小川洋子『博士の愛した数式』を読んで:永遠の真理と愛



博士の愛した数式

書籍:博士の愛した数式
著者:小川洋子
出版:新潮社



小川洋子という女流作家の小説を、偶然、手に取って読んでみました。
博士の愛した数式』の書籍はそれほど重厚ではないので、気軽に比較的短時間で読み終えることが出来ます。小川さんの文章は、綿密な語彙の選択がなされている印象を受け、論理的で無駄のない語りなのに非常にこなれていて読みやすく感じました。
読む人の視線を自然に加速させるような独特のリズムや表現、読むスピードに合わせて違和感無く物語りの内容が心に染み渡っていくような物書きの熟達した文章を楽しめることが、フィクションの小説や文学ならではの魅力です。

何故、この名前も知らなかった作家の小説に惹かれたのかの理由は、明瞭な形で意識できるものではありませんが、そのタイトルに含まれているアカデミズムの象徴としての“博士”と記号で論理形式を表現する“数式”という言葉に感興を惹かれたのかもしれません。

これが、フェルマーの最終定理を題材にしたフェルマーの評伝*1だとか、コンピューター数学の基礎を量子力学の知見を利用して確立した天才ジョン・フォン・ノイマンの生涯を記述したものであれば、どのような内容が書かれているかの粗筋が事前に窺い知れます。
しかし、小説という創作の形式ですと作家個人の想像力と構成力によって“主観的な作品世界と人間関係が構築”されるので読んでみなければどのような場面構成と場面転回の流れの中で物語が紡がれていくのかが分からないという面白さや感動がありますね。

書物を読んで得られる客観性・信頼性・有用性という情報理論的な価値判断の束縛から逃れ出られるところに小説や映画、詩文、エッセイなどの比類なき光彩があります。
何より、人間精神を愛撫する充溢の多くは、現実世界での行動と行動の帰結と同等以上に、継続的な表象(イメージ)を意味と結びつける観念世界から得られるものなのです。

そういった表象と意味の連結の中で、人間精神を強く揺さぶり、鬱屈した感情や気分を解放するカタルシスの役割を果たす典型的な類型は古代ギリシア演劇の悲劇・喜劇の中で既に追求されてきたわけですが、ギリシア悲劇・喜劇の歴史的発展と人間精神の相関についてはいつか話すとして、とりあえず『博士の愛した数式』の内容を掻い摘みながら読中の感想と読後の余韻について思い浮かぶままに書いてみたいと思います。


この物語には、ミステリー小説のような不可能犯罪を連想させる複雑怪奇なトリックや謎解きは用意されていないし、社会派サスペンスのように犯罪の動機に絡めて読者に特定の問題意識に気付かせるようなテーマもありません。
場面や情景の切り替えも殆どなく、全篇を通して、三人の登場人物の生活と交流が、数学の話題を基点にしながら淡々と綴られていきます。

三人の登場人物とは、数学科の元大学教授の“博士”と博士の日常生活の世話をする家政婦の“私”、そして、私の小学生の息子である“√(ルート)”です。
物語の始まりは、“私”があけぼの家政婦紹介組合から、他の家政婦が長続きしない面倒な問題を抱えた博士の家へと派遣されるところから始まります。
そして、物語は絶えず“私”の視点から、私の日記のような体裁をとって日常生活の記録のように紡がれていきます。

博士は、1975年の交通事故によって脳を損傷して、前向性健忘(anterograde amnesia)という記憶障害の状態になっているので、今から80分間の出来事しか記憶できません。
前向性健忘は、事故やトラウマなどによって過去の記憶を喪失してしまう逆向性健忘とは違って、現在から未来に向けての記憶能力の障害であり、損傷や発病以前の過去の記憶はしっかりとしているのですが、損傷以後の新しい記憶を積み重ねていくことが出来ない状態になります。
その為、“私”と“博士”は、毎日毎日、初対面の挨拶をしてから、お互いの関係を一からやり直していかなければなりません。挨拶の後には、毎回同じような博士の数字にまつわる質問と解釈から一日が始まっていきます。

