神の恩寵から離れた優美さ・生と隣接する死と愛


神の属性が、一切の過失と欺瞞のない完全無欠さであるとすれば、神の恩寵(grace)は、人間よりも動物に多く与えられている。
人間の行動やコミュニケーションは目的志向や自己意識によって規定され、目的達成や自己意識の満足に向かう過程には幾多の過失や欺瞞がつきものであるが、種の保存という自然的本能に行動を規定される動物には意図や自我がない為に人間から失われつつある純朴さや率直さが見られ、過失や欺瞞という次元で行動やコミュニケーションが否定されることはあり得ない。
新約聖書におけるgraceは、神の恩寵を指示するが、一般的にgraceとは優美さ、しなやかさのことを意味する単語である。

優美とは、芸術が到達すべきイデア的な形象であり、私たちの精神が追求する美の理想型、即ち理知と情動の働きが統合された無垢な心地良さを計らいなしにもたらすものだと考えられる。
真に優美な動作、現象あるいは人工的な芸術、創作には、言語・文化・宗教・民族の障壁が存在しないことが前提条件になる。
サラブレッドの流線型の肢体が躍動する瞬間や猫が高いところから滑らかに音も立てずに地面に着地する姿に、自然界の優美を感得する時、そこには言語的に記述されるべき理由や原因は存在しない、更には文化固有の価値や意味に左右されない原初的なしなやかな優美さがある。
動物や自然現象が人間の認知に無条件に投げ掛けてくる優美さと人間が作為的に制作する芸術作品の優美さは明らかに異なるものだが、それでもなお真に優れた芸術とはより普遍的な妥当性や説得性を持つものとは言えるのではないか。
特定の民族や地域、文化にしか通用しない狭隘な美の表現である芸術は、そういった枠組みや制限の少ない解放された美の表現である芸術よりも、真の優美から遠い地点にある。

特定の要因に束縛されたスノッブな美の表現としての芸術の多くは、非常に簡単明瞭な物語や言語へと還元できることが多い。
簡単明瞭な物語とは、フロイトの無意識から導かれるファルス(男根主義)やリビドーの性的衝動にまつわる快楽的な物語であったり、ユングの普遍的無意識とアーキタイプ(元型)から導かれるグレートマザー(太母)、アニマ(男性の持つ女性像)、アニムス(女性の持つ男性像)などの普遍的心像から構成される神話的世界の物語であったりする。

世俗的に賞讃され消費される美の源泉には、『権力への意志・快楽への欲望・幻想への耽溺・自然の複製』を暗黙裡に指し示す要素が、メタファーとして随所に散りばめられている。
鑑賞者は、芸術のテーマ(主題)・構成・彩色・象徴・リズム・素材・技術などからそれぞれメタファーを読み取り、作者の無意識的な意図や欲望をデコード(解読)して言語的に了解し、美と快の結合に成功することとなる。

自然の美と芸術の美は異なるが、いずれも人間精神が対象を知覚して認知し意味づける過程において生起するものであり、文化的・心理的システムを介在しない美は存在しない。
あるいは、文化と心理を構築する為の言語の存在がなければ、美は成立しないのかもしれず、私たちは直感的に事物・現象から美を感じ取ったと思った瞬間に、言語が支配する意識の領野で美を咀嚼して味わい尽くしてしまう。

ポール・デルヴォーの描く深夜の街頭と女性の裸体の幻想的で倒錯的な美と精神の擾乱は、おそらく近代文明圏の文化や倫理に大きく依存して醸成される美であり、フロイトラカンの理論によって言語的に説明可能な美である。
グスタフ・クリムトの描く絵画の優美さや恍惚とした陶酔の感覚も、現代よりも19世紀後半のオーストリアという性倫理観の厳しい時代においてより一層の彩りを増す。
クリムトの絵画は、精神分析学と印象派絵画の架橋とも言われるが、エロスとタナトスという両極の欲望が表裏一体であることをシンボリックに一枚の絵で、あるいは複数の絵で示しているように思える。

現代美術がかつての芸術の黄金時代のような人を魅了する抗い難い力を失ったのは、絵画の衰退や才能の枯渇ということではなく、芸術を鑑賞する固定的な文化や情報の前提的基盤が緩やかに崩壊しているからかもしれない。
エロスとタナトスが非本来的なあり方で玩弄され嘲笑される時、人々は美への欲求や憧憬を失う。
それは、死せる宿命の自覚によって生起するファム・ファタル(運命の異性)との愛への幻想の終焉とパラレルであり、そういった炎が消えつつある時にニヒリズムの冷ややかな指先が背筋に迫り、洗練された優美な状況も遠景に退くのである。


ここまでで語ったことは、美の通俗的な言語的解釈に過ぎず、基本的に生の豊穣と官能の美の領域を逸脱できていない。
メタファーやシンボルに依拠しない美の秘密は、実際に現象や事物に美を見いだし、それを物象化する芸術家の変換規則そのものに内在しているのかもしれないが、それは無理に脳科学的に分析するよりも永遠にブラックボックスのままであるほうが良いような気もする。

人間の美は、神や動物の苦悩や逡巡無き美からは離れるべきであろう。