価値が流動化する現代社会における適応とユングのペルソナ


カウンセリングが果たす『心理的な悩みや問題への支援』という役割は、従来、軽い悩みであれば家庭の両親や学校の教師、地域の長老格が果たし、人生の意義といった深い悩みであれば宗教がその役務を果たしてきた。
しかし、市場経済による消費社会の到来は、無限に分裂し増殖する『価値の錯綜化』を生み、常に新しい流行を追い続けるといった『価値の流動化』を招来した。
利潤拡大の経済活動を基盤とする価値の錯綜化は、伝統的な秩序や社会的な人間関係を津波の様に飲み込み、量的に計測される貨幣以外に全ての年代に共通する価値指標がなくなった。

長い人生を豊かな経験と共に生きて来た老人には、敬意を払うべきといった伝統的道徳観は、『本当にその人物が、敬意を受けるに足る知識や技能を有しているのか?』という査定と疑念を受けるようになり、それは教師、両親、僧侶などあらゆる社会的な権威に向けられるようになった。
封建的秩序を否定する民主主義も、ある社会的立場にあるという理由だけで、無条件に尊敬や承認を受けるといった階層的な人間関係に基づく社会を否定する後押しとなった。

家族的企業経営と言われた日本の経営システムも、荒ぶるグローバリズムの波頭の前に砕け散り、温情的な終身雇用や年功序列賃金制による昇給を切り捨てて、これからの時代は国際競争に耐え得る人材を育成する能力主義でなければ苛烈な企業間競争で淘汰されると意識を新たにした。
近代化とは、ゲマインシャフト(心情的な共同社会)からゲゼルシャフト(功利的な利益社会)への移行であり、他者の干渉を最小限度に留める事によって相互に自己の自由と権利を尊重し、自らが望む他者とのみ関係を結ぶコミュニティの細分化を促進する流れでもある。

コミュニティの細分化と多様化は、経済的な利潤の追求と趣味嗜好の満足の追求によって推し進められる為、ある相手と生活圏が非常に近接していても、その相手と関わる事で何の利益も得られず、共通の趣味や話題もないならば、必然的にコミュニケーションの頻度は減少し、帰属するコミュニティも分離していく。
インターネット世界に典型的だが、自分自身の興味関心を満たしてくれる相手(website)や自分自身が必要とする情報を提供してくれる相手(website)や対話していて心理的な満足を与えてくれる相手(webmaster)へと、私達はハイパーリンク(hyperlink)やブックマーク(bookmark)を通して引き寄せられていく。
中には、過激な表現を用いて口汚く相手を罵倒し非難するような関係であっても、そのサイトに頻繁にアクセスするといった人もいるだろうが、傍観者から見て無益な誹謗中傷のやり取りであっても、当事者からすれば日常の現実世界で見せられない自分のありのままの感情をインターネットで表現する事によって情緒を安定させ、気分を爽快にし、ストレスを解消するといった『カタルシス効果』が得られていると推測できる。
反対に、極端な負けず嫌いで、反論されると相手が意見を取り下げるまで粘り強く批判し続けなければ落ち着かないといった人の場合には、かえって、インターネットをする事で睡眠不足になったり、ストレスを蓄積する事もあるかもしれないので、気分が悪くなるほど激昂するようなコミュニケーションは精神衛生上余りお薦め出来ない。


IT革命を経て高度に進歩した情報社会においては、人間と人間が向き合って"face to face"の態勢で忌憚なくお互いの気持ちや感情を取り交わす機会が極端に減っていて、通常、何らかの『社会的役割』や『利害関係の交渉』といった『人間的な感情の交流の外』にコミュニケーションの目的が置かれています。
他者との相互的な影響の元に社会的生活を営み、職業や仕事を通して社会的責務を果たすという事は、『プライベートな領域の思考・感情・価値観・事情・体調』を表面化させずに抑圧して、社会的環境に適応した上で、任務や業務を淡々とこなしていくという事を意味します。

独自の分析心理学を構築したユングが、『社会適応的な自己』として提唱した元型概念である『ペルソナ(仮面)』は、外的な世界に適応する為には必要不可欠なもので、私達はペルソナを作動すること無くして通常の日常生活を支障なく送ることは出来ません。
ペルソナは、もっと分かりやすい言葉で言うならば、『社会的責任や社会的役割の自覚』であり、『〜としての自己』を意味するものです。
子どもの前で父親・母親として立つあなたが、『父親・母親としての自己』を忘れてしまって、子どものような弱々しい態度や信頼できないいい加減な嘘の発言、未熟な自己中心性を露にしていたのでは、子どもの健康な成長に必要な適切な親子関係を営んでいく事が出来ません。
子どもが寝静まった後に、配偶者に向けて自分の満たされない感情や不満、安らぎを求める甘えを素直に表現する時間というものは必要ですが、社会的存在としての人間は、自らが置かれている状況や文脈において適切なペルソナを用いて外部環境に適応していかなければなりません。