博士の数字解釈というのは、『君の靴のサイズはいくつかね』『君の電話番号は何番かね』といった日常的な興味に基づくものなのですが、それに対する靴のサイズは24インチという答えに対して『ほお、実に潔い数字だ。4の階乗だ』と返したり、電話番号が576の1455ですという答えに対して『素晴らしいじゃないか。1億までの間に存在する素数の個数に等しい』というように専門的な知識を用いて率直に優雅に解釈を加えてきます。
こういった数字の解釈を、衒学的だとか、知的顕示欲の表れだとかいう風に悪く受け取ることのない“私”は、数学を真理探究の学として偏愛し、数が織り成す論理や規則の発見に生涯を捧げた博士の話す言葉を、心地良く運命を暗示するようなものとして受け取るようになっていきます。

博士は、絶対に忘れてはいけないと思う事柄『僕の記憶は80分しかもたないという』『解きかけの数学の問題の計算過程』『新しい家政婦さんの似顔絵』などをメモ紙に書きつけて、それをくたびれたスーツの上にクリップでたくさん留めています。

博士は、不幸な交通事故によって記憶障害を負ってから大学教授の職を失って、病気で死んだ兄の嫁に経済的な援助を受けながらも、唯一、自分に残された財産である数学の才能を使って賞金付きの数学問題を解いて細々とした収入を得ています。博士の生活パターンは固定的なもので、毎日、同じくたくたのダークスーツを着て、食事の時間以外の全ての時間は、書斎にこもって懸賞雑誌の数学問題と睨みあいながら数学的思索をめぐらしているのです。
博士は、家政婦との会話や食事・衣服の嗜好や実際の生活問題にはまるで頓着せず、ひたすら数学的な真理への接近の思索を偏愛していて、その思考過程を遮るような発言や騒音を耐え難い苦痛であると語りますが、唯一の例外は“子ども”で、博士は私の子ども“√”に対してだけはどれだけ自分の貴重な時間を割いても、他愛ない会話で思考を中断させられても不機嫌になることはなく、とても温和で楽しそうな姿を見せるのでした。
子どもを√と命名したのは、博士で頭のてっぺんがルート記号のように平らであるという単純な理由でしたが、ルート記号はあらゆる数字を包み込んで保護する寛容さと頑丈さの象徴であるといった意味もこめられています。

博士の根本的な理念は、世界の成り立ちや普遍的な真実は、数学的に解明して表現することが出来る、数学とは『世界の秩序や法則を知悉した神の手帳』を覗き見るような永遠に変わらない真理に接近することのできる唯一の道なのだというものであるようです。神の手帳という言葉から、全宇宙の歴史が遺漏なく書き記されているというオカルティックなアカシック・レコードや仏教思想の阿頼耶識を瞬発的に想起してしまいました。




『本当に正しい証明は、一分の隙もない完全な強固さとしなやかさが、矛盾せず調和しているものなのだ。たとえ間違ってはいなくても、うるさくて汚くて癇に障る証明は幾らでもある。分かるかい?なぜ星が美しいか、誰も説明できないのと同じように、数学の美を表現するのも困難だがね』
これほどたくさん話し掛けてくれる博士を白けさせたくなくて、私は洗い物の手を止め、うなずいた。

『君の誕生日は二月二十日。220、実にチャーミングな数字だ。そしてこれを見て欲しい。僕が大学時代、超越数論に関する論文で学長賞を獲った時にもらった賞品なんだが……』
博士は腕時計を外し、よく見えるよう私の目の前まで近づけた。彼のファッションセンスとは不釣り合いな、外国製の上等な時計だった。
『まあ、立派な賞をお獲りになったんですねえ』
『そんなことはどうでもよろしい。ここに刻んである数字が読めるかな』
文字盤の裏側に“学長賞 No.284”とあった。
『歴代284番めの栄誉ということでしょうか』
『恐らくそうなんだろう。問題なのは284だ。さあ、皿なんか洗っている場合じゃない。220と284なんだよ』

