現代における“正義の戦争”と“戦争の日常化”による倫理の頽落


確かに、現代の流動的で多様性に満ちた国内社会や国際社会の環境下にあっては、インマヌエル・カントの『汝の人格及びあらゆる他者の人格における人間性を常に同時に“目的”として取り扱い、決して単に手段としてのみ取り扱う事のないように行為せよ』という人間の定言命法への自発的な従属を素朴に信じる理想論には、ホッブズの説く力学的な世界観『万人の万人に対する闘争』以上の説得力を感じることは難しいかもしれません。

カントは、人間理性の本来的な自律性(autonomy)をただひたすらに信じました。
それは、端的に言えば、自分自身の内面に向けて真摯に事の善悪を問い掛けてみれば『きっと誰もが同じ倫理的善悪を感じ取り、悪しき行為はしないように自制できるはずだ』という性善説的な人間観に支えられています。
私も、基本的には性悪説よりも性善説に魅力を感じますし、自分の生活範囲の中で出会う他者の大多数は人間理性の自律性と自己立法の能力(善悪を自分で分別して行為する)を持っているように感じますが、カントが語るような『普遍的道徳律の存在こそが人間の自由意志の根拠である』といった清浄である種の聖性を抱かせるような厳格な善悪観は、仮に存在するとしても、そこに万人に共通する普遍性は見いだし難いのではないかと思います。

確かに、誰もが殺されたくないし、傷つけられたくないし、愛する相手を守ってあげたいし、自分の大切なモノや豊かさは持ち続けたいのですが、そういったある程度普遍的な人間の感情や欲求というものがあればこそ、自己と他者の利益・権力を巡る闘争が起こるとも解釈できるわけです。
しかし、前述した他者の存在そのものを目的として扱っていこうとする『目的の王国』的な価値観をもう少し和らげて、他者の存在を尊重することで利他と利己の統合を図るような対話的アプローチを行動の第一選択とするという事は、教育・福祉などの政治制度や国家間の条約、幼少期からの他者との関わり合いに対する躾などを通して実現できる可能性は十分にあるかもしれません。

如何に、人間が利害関係や信念・価値観の衝突によって争い合いやすい性質や傾向を持っているとしても、人間は人間に対して狼であるべきではないし、機械論的自然観・国家観をもって自然法に隷従する機械的自我であるべきでもないでしょう。
初めから万人闘争による力学的秩序以外に選択肢はないのだといった絶対王政期のような覇権的世界観に陥るのではなく、『永久平和のために』という理念そのものを尊重しながら可能な領域から闘争や対立の平和的解決法を模索する必要があると考えます。


しかし、ネグリは、ここまでの私のマルチチュード的な平和追求の思考こそが、現代グローバリズムの<帝国>の権力作用に法的な根拠付けを与えると語ります。
帝国の概念を古代に実在したローマ帝国にまで遡り、<帝国>は、ローマ帝国のような実在的な帝国ではないが、<帝国>を支える法的根拠は、多様性を持つ諸価値の集積を何らかの形で具現化したものであると述べて、その具現化したものを『倫理的なものと法的なものが一致した極限の普遍性を持つもの=万人に対する平和と正義』として呈示します。

<帝国>には恒常的な平和が存在し、<帝国>では全ての人々に正義が保証されていて、その完全無謬の普遍的秩序は、まるで一人の指揮者が指揮するグローバルなオーケストラのように機械的に維持されていきます。

これらの目的を達するために、こうした唯一の権力に対して、その境界においては野蛮人に抗し、その内部においては反逆者に抗すべく、必要とあれば『正戦(正義の戦争)』を指揮することのできる不可欠の軍事力が授けられるのだ。

(中略)

第一の傾向は文明とみなしうる空間全体を包摂するような新たな秩序の構築、無限の普遍的空間の構築において確約されるような法権利の概念である。そして、第二の傾向は、その倫理的基盤の内部に全ての時間を包含するような法権利の概念である。
<帝国>は歴史的時間を汲み付くし、歴史を宙吊りにし、それ自身の倫理的秩序の中に過去と未来を呼び集める。
言い換えれば、<帝国>はその秩序を、永続的・永遠的・必然的なものとして提示するのだ。