しかし、『ペルソナを用いた自己』を演出する事のみに拘泥する事は、『内的な心理』を無視する事につながり、自分では気付かない間に精神的ストレスに持続的に曝され、心身の健康を損なう帰結を招く恐れもあります。
ペルソナとは、『あなたは、〜しなければならない』という外部世界の要求・期待に対する適応であり、外部世界の要求・期待に応える事によって、私達は、行動科学(行動主義心理学)で言うところの『正の強化子』を受け取る事になります。
正の強化子とは、社会的環境に適応する事によって得られる『報酬(快楽・充足・満足)』のことであり、例えば、『親の躾を守る事によって得られる賞賛』『先生の指導に従う事によって得られる評価』『受験に合格して志望校に進学できる充足感』『入社試験に合格して希望の企業に入社できる達成感』『上司の指示に従う事によって得られる承認と評価』『要求される仕事以上の高い業績を上げる事で得られる評価と昇格』などが正の強化子として作用して、ますます社会環境への適応度を高めていく事が出来ます。
これらの社会適応的な行動と評価が、『精神内界の自己の価値観や欲求』と適合している場合には、全く問題はなく、その人は野心的で魅力的な人物として周囲から評価され、自分自身も深い満足感を得ることで更なる精力や気力体力を充実させていくことが出来るでしょう。

反対に、神経症などの精神疾患の問題が生じてくるケースというのは、周囲から見れば、社会環境に完全に適応していて、充実した人生を送っているように見える人が、『外部の世界への適応のみに終始している間に、内的な自己の感情や欲求を完全に抑圧』している場合です。
『本当の自分は、現在の自分とは異なる』という内的な違和感や不適応感を漠然と感じながら、黙々と周囲からの要求や期待に応え続ける『過剰適応』に陥ってしまうと、精神的な不調や悩みに気付く事そのものが難しくなり、仮面うつ病などに典型的に見られる身体症状の警告から内面世界の危機を感じ取る以外に方法がなくなってきます。

外的な世界と内的な世界との相互的な連動の中に、適切な均衡点を見つけ出し、社会環境にうまく適応しながら、内的心理の欲求や情動の声にも耳を傾けていかなければならないという事でしょう。
窒息感や圧迫感、苛立ちの蓄積を感じるほどに私的感情を抑圧し続けるのも心の健康に良くありませんし、反対に、周囲の期待を全く完全に無視して自分の欲求のみに忠実に行動するのでは、環境不適応によって生活を維持することが難しくなります。
ペルソナというのは、多面的な人格の様相を表現する元型概念であり、外部の環境に適応すると同時に、適切にペルソナを使い分ける事によって精神内界の安定化を図る事も出来るという、非常に柔軟性と応用性を持った人格の機能であると考えています。

最後に、現代におけるカウンセリングは、非日常的な限定された時空における対話と交流であり、利害関係や情緒関係のある社会的環境から切り離された特別なコミュニケーションの場として認識できます。
周囲の評価や社会的な報酬を得る為にペルソナを用いて環境適応の努力をする必要がないですから、普段、見せる事の出来ない率直な感情を出しながらありのままの自己の人格を元にコミュニケーション出来ます。
そういった『ハレ(祝祭)の空間』というメタファーが成り立つような状況の中で、様々な鬱屈した情動の塊を浄化するカタルシス効果が望めるのかもしれません。

『ペルソナを脱いだ真実との自己』と向き合いながら対話を行う事は、通常、社会的文脈に即した対人関係では不可能であり、カウンセリングなど特別な対人関係か禅宗の座禅や深い内観を伴う瞑想に拠るしかありません。
しかし、仏教的な瞑想は、その最終目的をあらゆる苦悩を克服した解脱や悟りに置いていますから、日常生活の心理的な悩みや問題を解決する事と直結するかどうかは長年黙々と座り続けてみなければ分かりません。
瞑想・座禅を自己内面と孤独に向き合う『精神の修養』とするならば、カウンセリングは自己内面と対話相手と共に向き合う『精神の共鳴』と言えるかもしれません。

ユングの考案したアクティブ・イマジネーション(active imagination)は、分析家の導きを得ながら、想像力と夢想力を活性化させて積極的にイメージを拡大させていき、自己実現の可能性や治療的な創造的イメージへとつなげていくものですが、これもある種の瞑想であり、前人未到の精神内界を能動的に操作しようとする西洋的発想による内観法です。
東洋的発想では、ユングのアクティブ・イマジネーションは、飽くまで異端的な瞑想であり、解脱とは無縁な『魔境という変性意識状態(オルタード・ステイツ)』へと誘い込むものに過ぎませんが、宗教的な視点から離れれば、クライアント本人の心的状態を健康で意欲的な方向へと変容させる事に効果を得る事もあるので全く無意味というわけではありません。
しかし、アクティブ・イマジネーションは、現実逃避的な妄想・幻覚症状やフラッシュバックを伴う深刻なトラウマなどを背負っている場合などには、慎重な取り扱いを要する技法であり、無闇やたらに夢の内容や白昼夢や想像世界を拡大的に語らせ続ける際には、その過程を注意深く観察し、不安や恐怖や現実見当識の喪失が見られた場合には中断することも必要になってきます。


ユングは、外部の世界に対する理想的な態度を示す概念として『ペルソナ』を置きましたが、内部の世界に対する理想的な態度を示す概念として、夢を通して窺い知る事の出来る『アニマ』『アニムス』を置きました。
普遍的無意識の広大無限の領野を望むアニマ、アニムスの説明も、また時間のある時にしたいと思います。

ユングは、精神科医や心理学者という枠組みには収まりきらない無意識の世界を俯瞰しようとする瞑想者であり、元型概念によって無意識に道標を置こうとした宗教的な内観者でもあります。
ユング自身が、自らを『魂の医師』と呼んでいた様に、科学的な臨床態度は既に放棄していましたが、その思想や理論の内容は、神話的なメタファーと自由無碍な独創性に満ちていて思想的な読み物としては相当に面白いと思います。