環境に不適応な生徒達による授業崩壊や反対に、学校に登校する事のできない不登校やひきこもりの子ども達の精神的ケアや家庭訪問など、本来の知識教授の教育指導だけに全力を傾けて集中する事の出来ない現場の懊悩があります。

学力低下の原因が、公教育の質の低下や教師の能力不足といったものに求められてしまうと、公教育の学校制度そのものに対する信頼が揺らいだり、教師に対する充足感が失われたりします。
『子どもに良い教育を受けさせたければ、私立学校に通わせなければならない』『学校の授業だけでは不足だから、有名講師がいる塾(予備校)に通わせなければならない』といった現在、東京にある私学優位の学習環境事情が、公立校優位の地方にまで拡大されてしまうと、それは直接的に、家庭環境の経済格差が教育格差へと結びついてしまう憂慮すべき事態を招いてしまうでしょう。

何だか、教員の資質のニュースの話題から公教育の問題へと論点がずれてしまいましたが、このニュースを聞いて辟易したのは、生徒の書初めを『やくざのような言葉だね』と揶揄して軽侮した教師が、国語の教科担当の教員であり、年齢が53歳に達していた事でした。
母国語の言葉の定義や言葉のもたらす影響に最も敏感で熟知していなければならない国語科の教員は、ある意味では日本文化の基底を支える日本語の表現や文法の模範や洗練を示すべき存在ではないかと思いますが・・・。
私も相田みつを氏が詩人で書家であり、多くの支持者やファンを持っていることは知っていますし、先日、安倍なつみさんの盗作疑惑で騒がれていた事も知っていますが、恥ずかしながら、相手みつを氏の作品そのものを深く鑑賞した事がありません。
このニュースのタイトルで、『相田みつをの詩知らず』とありますから、当然知っておくべき常識的な教養として相田みつをの詩が提示され、それを知らなかった教員の無見識を指摘していると解釈できます。
若しくは、著名な世間で評価されている詩人の詩句を不当に低く評価した詩心のなさを指摘したとも解釈できますね。

うーん、「花はたださく ただひたすらに」という詩が芸術的にどのように評価されるべきかは各々の美意識や感性によって異なるでしょうが、ここから、「やくざ」を連想する感性というのは、花から刺青を思い浮かべ、ただひたすらに華美に派手に人生を無目的に生きるといった渡世観へと短絡したのでしょうか。
中学校教員なのだから、中学生の女子生徒の感情や美意識に思いを巡らす想像力を働かせる必要があるでしょうし、自分の用いる言葉の意味や生徒集団の人間関係に与える影響を考慮して発言すべきだったという事なのでしょう。
部活動で腰を蹴った教員(46)であれば、確かに『やくざの取るような行為だ』と指摘することが出来ましょうが、『花はたださく、ただひたすらに』という詩文から『やくざの書くような言葉だ』という感想しか述べられない感性と語彙、表現力こそ研鑚すべきでしょう。
しかし、教員だけの問題ではなく、日本社会という単位でも、『年齢不相応な精神構造の公共圏での発露』の問題は一考に値するものかもしれません。

四十歳の異名としての不惑、五十歳の異名としての天命というのは、孔子の説いた理想論的な人生の発達課題ですが、そこに到達する道は、価値観が多様化し、社会規範が流動化する現代においては余りにも険しいと感じます。



『師資相承』といった現代の日本から失われつつある『先達から師弟達への知識・技術・人徳の継承の文化』を再び取り戻す事は至難でしょうが、自然に尊敬できる先人と現実社会で出会える事の幸運が多い社会の未来は明るいでしょう。