そして、私がこの記事の前半部分で書いた、国際平和秩序の維持の為の国際機関や法体系の整備などについて、ネグリは以下のように語り、理性(法体系)と倫理(悪の排除)という概念的図式が前景にせりだしてきたと言う。


その試みは、国民国家とその市民社会の内部で秩序を保証しようとした契約論的メカニズムとの類比に依拠しながら、主権国家間で国際的な秩序を構築するような条約メカニズムを模索することを通してなされたのであった。
また、その際、グロティウスからプーフェンドルフにいたる思想家たちは、形式的な見地からこのプロセスを理論化したのである。第二のケースにおいては、『永遠平和』という理念が、ベルナルダン・ド・サン=ピエールからイマヌエル・カントにいたるまで、近代ヨーロッパを通じて繰り返し現れたのであった。

(中略)

(理性と倫理を巡る近代的な二者択一の問題に際して:cosmo_sophyの補足)ひとつは、法的諸力間の平和的協調とそれが市場における協調に取って代わられることにもとづく、自由主義イデオロギーのことであり、そしてもうひとつは、闘争の組織化とそれが法権利に取って代わられることを通じてもたらされる国際的統一に焦点を合わせた、社会主義イデオロギーのことである。

(中略)

伝統的に正戦(正義の戦争)の概念は、ある国家がその領土保全や政治的独立が脅かされるような攻撃の脅威に直面していると感じたときに、その国家は交戦権を有するという考えに、主として基づいている。たしかに、近代性、もっと正確に言えば近代的世俗主義が、中世的伝統から『正戦』を抹消すべく懸命に取り組んだことを思い起こすなら、この『正戦』という概念に再び関心が集まるようになったという事実は、私たちをかなり困惑させるものであるに違いない。
正戦という伝統的概念には、戦争の日常化と倫理的手段としてそれを称揚することが含まれているが、それらはともに、近代の政治思想と諸々の国民国家なる国際的共同体が断固として拒絶した考えに他ならなかったのだ。
しかるに、それら二つの伝統的な特質が私たちのポスト近代的世界にまた姿を現したのである。ただし、その場合、戦争が警察行動(police action)という地位に還元される一方で、戦争を通して倫理的機能を正当に行使する新しい権力が聖化されることになる。

私が、この引用部分から読み取るべきだと考える危機的メッセージは、古代や中世の『共同体の生存闘争としての自衛戦争』にとって代わった、<帝国>維持の為のセキュリティ戦争、つまり、『警察行動化=正義の戦争』が一般化する危険です。
軍事的な国家が掲げる『正義の戦争』という大義名分の欺瞞性には注意が向きやすい私たちも、日常生活の中で社会秩序を維持する為の公安活動や警察活動にはあまり抵抗を感じにくい認知の傾向があります。

分かりやすい例でいえば、街中に警察官が制服を着て、拳銃を携帯してパトロールをしていても、私たちは、犯罪を犯した後でも無い限りは、危険や心配ではなく安全や安心を感じる確率が高いでしょう。
以前、監視社会の成立というテーマで問題になりましたが、歌舞伎町などの繁華街に防犯の為の監視カメラを取り付けることにも、犯罪者ではない大部分の人たちは『安全の為なら仕方ない』という比較的寛容な態度を取りました。

しかし、街中に軍服を着た自衛隊員や軍人が拳銃を携帯して歩いていたり、軍用の装甲車が道路を走っていたりすると、幾ら防衛庁・軍部が治安活動のみを目的としているといっても、『何事か、悪い政治的変化が起こったのではないか?』と途端に恐怖や不安を感じ、警戒心を強くして身構えるのではないでしょうか。
戦争や戦時下の厳戒令体制は、倫理的に許されないことであり、残酷で非人道的だが、警察活動は、積極的に推進すべきもので、私たちの生活の安全や安心を守ってくれるものだというある種の刷り込みが、現代の正戦に関する反戦運動や平和希求の願いをスポイルしていくというのが、ネグリの文章から読み取れる『現代戦争の日常化』というものなのです。

リアルタイムで私たちが経験した冷戦以後の現代戦争で、記憶に新しいものとしては、アメリカが主導した湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争があります。そして、それらは全て同じ種類の正義、『世界秩序の脅威に対する正義と国際平和と自由世界の確立』を掲げて戦われたセキュリティ戦争でした。

