ジェフリー・ディーヴァー『石の猿』の書評:新天地を目指す中国人家族の物語

『石の猿』の作中において、アメリカを『美しい国(メイグオ)』と呼ぶ密入国者の中国人、チャン一家とウー一家、医師のジョン・ソンが求めたものは『政治的自由と経済的成功』であった。
この小説に登場するアメリカに密入国した中国人一家は、単純な貧困からの離脱者や自由社会で一攫千金を夢見る冒険者ではなく、中国本国で政治的迫害や社会的差別を受けてきた反体制運動家だった。
つまり、一旦、祖国を捨てて密入国を企てた彼らは、アメリカの移民帰化局から強制送還されれば、反体制の政治犯として再教育施設とされる監獄に送られる事になる可能性が極めて高く、背水の陣でこの密航に臨んでいる。

アメリカに海上から入国しようとする中国人達の密入国を斡旋したのは、国際的な密航請負組織として知られる“蛇頭”であり、蛇頭の幹部であるクワン・アンであった。
クワン・アンは、インターポール(国際刑事警察機構)から数々の凶悪な殺人や強盗、レイプなどで国際指名手配を受けている人物で、中国ではその冷酷無情さから“鬼(グィ)”と異称され、国際捜査ではその人相が知られていないことから“ゴースト”と呼ばれていた。
小船で波に揺られる不快な船旅を嫌うクワン・アンにとって、大した金銭にならない密入国請負は最も面倒な任務であり、哀れで無残な密入国者たちを子豚、小猪と呼んで軽蔑していた。
しかし、通常、蛇頭の上層にいる大物幹部は、密入国船に自分自身が乗り込む事はない。何故、クワン・アンのような幹部クラスの人間が、頻繁に密入国船に同乗するのかも解かれるべき物語の謎として提示されていく。

不法入国を計画する密航者達は、最も弱い立場であり、その生殺与奪は蛇頭に握られており、指示に逆らったり、契約通りの金を払わなければ抹殺される。彼らは“既に世に亡き者たち”とも呼ばれ、無事に目的地に辿り着き、新天地で安定した生活を営めるようになるまでは、苛酷で熾烈な環境と不安や恐怖で覆われた情況に置かれる事となる。

乗り込んだ船は“福州竜丸”という貨物船であり、その船長のセンは密入国に関わる人物としては一風変わった人情に厚い密入国者の幸せを願う人物であった。殆どの密航船では、粗暴な荒くれ者の船員達によって、密航者の女性達は性暴力の危険にさらされるが、センは決してそのような無体を許さず、安全に乗員を目的地であるアメリカや日本に送り届ける事に専念した。
福州とは、中国南部の都市・福建省の最大の都市であり港町である。アメリカ合衆国に不法に渡航してくる中国人の多くが、中国南東部沿岸地域からやってくるが、福州は密入国者が集う新天地に向けた旅立ちの街でもある。


元科学捜査官である警察顧問の犯罪学者リンカーン・ライムが指揮を取るゴースト逮捕と密入国摘発を目的とする捜査陣は、衛星からの画像情報や国際情報網から福州竜丸がアメリカ海域に不法侵入することを事前に把握していた。
福州竜丸を、武装した沿岸警備隊が包囲して拿捕し、ゴーストとその手下の幇手を逮捕する計画であったが、ゴーストは沿岸警備隊の追跡船から逃れられないと知るとプラスチック爆弾で福州竜丸を密航者と船長・船員共々爆破した。




福州竜丸は急速に傾いている。鋼鉄の板の継ぎ目から、冷たい海水が勢いよく流れ込んでくるのが見えた。少し前に次男が倒れた水溜りは、既に50センチの深さになっている。水は見る間に深くなっていく。人々が足を滑らせ、ごみや荷物、食料、発砲スチロールのカップ、書類などが浮いた水溜りに呑みこまれた。彼らは悲鳴を上げ、手足をばたつかせた。

行き場を失った男が、女が、子どもが、鋼鉄の壁を破ろうと荷物を叩き付け、互いに抱き合い、すすり泣き、助けを求めて声をあげ、祈りの言葉を呟き・・・顔に傷のある女性は娘を胸にしっかりと抱き、赤ん坊は薄汚れて黄ばんだ<ポケモン>のぬいぐるみにしがみついた。

