奈良市の小1女児誘拐殺害事件と擬似児童ポルノ商品群の問題:大人になるという事とは何か?

奈良市で有山楓ちゃん(7)が殺された小1女児誘拐殺害事件の容疑者として、元毎日新聞販売所従業員の小林薫(36)が逮捕された事は記憶に新しい。
この誘拐殺害事件の起こった社会的背景を考察し、小林薫容疑者の心的発達過程と環境的要因、そして、事件に直結した特異な性嗜好と無情な加虐性について分析的に語ってみようと考えていた。
しかし、事件の深刻性を鑑みて軽々しく表層的に言及する事の副作用を考え、躊躇していたのもまた事実である。
児童に対する強制わいせつ事件ならば、まだ生命が奪われていない為に心理的ケアや社会的対応によって改善の余地があるのだが、楓ちゃんは殺されてしまいどのような手段を用いても再び元気な姿を見ることは出来ない。

無実の人間一人の生命を恣意的に奪う事は、苦痛や恐怖を感じる人間主体を自らの欲望に基づいて痛めつけ殺す事であり、被害者の精神内界に浮かぶ一つの世界全体を末梢する事である。
『死』は、生命を持つ存在の終局であり、言語によって語られる“象徴界を飛躍した事象”であり、経験的な表象によって了解されるより他ない死せる当事者にとって“一回性の事態”である。
祖父母や両親・親戚、友人知人の死を私達は、傍観者として経験的に知覚し、その内容を『回復しない生の終焉』として認識する。
しかし、飽くまで『死』の表象は、経験と言語によって支えられた“他者の現実”を共感的に“自己の現実”へと拡大し適用したものである。


『死』は、言語の論理法則によってその内実を語り得ない事柄であると同時に、私達は愛すべき者の死を前にしては、ウィトゲンシュタインの語るように『沈黙しなければならない』のではないかと思う。
『他者の死』に対する共感的な想像力が欠如し、将来の自己の死と死にまつわる苦痛のイメージ(表象)を他者に当て嵌める事の出来ない『閉鎖的で独善的な精神構造』が、小林薫容疑者や種々の快楽殺人者や連続殺人者にはあるように思える。
彼らはおそらく、社会的な関係性によって一人の死の悲しみや痛みが無数の人々に散種され、拡大していくことを理解できないのではないだろうか?
人間の生命と存在は、その個人一人で閉じているわけではない、少なくとも私達は愛する者の死には目に涙し深い悲しみに浸るものであり、遠く離れた他人の死でもその死が不条理であればあるほど、強い憤りや深い悲嘆や無力感を覚えるのである。


あるいは、『エロス(生の欲望)』の枯渇によって『タナトス(死の欲望)』が精神内界を圧倒的に侵犯して、その結果として『生きながらに死んでいるような現実感覚の喪失』が小林薫容疑者を襲ったのだろうか。
自分一人だけで世界を生きていて、他の人間は世界を構成する機械仕掛けの登場人物であるかのような現実感覚の喪失感を有していて、道徳的な善悪判断や欲望の自制が出来ない人物の場合には、夢見ごこちで欲望の命じるままに殺害を実行して罪悪感を全く感じないという事も可能なように思える。

私は、過去の幼女連続殺人事件としてその異常性ばかりがクローズアップし社会を凍りつかせた宮崎勤の精神鑑定報告を見た時にも、統合失調症精神分裂病)でもなく、反社会性人格障害でもない、『抜け殻のような生気が失せた現実感覚の喪失と他者の存在の無視』を強く感じた。
無論、精神の病理性の水準は明らかに小林薫よりも宮崎勤のほうが高く、完全な社会的活動からの離脱とマニアックなポルノや残虐映像への耽溺によって宮崎勤の生活の大部分は成り立っており、正常な人には理解不可能な儀式的な反社会的行動や残虐な死体損壊や死体愛好癖などを見るに、現実認知能力や情緒関係機能に何らかの深刻な障害を来した精神病圏に限りなく近い状態を呈しているように思える。