(中略)

『どちらも三桁で……うん、何と言っていいか……似通った数字じゃないでしょうか。大して違わないですよね。例えば、スーパーのお肉売り場で、合挽き220グラム入りのパックと、284グラム入りのパックがあったとしても、私にとっては同じようなものです。どっちでもいいから、日付の新しい方を買いますよ。ぱっと見た感じ、雰囲気が似ているんです。百の位は同じだし、どの位の数も偶数ですし……』
『鋭い観察だよ、君』
『直感は大事だ。カワセミが一瞬光る背びれに反応して、川面へ急降下するように、直感で数字をつかむんだ』

(中略)

『約数は知っているね』
『はい、たぶん。昔、習ったことがあるような気が……』
『220は1で割り切れる。220でも割り切れる。余りは出ない。だから、1と220は220の約数だ。自然数は必ず、1と自分自身を約数に持っている。さて、他には何で割れる?』
『2とか10とか……』
『その通り。ちゃんと分かっているじゃないか。では、220と284の約数で、自分自身を除いたものを書いてみよう。こんなふうに』

220:1,2,4,5,10,11,20,22,44,55,110
142,71,4,2,1:284

(中略)

博士は記号を書き加えていった。
220:1+2+4+5+10+11+20+22+44+55+110=
=142+71+4+2+1:284
『計算してごらん。ゆっくりで、構わないから』

(中略)

『はい、できました』
220:1+2+4+5+10+11+20+22+44+55+110=284
220=142+71+4+2+1:284
『正解だ。見てご覧、この素晴らしい一続きの数字の連なりを。220の約数の和は284。284の約数の和は220.友愛数だ。滅多に存在しない組合せだよ。フェルマーだってデカルトだって、1組ずつしか見つけられなかった。神の計らいを受けた絆で結ばれあった数字なんだ。美しいと思わないかい?君の誕生日と、僕の手首に刻まれた数字が、これほど見事なチェーンでつながり合っているなんて』
私たちはただの広告の紙に、いつまでも視線を落としていた。瞬く星を結んで夜空に星座を描くように、博士の書いた数字と、私の書いた数字が、淀みない一つの流れとなって巡っている様を目で追いかけていた。


この引用した箇所だけを見ると、まるで同世代の親密な男女の睦み合いや知的な口説き文句のような印象もありますが、博士と“私”には親子以上の年齢差があり、博士には異性に対する恋愛欲求などの特別な関心はありません。
博士は恋愛云々を語る以前に、どんなにロマンティックな雰囲気のある対話を交わそうと、二人だけの秘密の共有があろうと、80分以上の出来事を記憶できず、全ての経験は80分後には確実に消滅してしまい、その経験に伴う情動や感動も霧散してしまいます。
こういった形式の数字に人間的あるいは文学的な意味を付与するような会話が、この作品には頻繁に重要な場面で現れてきます。

友愛数完全数、双子素数…のような数学教師が授業の余興のサイドストーリーとして好んで語るような内容、数字に対する疎隔感を和らげて、無機的な数字をヒューマニスティックなものへと変質させようとするようなエピソードが好きな人は、博士と私、博士と√の数字を巡る関係性と関係性を根拠付ける数字解釈の会話を楽しく読めるのではないでしょうか。
そして、双方向的な親密感と相互理解を促進する“dialogue(対話)”こそ、この小説の主題であると私が考える“数的イデアの永遠性”を構成するメタローグ的な骨子と言えるでしょう。

友愛数によって結ばれた秘密の関係性というのは、主観的な感情や認知に影響されない、永続的な関係性のメタファーであり、“私”や博士の存在以前、人類の誕生以前から友愛的解釈の成立を約束された数の関係です。