瀕死の船が漏らした腹に響くようなうめき声が、船倉のよどんだ空気を震わせた。臭気を発する茶色い水はあっという間に深さを増した。
『石の猿』第一部 蛇頭より


まさか密航船そのものを爆破するとは予想していなかったライムは、自らが密航船拿捕とゴースト逮捕を想定して描いていたシミュレーションの甘さと取り返しのつかない悲惨な結果に懊悩し、深い罪悪感を感じるが、密航者達は彼が考える以上にタフであった。ライムが全員死亡していたと予測していたが、密航者の過半は生き延びてアメリカの地に満身創痍の態で上陸する。
船が完全に沈没する寸前で、救命ボートによって脱出し、何名かの貴重な人命の犠牲を払いながらも、アメリカの海岸へと辿り着く。
ライムは、科学的捜査を行う鑑識のプロであり、自分の部下達に冷静沈着な合理的捜査を指示し、被害者である死者に過剰な感傷を抱く事を戒めて『死者はあきらめろ』を座右の銘のように語るが、完全にあきらめきれないヒューマニスティックな一面も持つところに魅力がある。

無論、ライム自身は事件によって脊髄を損傷して四肢麻痺の寝たきり状態なので、彼が直接現場を捜査することは出来ず、安楽椅子探偵(アームチェア・ディテクティブ)のようにベッドで犯行情況にまつわる論理的な思考をめぐらし、証拠の検証法を考察して、その指示を自分の手足として的確に動いてくれる恋人のアメリア・サックスに伝える形で捜査を展開していく。
ライムが得意とするのは、微細証拠物件を中心とする物質の精密な科学的分析に基づく鑑識手法であり、彼は目撃証言や心情・動機の推測よりも観察可能な動かざる物的証拠の検証を最も重視する。

救命ボートで海岸を目指す途中で不運にも生命を落としたのは、チャオホワとローズという若夫婦であり、まだ幼い彼らの女の赤ん坊ポーイーはチャン一家が引き取る事となる。
ポーイーとは、中国語で『宝の子』を意味する言葉であり、この赤ん坊は『石の猿』全体を通して、一片の希望や新しき人生の再生を象徴し続ける存在でもある。
ライムとの間に子どもを授かりたいと願うアメリア・サックスの複雑な感情や将来的な展望にも、ポーイーは少なからぬ影響を与えていく。

救命ボートで何とか岸まで辿り着けたのは、サム・チャン、サムの父・チャン・ジエチー、サムの妻・メイメイ、サムの長男・ウィリアム、サムの次男・ロナルドのチャン一家とウー・チーチェン、妻のヨンピン、娘のチンメイのウー一家である。
救命ボートから冷たい海中に投げ出されながらも九死に一生を得たのは、中国公安警察ソニー・リーと漢方医のジョン・ソンである。

各人物それぞれの経歴や心情を詳細に描写すると膨大な分量になるし、情況が急展開して事件全貌の解決が迫るクライマックスの部分のネタバレになるので割愛する。
『石の猿』では、西洋と東洋の比較文化論から『大躍進と文化大革命』に象徴される毛沢東が指導する中国共産主義の暗黒面が語られ、アメリカと中国の政治経済環境の格差も大きなテーマとして綴られていく。
それと同時に、人物描写によって規定される小説として『石の猿』を読むならば、『家族の稠密な愛と祖先への深い崇敬』といった中国の儒教的道徳の再考も、ゴーストに追い詰められる家族の物語に込められた主題であるように私には思えた。

孔子の説いた儒教の根幹にあるのは、主君への忠義、祖先への孝行、目上の者への礼節、妻の夫に対する奉仕といった『人間関係の階層秩序の尊重』であり、社会的な役割関係をそれぞれが踏み外さない事で社会が安定し、戦乱や混迷が起きないとする『変動のない定常型社会』を理想とするものである。
それ故、旧態的な君臣の義や身分制度を基軸とする封建主義体制、男尊女卑的な社会慣習を擁護するものとして、近代以降、儒教道徳は強い批判に曝されていく。