非社会的な自閉的世界に閉じ篭り続けた宮崎勤と対照的に、小林薫は、新聞配達業の仕事をこなして社会参加を行い、逮捕直前までスナックに飲みに出かけて、ママや常連客と普通に談笑したりしている事やこれまでの供述などから現実判断能力を喪失するような深刻な精神病症状は全く見られないと判断してよいように思える。
その事から、精神病理による犯罪の実行という見方は全く間違っており、性格の異常や嗜好の偏り、衝動性の制御困難といった人格障害的な見方になってくるのだろうが、長い人生の生活経験の過程の中でゆっくりと犯罪につながるような人格や嗜好の歪みが強められていったと推察できる。


当該事件における小林容疑者の行動から窺い知る事の出来る精神発達過程や嗜好形成過程を綿密に調査し、分析的に読み解く事で、現代社会の商業主義の歪みや個人の内面心理の歪曲過程の一端を明らかにすることが出来るかもしれないという思いがある。

そういった犯罪事象を対象として行う丁寧な心理学的作業の成果を通して、今後の日本における性に関連する商品・経済・情報・流通の自由と規制のあり方(バランス)を真剣に考える際の一助になれば幸いであるし、加害者・被害者双方に大きな心理的・社会的デメリットを与える『児童に対する性犯罪』を未然に抑止する必要を現代社会に生きる私達一人一人が痛切に胸に刻まなければならない。

前近代的な不適切な言語の用法として、『児童に対する性的ないたずら』という用法があるが、成人女性であるから強制わいせつでありレイプなのではなく、児童に対する性的な強制行為であっても、“いたずら”という軽薄なあやふやな言葉で煙に巻くべきではない。
いたずらは、悪戯と漢字で表記されるように、つい魔が差してしまって、悪ふざけをしてしまったとか悪気はないのに、何となく戯れでその行為を行ってしまったというような、主体責任の曖昧化や倫理的な悪性の緩和や低減を図ろうとする雰囲気があり、幼少期の児童に対する性犯罪や性暴力を真剣な議論の俎上に乗せる事を阻もうとする意図が背後にある。

性暴力や性犯罪によって受ける心理的に深刻かつ重篤な傷であるトラウマは、幼少期に受けたからといって年月の経過と共に自然消滅するわけではないことを国民全てが理解し、子どもが安心して生活できる地域環境、子ども達が外に出て、思いっきり友達と遊べる安全な社会を築く努力を怠ってはならないだろう。
加速する少子高齢化の中にあって、子どもは未来の希望を象徴するメタファーとして国民全てに保護され健全な成長を保障されるべきであって、歪んだ大人の欲望が向けられる性の対象とされることを抑止していかなければならない。

幼少期の性的虐待や性暴力によって刻まれるトラウマが主要な原因となって、症状を形成し発病する精神疾患として代表的なものに『解離性障害』や『PTSD(心的外傷後ストレス障害)』がある。
解離性同一性障害多重人格障害)を発症する原因として最も多いのが、幼少期の性的虐待や性暴力によるトラウマの被害であり、自我意識の心的機能の統合性が解体して、複数の人格を作り上げてトラウマの苦痛や怒りを分有して負担を軽減したり、過去の耐え難い苦悩や恐怖の記憶を一部分喪失して解離性の健忘を起こしたりする。

レイプ(強姦)や強制わいせつといった性犯罪が卑劣で許し難い犯罪だというのは、その被害者の一生を左右するほどの精神的な脆弱性や不安定性の素地を形成し、情緒の錯乱や人格統合の障害を生み出して、相当な長期間にわたって苦しめ続けるからである。
社会的・心理的・経済的なダメージは大きく、本来なら手に入れられたはずの幸福や平穏が、様々な精神症状やそれに付随する身体の不調によって脅かされることとなる。
性被害の結果、異性との性関係に対する根底的な恐怖感が生まれて、円滑な恋愛や幸せな夫婦生活を妨げられているケースは非常に多く、不感症・冷感症や性の頑強な嫌悪と拒否によるセックスレスという心理的・対人関係的問題の背景には、本人が意識化することを拒んでいる過去の性被害が存在することが多い。


