「ぱちもん」心理学研究所を読んで:沈黙のオーディエンスと主体的オーディエンス


id:cosmo_sophy:20050213で私が記述した『「いんちき」心理学研究所を巡る沈黙のオーディエンスの意識化と孤独感について』の記事を踏み台にして、id:santaro_yさんが『オーディエンスとブロガーの関係性』『沈黙のオーディエンスから主体的オーディエンスへの発展可能性』『ブログのトラックバックを利用した関連記事の有機的連結』など興味深いテーマを立てて更なる議論を複数の方々と深めてくれています。
この話題に関心のある方は、santaro_yさんのブログの「ぱちもん」心理学研究所を是非一読される事をお薦めします。



■「ぱちもん」心理学研究所関連の記事……id:santaro_y:20050226,id:santaro_y:20050301,id:santaro_y:20050304


様々な視点と事例から“ブロガーとオーディエンスの関係にまつわる心理・欲求・反応”が詳細に分析され、複数の方々との有意義な意見交換が生産的に行われる事によって、より客観性の高い“多面的なメタブログ論”が展開されているといった印象を受けました。

特定のテーマに対する言説・説明の客観性や一般性が高まり、議論を構成する見解・意見の多様性が増すほどに、新たな意見を付け足す必要性や意義は低減します。
とはいえ、メタブログ論を展開する追加記事が増えれば増える程、見解の多様性や議論の生産性は微小低速ながら増加していくとは思いますので、santaro_yさんの考察や見解も参照しながら自分の『沈黙のオーディエンス論』『閲覧者にまなざされる快楽の階層構造』を少し再考してみようかと思います。
私自身は、『一般的コミュニティ型・アクセス重視型・気ままな唯我独尊型』などが当て嵌まりますので、自分の書きたい内容の記事を書き、ある程度の閲覧者が読んでくれて、私と対話したいと思った人が書き込みをしてくれるだけで十分に書くモチベーションを維持できています。




1.現実世界でURLを知らせた友人知人のみが閲覧して反応してくれれば良い……リアル直結コミュニティ型

2.インターネットの内部で知り合いになった友人知人を中心として“批判的でない信頼できる人”だけが閲覧して反応してくれれば良い……mixiに代表されるようなSNS的ネットコミュニティ型

3.自分のテキストの魅力に応じた閲覧者数が適度に確保されていればよく、余りに多い閲覧者は逆にプレッシャーになることがある……儀礼的無関心を求めるマイペース型

4.閲覧者数の最大化を求めず、自然に集まる閲覧者と穏やかな交流を深めていければよい……一般的コミュニティ型

5.リンクや検索エンジンを辿って出来るだけ多くの人に閲覧して貰いたいが、特別反応を求めるわけでもない……トータルアクセス&ユニークアクセス重視型

6.リンクや検索エンジンを辿って出来るだけ多くの人に閲覧して貰うと同時に、批判的であっても構わないので感想や意見を活発に貰い、対立的な論戦さえも楽しむ事ができる……議論促進コミュニティ型

7.出来るだけ多くの人に閲覧して貰うと同時に、共感や承認のメッセージを貰って友好的な交流を行っていきたい……理想的コミュニティ型

8.閲覧者の存在やアクセス数を余り意識せず、自分の書きたい内容の記事を自由に書ければそれでよい……気ままな唯我独尊型


santaro_yさんは、更に、観客に過剰な反応を期待するブロガーを『問題提起指向』『クリエイター指向』の大きく二つに分類しています。


浅野教授は間違いなく「クリエイター指向」だ。彼の記事は他の記事にリンクしたり引用したりしているわけではなく一個の完結した”作品”になっている。こういう風に記事を作品として書いている人が観客に求めているのは「評価」である。自分の作品を面白がってくれるファンや支持者といった人を求めていて、そのファンからの作品への評価、という反応を引き出したかったのだ。

しかしオレの目指しているものは明らかに違う。オレは「問題提起指向」だ。基本的に記事は読んでいて違うと思った記事へのリンクや引用をした上での「反論」という形であったり、あるいは面白いと思った記事を更に発展させたり転回させたりしたものである。当然その記事は一個で完結したものではなく他の記事との関係性の中に位置付られている。そこでオレが観客に求めているのは「批評」である。面白いと言われるのももちろんうれしいが、本当に求めているのは自分が記事を書く時のようにオレの考えに対する反論、もしくは発展、転回させた意見を引き出したいのだ。