サム・チャンは、保守的な儒教道徳に忠実な真面目な元大学教授であり、父親のチャン・ジエチーを深く敬って、その言動に重きを置き、妻や子どもにもチャン・ジエチーには素直に従うように教えている。すっかり年老いて、既に末期癌に冒されている余命幾許もないチャン・ジエチーは、サムよりももっと柔軟で深遠な考え方のできる達観した仙人の翁のような風格を持った人物である。

しかし、サムの息子ウィリアムは、典型的な現代の青年であり、無条件に父親を尊敬することはなく、心の何処かで家族を不幸にする反体制活動を身勝手に行った父サムに対して軽蔑の念を抱いていた。
更に、ウィリアムは、実際にアメリカで生きていくことに役立つ英語力や知識、技術において父親のサムを上回っていた為に、実生活で利益を得る為に何の役にも立たない儒教哲学、老荘哲学や文化芸術論の知識を溜め込んでいるだけの父親を軽んじて尊大な態度を取る事が多かった。
贅沢で裕福な生活をどんな手段を使ってでも簡単に手に入れたいと考える実利最優先のウィリアムと貧しくてもコツコツと働いて少しずつ豊かな生活を家族で力を合わせて築いていこうとするサムの基本的な行動指針は何処までいってもかみ合わない。
逃亡中に遭遇する様々な場面や問題で、父親は息子の犯罪者が使うような車泥棒のやり方に反発し、父親を軽視するようなリーダーシップや横柄な物言いに苦言を呈しながらも何とか危機を協力して乗り越えていく。

中国で生活している時には、仕事が忙しくて気付かなかった息子の意外な一面、英語が堪能で様々な犯罪に直結する技術に精通していることや父親の権威に必ずしも従順でないこと、にサムは気付いて息子ウィリアムの軽薄で自信過剰な態度に不満を抱き、小さな感情の衝突を繰り返しながらお互いの理解を深めていく。
最終的に、サムとウィリアムの親子の関係を安定化させたのは、人生の先達として家族の愛情の大切さを身を持って示した老父チャン・ジエチーであるが、それがどのような経緯を辿ってのことなのかは本作品を実際に読んで確かめたほうが良いだろう。きっと、老父チャン・ジエチーが比類なき家族への切実な思いを抱えて決断した行動に、多くの人が胸を打ち震わせる感動の奔流に呑まれるのではないかと思う。

日本の親子の間のコミュニケーション不全や関係性の断絶、過保護・過干渉や無視や無関心による自由放任が子どもの健全な成長を妨げるとして問題視されるようになって久しいが、中国も一人っ子政策の中で数少ない子どもに対する愛情過剰の過保護に陥り『甘やかしの行き過ぎによる弊害』がよく取り沙汰されるようである。
情報化社会の中では、親の子どもに対する知的優位性を維持できる年月が短い為に、昔ながらの儒教道徳的な親への尊敬は無条件では得られない、また、初めから親・子の役割関係を放棄して友達感覚の親子を目指す人たちも増えている。
『どのような親子関係が理想なのか?どういった子育てをすれば、子どもに問題行動や精神的な問題が生まれないのか?』という事に対して単一の正解を導き出すことは出来ない。
それぞれが、実際の生活環境で取り交わされる親子の会話や関係、体当たりのコミュニケーションの中でより良い親子関係構築を模索し続けていかなければならない。
複雑化し、情報や知識が錯綜する現代社会にあって、人の子の親になりその責任を果たす事は、おそらく過去の社会規範が共有され、親子関係が固定的だった時代よりも難しいが、その分、子育てをする事によって自分自身が成長する機会も数多くあるように思える。
『尊敬される親と好かれる親・愛情と厳しさ・保護と甘やかし・親密感と距離感・自立と依存』の絶妙なバランスを求めて、親と子は不安定な情緒的交流を通して、日々、お互いの理解を深めながら成長していくことが望まれるが、現実は一進一退、子どもが社会的・経済的・精神的に自立するまでの道のりは険しく長い。