歪んだ一部大人の性的欲望の犠牲にならないように子どもを守るといっても、実効性の乏しい性善説の理想主義を掲げるのは無意味な徒労に過ぎず、現代社会の性愛の傾向として“性対象の低年齢化”の現象が目に見えて活性化しているという事実から目を背ける訳にはいかない。
私は、元々、個人的な価値観や思想信条、表現活動、集会結社、趣味嗜好といった政治的な人格的自由を最大限に尊重すべしという立場であるが、自由主義の黄金律として『他者危害原則』がある事を忘却してはならないと考えている。
ロリコンや痴漢、露出、レイプといった性的な趣味嗜好を満たす為の商品・情報の流通販売は、擬似的な演技や漫画、アニメ、フィギュアといった様々な情報伝達形態を取れば、現在の日本では基本的に全く自由である。

ここでは、児童ポルノ規制から漫画・アニメ・官能小説の内容にまで表現の自由に規制を加えるべきかと言った一般的に有害とされる情報や商品の規制について語るつもりはないし、私は、私以外の人の理性や良識を信頼できないというほどに疑心暗鬼に陥っている訳でもないので、基本的に実際の小児・児童生徒を被写体として用いた児童ポルノ以外は厳密に取り締まる必要はないと考えている。
また、自由主義の理念に照らして思想信条、趣味嗜好の内容を表現する自由を原則として認めるべきだと考えると同時に、インターネットを中心とする様々な性嗜好情報の流通を取り締まるのは技術的に困難だとも思う。

上記したように、私は現状では漫画・アニメ・イラストといった表現方法による擬似児童ポルノは厳密に取り締まって処罰する必要はないのではないかと述べたが、これは、『精神内界の想像・空想・妄想による快楽』と『現実世界の性的接触・性交・鑑賞による快楽』を厳格に自制的に峻別する道徳的理性(エートス)が諸個人に備わっているという前提の元に述べている。
粛然とした義務論を説く道徳論者であれば、『擬似的に児童ポルノを鑑賞したいという欲望そのものが、道徳的に間違っている悪しき欲望である』として、道徳的理性(エートス)を備えている精神の持ち主は、そういった商品・サービス・情報を規制すべきと考えるはずだというかもしれない。
倫理判断の万人に通用する普遍妥当性を探れば、『擬似児童ポルノ関連商品は出来るだけ流通させないほうがよい』と言ったラインに落ち着くように思えるが、擬似児童ポルノ関連商品と性犯罪との有意な因果関係を統計学的に立証する具体的な調査方法が無い為に、法律で規制するという強制的な趣味の抑圧に関してはもう少し踏み込んだ科学的なエビデンスのある調査と統計のデータが必要であるように思える。

売買春や性風俗産業やAVビデオは、社会構成員の中に様々な理由によって満たされず鬱積する性的欲動(リビドー)の『反社会的な行動化(アクティング・アウト)』を抑制する為に必要なものであるが、擬似児童ポルノ関連商品群はそれと同じ次元で個人的な趣味に基づく性的欲動を充足させる為に必要なものといえるのかどうか?
AVビデオで、18歳以上ではあるが童顔である女優を用いてロリコン趣味の層を狙ったビデオを製作販売している場合、そのAVビデオとアニメ・漫画などの擬似児童ポルノの境界線はおそらく引く事が出来ないだろう。
現在もそしておそらく将来も、意識の主観的な内容や表象、その思考過程や欲求の生起と充足を行動主義心理学の説く理想的な形で外部観察する事は出来ない。
ロリコン・少女・幼女という言語”を取り締まって、“年齢・場面設定・犯罪性のある描写”を取り締まれば良いのかと言えば、そういった無益な言葉狩り言論弾圧の検閲のような旧態的な手法はおそらく役に立たないように思える。
役に立つとするならば、一切の性的表現をアニメや漫画に盛り込むことを禁止するという完全な表現の自由の抑圧といった行き過ぎた自由社会に相応しくない形になるだろう。
こういった事態を回避する為には、そういったポルノ文化の嗜好者達が社会不安を与えるような犯罪を犯さない事が最も有効な方法である事は論をまたない。