数学や論理学は、後天的な環境要因や人為的な価値規範によって知識体系や理論枠組みが揺らぐ事がなく、その知識の内容と本質を考えると、数学や論理学は人間の経験以前から成り立っていたと推測できるアプリオリな知の体系”です。
近代哲学の黎明期にあって、最も明晰で確実な知を探求するデカルトの基盤にあったのはユークリッド幾何学の公理でしたが、人間理性が疑い得ない自明性の強い公理と定義が出発する幾何学代数学などはその必然的な流れを“論理”によって支えられています。
デカルトは一旦、方法的懐疑の帰結として、数学さえも真偽判断の基盤にはなり得ない、神が我々を欺かないとは断定できないとして、思惟する私の自我意識こそが疑い得ない明晰な第一原理とします。
しかし、そこから更に立ち返って、神の完全性に依拠する誠実を前提とすることで、数学的知識は真理であり、感覚的経験も誤る可能性はあるが全てが誤りではないという世界に対する基本認識を持つようになります。
デカルトの精神と物質の二元論的世界観の妥当性を支えているものは、究極的には全知全能の誠実な『神』であり、近代哲学の確立者であるデカルトは有神論の枠組みの中で自己の哲学を整理していきました。

人間の知において、最高度の先験的(アプリオリ)な自明性と再現性を持ち、それ故に誰が考察しても必然的に同じ結論に至らざるを得ない数学は、哲学史の伝統において普遍的真理への道とされてきました。
時折見られる数学への批判的な意見に、数学の公理や体系の全体を論理的に覆すことは出来ないために、数学を唯一の解答しか持たない面白みのない分野であるというものがありますが、それが反対に数学の魅力でもあるのでしょう。

世界の普遍的把握の為に用意された強力な知のツールである数理学体系は、人間理性が世界と取り交わすことのできる永遠不変のイデアプロトコルであり、この小説の“私”と博士の間で共通認識された友愛数のように一度そのような形で意味付けられれば両者の関係がどのように変化しても、二つの数字の特別な普遍的関係そのものが崩される事はありません。

博士は、そういった数学の先験性を含意して、アルティン予想を語ろうとする文脈の中で、『数学は、人間の力による発明ではなく発見である』といったことを“私”に語りかけます。


友愛数の話から少し哲学と数学の話へと脇道に逸れましたが、再び翻って書評という本筋に戻りましょう。

“私”は、母親と二人の生育環境で育ち、“私”に人並みの生活と豊かさを与える為に懸命に働く母親の語る幻想的な父親像を聞かされて育ちました。思春期になってから、何故、理想的な優秀で心優しい父親が、生活に困窮する自分達を経済的に援助しないのかという疑念に辿り着きますが、母親の幻想を壊さないように黙って付き合ってきました。

そして、その母親の幻想の破局は、高校生だった“私”の予期せぬ妊娠とシングルマザーとして生きる事の選択によって突然訪れます。母親が無意識的に抑圧してきた、父親の不在の事実が、父親のいない子供を産む娘へとオーバーラップして混乱と憤慨を誘発しました。そして、“私”は人工妊娠中絶が法的に規制される妊娠22週を越えてから、母親を置いて家を出て、母子成育住宅という公共住宅で親子二人の生活をスタートさせます。18歳の無力で無知な自分が、たった独りで誰からの援助もなく出産を終えた時には、感動や喜びよりも前途を思う不安や恐れが先に立ちました。

相手は、物静かで教養のある工学部の学生でしたが、彼が“私”を魅了した電気工学に関する深遠な知識は、妊娠という事態を前にしては全く無力であり、彼はただの愚鈍な男となって私の前から姿を消しました。
博士と出会う前の“私”が抱えていた喪失感や空虚感というのは、人生全般を暗黙裡に覆い尽くしてきた“信頼できる男性像の不在”であり、ユング心理学的に解釈すれば“理想的なアニムスの萎縮”ではないかと思います。
母親思いの優しい子どもである√も同様に抱擁されることの少ない赤ん坊時代を過ごし、“包容力のある父性の喪失”の寂寥を抱えていましたが、博士との出会いによって代理的な父性の表象を獲得できたといえるでしょう。
博士には記憶の障害があり、高い数学的知性を有していますが、実際的な生活能力は最早ありません。しかし、博士の無類の子ども好きの性格と√に対する惜しみない無償の愛情と算数の指導と野球の話題を通しての親密なコミュニケーションは、√にかけがえのない心理的成長と充足の機会を与えることへとつながっていきます。