このブロガー分類の提示は、『自分が望む閲覧者の反応を引き出す記事の書き方』と『ブログを書く目的に応じたブログの基本機能であるトラックバックの有効活用』を示唆する非常に面白い角度からの有意義な分類です。
ここで、クリエイター指向のブロガーが覚悟しなければならないのは、『事実の誤認・論理の矛盾・極端な価値観の提示が存在しない完成度の高い作品ほど、閲覧者の反応や評価を引き出しにくい』というアイロニカルな事実ではないかと思います。

完成度が高ければ高いほど、一つの作品としての完結性が強化され、他者の補足や指摘を受け入れる余地が狭くなっていくわけですから、クリエイター指向の人は『完成度と他者の反応の非対応性』に対して意識的でなければ、非常に辛い孤独な製作作業を延々と継続していく悲劇的スパイラルに嵌まり込んでいくでしょう。

つまり、『誰もが同意し納得せざるを得ないような論理の矛盾がなく、事実認識の誤謬がない完成度の高い作品を書き続けていれば、大勢の人から称賛や評価の反応がフィードバックされてくるに違いない』といった信念や価値観は、『全身全霊を傾けて努力し続ければ、人生は成功し、私は幸福になるに違いない』といった人生訓や社会道徳と同程度に『現実状況と矛盾した認知に基づく誤謬』だと言う他はないでしょう。

苦労すれば苦労するほど良い結果が得られるわけではないし、努力すれば努力するほど幸福になるわけでもないという現実世界の不条理な現象と同様に、一般的・学問的・ユーモア的価値の高い完成度の高い作品を制作する労力を傾ければ傾けるほど閲覧者の好意的な反応を引き出せるわけではないという事実を、クリエイター指向のブロガーは深く理解する必要があるのではないでしょうか。
私は、クリエイター指向のブロガーに対する閲覧者の反応は、完成度が高ければ高いほどに沈黙のオーディエンス現象として顕現しやすくなると思いますが、その現象を悲観的あるいは虚無的にしか解釈できないのであればそのブロガーがブログを閉鎖するのもやむを得ないと思います。

しかし、現実事象の事実と評価は似て非なるものであり、膨大な沈黙のオーディエンスの存在を、自分に対する評価・肯定と受け取るか、無視・批判と受け取るかはブロガーの認知傾向に全面的に依拠することとなります。
私は、“アクセス数の多さとリピート率の高さ”こそが、閲覧者の興味関心を引き寄せ続けているという意味で、“ブロガーに対する肯定的評価”であると解釈できると思います。

それと同時に、“記事に対する情報提供者としてのブロガーへの肯定的評価”に過ぎないという認知も成り立つと思いますので、“自分という個人に対する肯定的評価”を得たいと希望するブロガーであれば、クリエイター指向で一般的なテーマや事件を取り上げて批評するような記事執筆のスタンスを放棄して、自らの生活や性格、趣味嗜好といったものを前面に出したキャラクター指向へと転換する必要があるかもしれません。
同好の士と共に緩やかなコミュニティを築いていく事が、自分個人に対する肯定的なコメントを頻繁にやり取りする為の王道と言えるでしょう。

禍福は糾える縄の如しといった偶然性に結果は翻弄されますが、自分が長期間にわたって書き続けている記事や方法では、閲覧者の沈黙の反応しか得られないという事が経験的に分かれば、今までの記事の内容を見直し、問題提起の方法を工夫していくしかありません。
他者に対する問題提起そのものをせずに、自分一人の思考・感性・知識・経験の中で閉じた記事をクリエイティブに書き続けていくのであれば、閲覧者からの反応を偶然的な確率に任せる他はないという結論に行き着きます。

閲覧者の反応がないことを災禍であると認識するブロガーであるならば、災禍を分析的に考察して反応が乏しい原因をまず特定する必要があるのではないかと思います。
閲覧者の反応頻度の低さの原因がある程度絞り込まれてきたところで、閲覧者の反応が頻繁にある状態へと転化させていくにはどのような内容の記事を書けばよいのかを考え、どのような形へと自分のブログを発展変化させていくべきなのかを実証的に試行錯誤していかなければなりません。

過去記事でも触れましたが、『閲覧者の好意的な反応=評価』を引き出す黄金律や方法論というものは存在しませんが、好意・悪意を問わないという前提であれば、閲覧者の反応を引き出しやすい『問題提起指向』の記事の書き方には、以下のようなものがあるのではないかと思います。




