性の特殊的価値の定立への賛否が意味するもの:流動化を志向する関係性と安定化を志向する関係性


社会的弱者である子どもや暴力への抵抗力の弱い女性を一方的な欲望充足の道具とする性犯罪者に対する怒りや憤慨というものは、人間の性の尊厳を認識する市民にとっておよそ普遍的に共有されるものである一方、性に関連する行為や発言を過剰に意識して特別な意味付けをしている現代社会の性倫理観や性の尊厳そのものを問題視するといった反社会通念的な立場もあります。
とはいえ、現代社会の性倫理の根幹である『性の尊厳や性の特殊的価値』を否定するロジックによって、人間にとっての生物学的性差(sex)や性関連行為に対して、特別な地位を与えないとか特殊な価値を認めないという考え方を展開しても、性的暴力や性的虐待を正当化したり、その苦痛や怒りを軽減することは出来ません。
性の尊厳あるいは性の特殊的価値の否定のロジックは、売買春の完全容認や性風俗産業への差別偏見の撤廃のロジックとして用いられることもありますが、この言説の限界は『性の商品化や不特定多数との性行為を肯定的に認知する相手』にしか説得力を持たないという事でしょう。

性に特別な地位や価値を一切与えず、その他のコミュニケーション・スポーツ・労働と全く同一のものと考えられる人やそのように考えて割り切りたい人であっても、性に関する知識や理解が乏しく、性の自己決定権を行使できない子どもに対して自らの特異的な価値観や性倫理を押し付けることは出来ません。
また、そのような性倫理の根幹である性の特殊的価値をあからさまに否定することに対して、拒否や不快の意思表示をする自由も全ての人に認められていなければなりません。
ある人にとってセックスがスポーツと同様のもので、人格的価値と性行為が分離しているものである場合にも、それを表現する自由はありますが、それを他者に強引に承認させる自由や社会的弱者である子どもに対して社会通念から大きく逸脱した性教育を行う自由などは当然にありません。

子どもが主体的に性に対する自己決定が出来る年齢になるまでは、社会通念として共有される性倫理観や性道徳に依拠した性教育を行う事が妥当であると考えられます。
倫理学的に善悪の根拠を掘り下げていくと、インセストタブー(近親相姦禁忌)・売買春の禁忌・子どものセックス禁止』には、大多数の人の承認を得るだけの説得力のある社会防衛上の根拠があると考えています。

家族を最小構成単位とする共同体を存続維持させる為、あるいは、多様な個人によって構築される活力のある文明社会を形成発展させる為には、人間関係や生殖単位を家族に閉じさせてはなりませんから、近親相姦は禁止すべきです。
売買春の禁忌は、この3つの中では最も根拠薄弱なものではありますが、『セックスを経済的価値に置き換えたくない人の倫理的自由』は十分に尊重されなければなりません。
売買春の禁忌感情が全く無くなり、性行為と人格的価値を完全に切り離すことが常識となれば、『性を売りたくない人の人権が、経済的困窮によって蹂躙される危険』が出てきますから、人権保護上の観点からも売買春の禁忌を完全に撤廃することは望ましくないといえるでしょう。

しかし、双方が合意の上で行う売買春には、保護法益の侵害や明確な被害者が存在しませんから、法的に規制して処罰することの妥当性や正当性はそれほど無いとも思います。
売買春に対するタブー視の根底には、政治的には公序良俗の維持、家庭を単位とする社会秩序の維持という目的がありますが、個人的にも恋愛感情や夫婦関係を前提とした特定の相手とのセックスに、より高い特殊な価値を感じたい、あるいは、深遠な意味を見出したいという動因も働いていると考えられます。

性の特殊的価値の定立に対して肯定的な人は、性行為と人格的価値は密接に関係しており、渾然一体のものであるという保守的な価値観の持ち主で、良好な家族関係や親密な恋愛関係に人生の大きな意義を感じる安定的な秩序志向の考え方を持っている人達です。社会の構成員の過半数は、やはり、性に対して他の行為やコミュニケーションとは異なる特別な価値や意味を付与していますから、性行為を伴う不倫や浮気は非難されるべき悪い行為と判断されることになります。

性の特殊的価値の定立に対して否定的な人は、性行為と人格的価値の分離を提唱し、特定の相手への純粋な愛情と不特定多数との性行為が両立すると信じる、既存の恋愛観や性倫理とは相容れない革新的な価値観の持ち主でしょう。一夫一婦制の家族関係の価値や性行為を行う相手を特定する恋愛関係の意義を、本心から承認することがなく、流動的な快楽志向の考え方を持っていると言えます。
ある年代までは、性行為と人格的価値を切り離して考えられる人たちも一定の割合でいるかもしれませんが、人間は基本的に加齢と共に異性をひきつける生物学的魅力を弱めていきますから、既存の家族観や恋愛観を否定した自由性愛の讃美を続けていると、最終的に孤独な状態に陥ってしまう恐れが出てきます。

体力と気力、思考力の低下や性的能力の衰えと共に、大多数の人は、安定的な秩序志向の価値観へと傾斜していくことになるのではないかと思います。
一時的に、特定の相手との継続的な恋愛や性愛の倫理を否定する自由奔放や無頼放縦の時期があったとしても、有限の生を営む人間は、『自分だけを見つめてくれる他者から切り離される孤独』や『愛情・信頼を完全に失ってしまう疎外』を恐れます。
生の終盤における孤絶を回避せんが為に、人間社会において、関係性の無限の混乱と錯綜が織り成す流動化を堰き止める役割を果たす“性の特殊的価値の定立・恋愛や結婚などに求められる一定の性倫理観”が要請されてくるのかもしれないと考えたりします。