普通のAVビデオであっても、普通のポルノ漫画やアニメであっても、その鑑賞者が映像や画像をどのように認知して解釈し、性的な快楽に変えているのかの認知過程によって、当該ポルノ商品群が擬似児童ポルノとして消費されているかどうかが規定されてくる。
ただ、アニメ・漫画の場合には、明らかに児童を登場人物として情況設定している場合には、そういったロリコン、幼児性愛の方向に認知を暗黙裡に誘導している可能性は否定できない。
おそらく、そういった有害情報が、認知過程を誘導して趣味嗜好のベクトルを規定していく影響や現実と想像の快楽の区別を見失わせ、実際の性犯罪へと駆り立てる衝動性の形成には大きな個人差があるに違いない。

しかし、アニメや漫画は実際の人間ではなく、漫画家の想像と発想によって創作されたものであり、その年齢を描かれた漫画の絵からだけで推測するには限界があるし、作者が18歳と設定しているのに、これは13歳にしか見えないと検閲者が指弾する事には合理的客観的な判断基準が存在せず、恣意的な生理的嫌悪に基づく取締りを横行させる危険性があり、言論の自由の保護の原則を揺るがすかもしれない。
擬似児童ポルノを拡大解釈的に禁止するならば、性的な描写を含むアニメ・漫画全般が規制される事につながる可能性もある。
リアルな児童ポルノは厳密に取締り、犯罪者は厳しく罰するべきだが、バーチャルな児童ポルノの取り扱いをどのようにすべきなのかは各方面の議論や調査が必要だろう。
大部分の人間は、ポルノ商品群によって、現実世界の犯罪行為に突き動かされるわけではないが、どうしても一定の割合でそういった商品群に影響されて性犯罪を犯す人たちが現れる。

私は、児童ポルノを擬似的に想像で楽しむ事の是非に関しては、想像の範囲内であれば咎められたり、処罰されるべきではないと考えるのだが、心の何処かで、前言した『擬似児童ポルノの規制の不必要性』を翻すような道徳的な感覚や倫理判断の誘惑に駆られていることも事実である。

それは、児童を性的な玩具として取り扱う性的嗜好や加虐趣味が、本人が生活経験の中で作り出した想像や妄想を起源としているのではなく、社会に氾濫しているその種の擬似児童ポルノによって幼女や児童生徒に対する性的好奇心や性的欲求が動機付けられている可能性が、認知療法などの知見から考えて極めて高いからである。

『人間の行動がどのようにして生まれるのか』に関する認知心理学の大雑把な理論的枠組みは、『認知→情動→行動』という心的過程の段階を経て行動に移されるというものである。
擬似児童ポルノを認知することによって、そのポルノ映像や画像がインセンティブ(誘引)となって、実際の児童性愛の行動に走ることがないとは心理学的・行動科学的にはとても断言することが出来ない。
なぜなら、認知が行動を誘発する要因になる可能性は十分に高いし、私たちは目にするものを意味ある記号として受け取って、それに対してどのような態度や対応を取るかを無意識的に選択し決定している。
認知が行動に全く影響を与えないというならば、資本主義の商品経済はそもそも成立しないし、テレビCMの販売促進効果なども期待できないという事になってしまう。

想像の領域にある欲望やその充足を、実際の行動に移すか移さないかの境界線は、最終的にはその人の自由意志や道徳的理性と呼ばれる自制心に委ねられるわけだが、『外部世界にある事象を、自分にとって何らかの意味を持つ記号として認知する時に生じる情動の適切な処理』を私たち一人一人が人生の成長過程を通して、成人するまでに確実に学習し獲得することが望まれる。