1.時事問題即応法……その時々で、大勢の人々が関心を持っている“政治・経済・芸能・社会・流行に関する時事問題”を出来るだけ早い段階で取り上げると同時に、独自の見解や解釈を提示する。

2.議論促進法(アジテーション型)……対立する見解が必然的に生まれるテーマを選んで、反対意見を有する個人・集団を想定しながら、意図的に、ワンサイドかつ扇情的な内容の記事を書く。

3.議論促進法(シリアス型)……自分自身が強い興味を抱いていて、世間一般でも話題になっているようなテーマを選んで、閲覧者の発言意欲や知的好奇心を高めるような『反論・補足・疑問の余地を残した記事』を書くように努める。

4.問題提示・アンケート法……自分自身の記事の中では、事実の記述と問題の提示に心がけ、最終的な結論や判断を出さずに、多くの人々の意見を集めたいという気持ちを明示する。例えば、『この問題について、皆さんはどう思いますか?よければ、ご意見をお聞かせ下さい』というような疑問形で記事を終えたり、幾つかの選択肢を用意して『以下の選択肢の中で、皆さんの考えに当て嵌まるものはどれですか?よければ、それを選んだ理由や根拠もお聞かせ下されば幸いです』といった“回答する労力の少ないアンケート形式”の回答を求める。

5.トラックバック&コメント法……1〜4の方法に依拠して、他者の意見・反論・補足を受け入れる余地がある記事を書き上げた後には、自分と類似した問題意識に基づくブログの記事や関連事項や関連情報を取り扱っているブログへとより多くトラックバックを打ち、頻繁にコメント欄への書き込みをして建設的な議論の提案をしてみる。

6.人気ブログ活用法……多種多様な趣味嗜好や価値観を持つ人が数多く集うと思われる、アクセス数の大きな有名ブログへ問題提起的な内容の記事をトラックバックしたり、新たな視点や立場からコメントをしてみる。その事によって、今まで自分のブログに訪れなかったコミュニケーションや議論を好む層を引き寄せることが出来る可能性がある。


1〜6の問題提起指向のブロガーに適した方法を試してみても、最終的に、自分が望むような『建設的な議論への展開・発展・転回』が起こる保証は勿論ありません。
特に、相手が閲覧者からの反応をそれほど望まないクリエイター指向のブロガーであり、興味関心の範囲が多岐にわたっていて単一のテーマや問題に留まることを潔しとしない場合には、トラックバックを打ったり、コメントを書き込んだりしても、相手にとって既に結論の出た議題についての好奇心を喚起し、深化発展に繋がる再考を促す事は難しいかもしれません。



santaro_yさんの以下の意見は、『何故、同じ問題意識を持っている相手との議論や対話が、思い通りに活性化しないのか?』という問いに対する模範的な解答に成り得るのではないかと思います。


おそらく多くの「沈黙のオーディエンス」にとってコメントするのがめんどいのは実はコミュニケーション自体を求めていないから、だったりする。まぁはっきりいって面白い記事なり有益な情報なりを取得できればそれで満足なのであって別にコミュニケーションしたくて読んでいるわけじゃない。コミュニケーションなんて煩わしいだけだ。しかしこの情報屋コメンテーターはコミュニケーションをする為に書くのではなく記事を関連付けさせる為、要するにブロガーに対する情報ではなく同じ記事を読んでいる多数の利用者の為になされるわけだ。

そこでは単にアドレスと簡潔な内容の説明だけを書けばいいわけで一々ブロガーに挨拶とかはいらない。ブロガーもそれにお礼とかする必要はない。というかしてはいけない。それをしたらコミュニケーションになってしまうわけでそういう煩わしさを無くさなければならない。

というわけでひとまず非ブロガーである大多数の沈黙のオーディエンスにはこの情報屋コメンテーター(いやもうコメンテーターとは言えないか)になってもらうしかない。人海戦術だからあっという間に記事は繋がり始める。


関連記事を精力的に探索し、関連記事を引用・参照した上でトラックバックを頻繁に打つ傾向のある人ほど、議論促進型あるいは問題提起指向のブロガーである確率が高く、他のブロガーや閲覧者との闊達な意見交換や生産的な議論を望んでいる傾向があると思います。
単純にアクセスアップの為だけにトラックバックを多く打つというブロガーもいるかもしれませんが、その場合には他のブロガーの関連記事を読み込んでからトラックバックするわけではないので、引用や参照が乏しく、無作為に単純なキーワード一致やアクセス数の多い人気ブログの選別によって送りつけているといった印象があります。