無法者国家に対する安全保障というセキュリティ意識の高まりが、私たちに外部の敵・犯罪者・テロリストに備えて武装することを正当化させます。
軍事力強化が国際常識であり、凶暴な敵から身を守る為の武装は、倫理的にも間違ってはいないのだという意識を国民が強く持つようになることへとつながります。

アメリカのブッシュ大統領であれば、『自由世界の秩序を乱す危険なテロリストには、先制攻撃も止むを得ない』という正義の戦争の大義名分を掲げる事になるでしょう。
そして、戦争遂行にまつわる倫理的悪性の免罪符を『世界の警察治安活動』という名目で受け取る事になります。

実際に、ブッシュ大統領アメリカ国民の過半から現在も支持されていて、その結果、先の大統領選挙で再選されました。
少なからぬアメリカ国民は、ブッシュ大統領は、諸外国のリーダーには実行できない倫理的に正しい戦争を遂行し、世界平和を乱す危険極まりないイラクの独裁者サダム・フセインとその一族を打倒した英雄的人物であると認識しているのです。

自分達が所属する国家や集団、勢力の安全保障という軍備正当化の根拠は、私たちが敵と見なす勢力にとっても、武装正当化・軍備正統性の論拠と成りうるものであり、実際、ブッシュ大統領から『悪の枢軸』と名指しされた北朝鮮もイランも自衛戦争という大義を掲げて軍事力を増強しています。

現代社会では、自由主義や民主主義や人権思想に違背するものは、倫理的に悪しき人間であり勢力という判断がほぼ確定的なものとして下されます。
その結果、現代社会の倫理判断の主流として採用される帰結主義的な功利主義では、『結果として得られる平和や秩序が大多数の自由民主主義圏の国民に利益をもたらすならば、少数のテロリストや無法者を軍事的に制圧してもよい』という意見が正当化される可能性が大きくなります。
現段階でも圧倒的な実力をもって、戦争は『正戦』という解釈で正当化されている事実があるのです。

もちろん、自由主義も民主主義も人権思想も、どれ一つとして軽視してよいものではありませんし、それらは、我々人類が、悠久の年月を費やし、夥しい血と汗を流して築いてきた現段階の政治体制で実現し得る最善の思想であり、政治形態であると言っても過言ではありません。
しかし、平和や正義の敵という一部の無法者を征伐する為に、無関係な市民を何千人という単位で殺害してよいという帰結主義的な功利主義による政治判断は安直に過ぎるという印象がどうしても拭いきれません。

事前予測に基づく帰結主義の危うさは、理想的政治形態を目標として、無数の反体制家を粛清した旧ソ連カンボジアポルポト派などにも典型的です。
こういった種類の『目的は手段を正当化する』という論理による世論の誘導は、歴史を振り返ると、意外に抵抗なく受け入れられる場合が多いので、目的到達の為にどれくらいの犠牲がでるのかという手段の慎重な検討を忘れてはならないでしょう。
何より、その理想実現の為の犠牲となる人命は、自分と変わらない生身の血の流れた痛みを感じる人間なのだという認識を無視してはいけないでしょう。

大国の指導者の生命や大国の兵士の生命が、独裁国家の兵士や一般人の生命よりも尊いという倫理判断は、人権思想の“人命の普遍的平等性の原理”から成り立ちません。
『目的による手段の正当化』には最大限の抑制と熟慮を求めたいと思います。

しかし、『正戦(正義の戦争)』という概念や注目が生き続けている間は、私たちの戦争行動に対する懸念や嫌悪、回避の欲求が完全に途絶えてしまうという心配は要らないでしょう。

最も憂慮すべき危険な事態とは、『正戦』が『局所的な治安活動・警察活動による違法者の弾圧』という形に矮小化されて変質された時点において生じるのではないかと考えています。
そして、そういった正戦への徹底した無関心と日常的事件化が、ネグリの言う戦争の日常化であり、戦争のニュースが、日常の窃盗や強盗などの事件と同列に扱われて埋没していくという段階において、『倫理の頽落』を迎えることになるのかもしれません。