ポルノ商品群を合法的に視聴できる年齢になるまでに、『認知から生じる情動を行動につなげてよいのか、行動につなげてはいけないのかを判断し、判断するだけでなくその判断を的確に行動と行動の中止に結び付けられるようにしていなくてはならない』と私は考えている。
もし、そういった認知・情動・行動の行動メカニズムの制御の十分な学習が出来ていないのであれば、年齢によってポルノ商品群の視聴を禁止していることの実効性は何もなくなってしまうであろう。
『大人であるから、ポルノ商品群を視聴してもよい』と法律で規定されているのは、『大人であれば、行動につながっていく認知過程を適切に制御することが出来る』と公的に認可されている為である。

私たち国民は、年齢的に大人になるだけではなく、精神機能的に大人になることを学ばなくてはならないし、それこそが社会人の責務の根幹であり、自己責任能力と呼ばれるものの本質なのである。


世間一般の異質性を排除して、ロリコンやレイプ常習者や痴漢や覗きを『変態・異常者』といった内容空疎なレッテル貼りを行う事で、人間精神や経済システムや社会構造が抱える本質的な問題を隠蔽したのでは本末転倒である。
人間の性愛の方向性に大きな影響を与える主要な要素は何であるのかを自分の精神に自問自答し、その要素を認知して取り込んでもなおあなたは正常な理性的判断や道徳的責任を果たす事ができるかどうかを深く考える必要がある。
様々な性嗜好が存在するという性愛の多様性や特殊性を、私達は自由主義社会の一員として当然容認するが、それは他の人たちが適切な精神機能と衝動性の制御という『大人の資格と能力』を持っていると信頼しているからであることをゆめゆめ忘れてはならない。
道徳的に好ましくはないが、個人の趣味や嗜好としては容認して問題ないと考えられている事柄の自由を守るも奪われるも、その趣味や嗜好の持ち主の行動如何に掛かっている事もまた事実である。

俗に言うロリコンロリータ・コンプレックス)の拡大の問題は、誘拐・強制わいせつ・公然わいせつ・殺人などの刑法に抵触する犯罪行為と安易に結びつけて議論することをタブーとするのではなく、もっと広範かつ長大な射程を持って人間精神と資本主義経済、現代社会構造の相互的な関係の産物として検証していかなければならない。

この卑劣な女児誘拐殺害事件が、世間に大きな衝撃を与え、子どもを持つ親達を動揺させ恐怖させたのは、その犯罪内容の異常性からであった。

また、時間のある時に、犯罪内容を振り返りながら小林薫容疑者の精神過程を考察し、性嗜好障害の判断基準や性欲傾向に正常・異常の区別をつけることの問題についても考えていきたい。


私の個人的見解ですが、擬似児童ポルノから受ける有害な影響の度合いは、その人が生身の他者とのコミュニケーションスキルをきちんと熟達させてきているか、現実社会場面からの心理的撤退の補償として欲望の捌け口として児童性愛を嗜好していないかといった事に依拠してくるのではないかと思います。

現実社会との接点や他者との意思疎通を見失った現実感覚の乏しい状態で、児童ポルノ商品群に深く耽溺することには危険性がつきまとうということと、『実際の行動面において、幼児を自然に目で追いかけてしまうだとか、用事もないのに小中学校の付近を徘徊するだとか、幼児を見れば性的な衝動が反射的に湧き起こる』といった自己制御できない認知過程が起きていないかを絶えず自己言及的に査定する必要もあるのではないかと思います。
『自分はどれだけ有害情報を浴びても大丈夫』という慢心は、人間の『自己に有利な解釈をする認知傾向』によって避け難いものでもありますが、各種の劣情や攻撃性を刺激する過激な情報に接する時や接した後には、『自分の情動や行動に何らかの興奮や陶酔などの影響が出ていないか』をチェックすることで精神の機能が十全に働いているかを確認することが出来ます。