何故、類似した問題意識や興味関心を持ち、関連した記事を書いていても、議論や意見交換が思った通りに発展しないのかという理由は、私は『思考・記述・対話・時間の節約の意識』に還元されるのではないかと思います。
santaro_yさんがおっしゃるように、一般的に、記事を書く事は大変な作業であり、記事を読む事は容易な作業です。
多くの人が、書かれている記事に何らかの意見や感想を抱いたとしても実際にコメント欄に書き込まないのは、『書く行為と読む行為の労力・時間の非対称性』に原因があります。
簡単に言えば、コミュニケーションや議論は、心理的・思考的・時間的なコストが大きいので、そのコストを議論や対話から得るメリットが上回らない限り、閲覧者による書き込み行為は起こらないという事です。

大多数の閲覧者は、単一のブログだけを読んでいるわけではないので、一つのブログの記事を読み終えれば、他のブログの記事を読む行為へと自然に移っていきます。
一つのブログの記事内容を深く掘り下げて、その記事に対する意見や反論を考え文章に書き起こすというのは、一定以上の時間・労力・思考作業を必要としますから、余程、その記事やブロガーに対する興味関心が強いか、議論のやり取りをする事自体が好きであるかでないと書き込みの行為は生起しないでしょう。

また、一回限りの書き込みを行って、それで終わりという場合には、時間と労力はそれほど必要とされないのですが、コメント欄への書き込みを行えば、多くの場合、ブロガーからの返事が書き込まれるわけで、それに対する返答をまた書かなければならないといった義務的な心理に追い込まれることが想定されます。

コメント欄への返事や回答は義務ではありませんが、『相手の対応が丁寧で真摯である場合』には、他者配慮性や共感感情・常識的な道徳感覚によって返事をしなければならないという義務感が芽生え、『相手の返答が自分の意見・考えを否定するような場合』には、優越欲求や自尊心・自己正当化によって反論しなければならないという競争心が湧き起こってくる可能性がある為、好意によっても悪意によっても時間的・精神的コストが高まるケースが考えられます。


最終的には、『何を目的としてブログ運営をしているのか?閲覧者とのどのような関係を求めてブログ記事を書いているのか?』という問題意識の原点へと回帰していく事になるでしょう。

活発で意欲的なコミュニケーションを求めているのであれば、トラックバックやコメントを有効活用して主体的オーディエンスを誘導する形を取り、『私はこう考えますが、あなたはどういう意見をお持ちですか?』という基本姿勢を持った問題提起指向のブロガーを目指すべきですし、コミュニケーションよりも完成度の高い記事や知識の整理紹介を主眼とする記事を書きたいというのであれば、沈黙のオーディエンスの数や反応を意識せずに『自分が書きたい・伝えたいと思う内容の記事』を丁寧に作りこむクリエイター指向のブロガーを目指すべきではないかと思います。

まず、ブロガーが意識すべきは『情報提供・情報収集・人間関係(コミュニティ形成)・議論促進・自己満足・自己内部での完結性・他者との対話による発展性』のいずれを主軸としてブログの記事や返答を制作しているのかという事であり、それを文章表現や記事内容、コミュニケーションの中でオーディエンスに開示していく必要があるのではないでしょうか。
ブログ運営を頑張っているのに、自分が望んでいるブログの形態や閲覧者との関係性を実現できない場合には、それを実現する為に現在行っている懸命な努力や創意工夫が目的達成に適応しておらず、努力や工夫が逆効果となって皮肉な悪循環に陥っている場合も多々あるのではないかと思います。

自分の情報の提示や意見の公開そのものを求めていれば沈黙のオーディエンスは空虚感や重圧感として認識されませんが、情報の提示や意見の公開は参照項や叩き台に過ぎず、そこから他者とのコミュニケーションを活性化していきたいと考える人には沈黙のオーディエンスは記事制作の意欲を喪失させるに十分な破壊的な圧迫感を持つものになるでしょう。

沈黙のオーディエンスを主体的オーディエンスへと転換させていく為には、上述した問題提起指向のブロガーへの処方箋が役立つかもしれませんが、共感的オーディエンスを増大させていく為には、『隗より始めよ』の精神を謙虚に実践する以外に実践的な対応策はないと思います。
即ち、自分がまず率先して時間的・労力的コストを背負ってブログ巡回をし、共感的オーディエンスとしての肯定的評価と友好的態度に基づいた書き込みを行っていかなければならないでしょう。