博士は、実際の野球の試合観戦には殆ど興味がなかったのですが、阪神江夏豊のファンであり、机上の論理で打率、防御率奪三振数などを確率論的に計算して把握する事を好んでいました。√も同じく阪神タイガースの熱烈なファンで、いつも阪神の野球帽を被っています。博士をがっかりさせないために、遥か昔に江夏が引退していることに気付かれないよう√は色々と江夏が投げない理由を考えたりします。

その他にも、“私”が手際よく料理している姿に感服するかのように見入る博士とのやり取りなど、読んでいて心が穏やかに和むような優しい雰囲気の場面が幾つも登場します。



本当に私が警戒心を解き、博士を信用するようになったのは、博士と息子が出会った、最初の瞬間からだった。

ランドセルを背負ったままの息子が玄関に姿を現した時、博士は笑顔を浮かべ、両腕を一杯に広げて彼を抱擁した。《……と、その息子10歳》のメモを指し示し、事の成り行きを説明する暇もなかった。その両腕には、目の前にいるか弱い者をかばおうとする、いたわりがあふれていた。自分の息子がこんなふうに誰かに抱擁されている姿を目のあたりにできるのは、幸せなことだった。それどころか、ああ、自分もこんなふうに博士に迎えられたいなあ、という気にさえなるのだった。

『遠い所、よく来てくれた。ありがとう、ありがとう』

(中略)

『君はルートだよ。どんな数字でも嫌がらずに自分の中にかくまってやる、実に寛大な記号、ルートだ』
早速博士は袖口のメモの続きにその記号を書き加えた。
《新しい家政婦さん と その息子10歳 √》


数学の真理探究の世界に耽溺して彷徨い続ける博士が、最も愛した数字は素数でした。
多くの数学者が強く惹き付けられる素数ですが、その魅力が何処にあるのかの理由や思い入れは人それぞれでしょうけれど、文学的に解釈するならば素数の不規則性と希少性に魅力の淵源があるのかもしれません。
私は、この物語のクライマックスで解き明かされる博士の“永遠性を帯びた愛のイデアからの連想で、素数が1と自身以外の約数を持たない事が、自分以外には一人の異性にしか心を許さないというメタファーとして働いているのではないかという考えを抱きました。
永遠普遍の数学的真理を探究する博士の愛は、前向性健忘の記憶障害によってその完全性がより一層保証されるのです。過去の記憶は決して奪われないが、未来の記憶は彼には蓄積されないのですから。

最終的に、博士は記憶を共有できる相手が、過去に愛情を抱いたその相手一人しかいなくなるのですが、“私”と√の博士との交流は彼の死の日まで継続していきます。
背後に様々な主題を抱えた物語の結末には、博士の死は悲しみではなく新たなる旅立ちとして受け止められ、博士の存在と言葉は永遠に“私”と√の精神内界において息づき続けることを予見させます。

博士の愛した数式』は、中心的価値観の基軸がない相対化した現代社会における家族像の揺らぎ、そこからの再生の物語として読む事ができ、普遍的な真理と永続的な愛の探求者である人間精神の物語として考える事も出来ます。
しかし、そういった背景に潜む問題意識を放擲して何も考えずに、会話や出来事に満ちている明るい感情交流や清明な気分の高まりに共感しながら読むのもいいでしょうね。
私の解説を読むより、本書を『博士・“私”・√の関係と内面』に直接触れるような感じで読むと、この作品に込められたメッセージが率直に抵抗なく伝わってくるかもしれません。

*1:フェルマーの評伝で秀逸なものとして『フェルマーの最終定理ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで』(ISBN:4105393014)があり、数学の問題を解くのが苦手な人でも、数学を歴史物語のような流れの中で楽しく把握することが出来る構成になっています。