やがて吹きすさぶ風に負けじと大声を張り上げた。
『僕のナイフ、持ってる?』
『おまえのナイフ?』
『ほら、船の上で渡したでしょ――救命ボートの締め縄を切った時に』
『あれはおまえのだったのか?』
息子はなぜあんな刃物を持ち歩いているのだ?飛び出しナイフをいったいなぜ?
『持ってる?』少年が繰り返す。
『いや、救命ボートに乗り移ったときに落としたようだ』

少年は顔をしかめたが、チャンはその表情に気付かぬふりをし――親を小馬鹿にするような顔じゃないか――

(中略)

ウィリアムがダッシュボードのボタンに軽く触れると、音量が下がった。また別のワイヤ同士を触れ合わせる。火花・・・エンジンが始動した。
チャンは信じがたい思いで見つめた。
『どうしてそんなやり方を知っている?』
少年は肩をすくめた。
『言いなさい――』
ウーがチャンの腕をつかんだ。
『行こう!ほかの者たちを迎えに行って、ここを離れなくては。ゴーストが私らを探している』
チャンは憤然と息子を見据えた。息子は自分を恥じて目を伏せるものと思った。ところがウィリアムは冷ややかな目で父親を見返したではないか。チャン自身は、あんな目を自分の父親に向けたことは一度もない。若い頃も、今も。

(中略)

車の中で、ウィリアムは小型の地図帳を見つけ、丹念に調べていた。まるで道順を暗記するかのように頷いている。
キーなしでエンジンをかけたことについて問い詰めたい気持ちを抑えて、チャンは息子に尋ねた。
『道は分かるか』
『うん、何とか』少年が顔を上げた。
『僕が運転しようか?』
そう訊いてぶっきらぼうに付け加える。
『ほら、父さんはあまり運転がうまくないから』
中国の大都市の住民の例に漏れず、チャンの主な移動手段は自転車だった。

チャンは息子の言葉に衝撃を受けたように瞬きをした―またしてもあの尊大ともいえる態度。そのとき、ウーがほかの移民たちを連れて現れた。チャンは妻と老父に駆け寄り、手を貸してミニバスに乗せると、息子のほうを振り返って大声で答えた。

『よし、お前が運転しなさい』
『石の猿』第一部 蛇頭より


反抗期を迎えて勝気で好奇心の旺盛なウィリアムは、父親の知らないところで様々な世間知を身に付け、犯罪の匂いのする道具を持ち、怪しげな技術を身につけている。
その事に対する不信感がサムをとらえ、ゴーストからの逃亡の役に立たない父親を軽視する不遜な態度に憤りを覚えるも、ウィリアムの助けを必要とせざるを得ない情況がある。
そして、深く刻まれた親子の間の亀裂が少しずつ埋められていく過程が、逃亡と再生の物語を通して丹精に描かれていくところが小説としての魅力を高めている。

尊大や不遜といった感覚を現代日本に生きる私達が抱くのはどんな場面だろうか?尊大や不遜や過剰な自信は確かに東洋の伝統的な道徳観ではあまり望ましくない態度を象徴するが、私達は他者の内面への洞察や思いやりを忘却すると傲岸不遜な態度に陥り相手を傷つけることがある。
また、経済的な役割関係の場面で、サービス業に従事する人の丁寧な対応や態度に甘えて、ついつい愛想のない配慮に欠けた言葉や態度を取ってしまうこともあるかもしれない。
相手を自らと同じ人間的な喜怒哀楽の感情を有する同胞として尊重する態度を維持していれば、尊大さや傲慢さの表出を抑えることが出来る。
謙譲の美徳は、熾烈にしのぎを削る自由市場経済の競争関係の中では、自己表現の押し出しに欠ける為、不利であると言われるが、謙譲や抑制といった心理が全く欠けたエゴイズムの衝突ばかりの人間関係は殺伐とし過ぎていて魅力がない。

洗練された挙措振る舞いと丁寧な言葉のやり取りのある人間関係には、明澄な精神が純化されていくような清冽さと心地良さがある。
東洋思想の見直すべきところとは、他者の心情を柔らかに配慮する調和や異文化との共生につながる人間精神の柔軟さや利害を超越した関係性の洗練熟成ではないかとふと考えた。