カール・ロジャーズの意外な一面:環境管理につながる近代的社会システムへの葛藤


カウンセリング場面においては、温厚誠実な人柄を貫き、クライアントの語る話の内容を真摯に傾聴し続けた来談者中心療法の創始者カール・ロジャーズは、一人の思想家や活動家として見てみても興味深い人物である。
クライアントの感情や価値観を共感的に理解して、あらゆる言動を肯定的に受容しようとしたロジャースも、面接場面の外にあっては、攻撃的な活動家の顔や革新的な思想家の顔といった意外な一面があった。
ロジャースが、その初期に熱意を燃やしたのは、今までの強制力を用いた教育指導・生活指導に代わる教育業界へのカウンセリング導入という事業であった。

ロジャースが懸念し危惧したのは、非民主的な統制主義の趣きや抑圧的な権力関係による差異のある教育制度・医療制度・社会制度であり、当時のカウンセリングは、アメリカ流のプラグマティズム自由民主主義の流れを汲むものであったという見方をする事も出来る。
権力作用による行動や思考の抑圧、権威的制度による社会規範の内在化といった形式だけを抜き取れば、ロジャースは、構造主義ミシェル・フーコーが説くパノプティコン(一望監視施設)に近似した権力観や社会観を有していたと言えるかもしれない。

ロジャースのカウンセリング心理学やカウンセリング・マインドの隆盛と流行を牽引したのは、東京文理科大学で教育相談をしていた友田不二男、国立精神衛生研究所の佐治守夫、東北大の正木正などの面々であった。
戦後暫くまでの一般的な教育方法は、優位者である教師が、生徒を高圧的に指導訓練するという上位下達的な権力関係の中で行われる形態であり、教師の指導や教育は絶対的な権威性に基づくものであって、教師が生徒の気持ちや感情を理解しようとして配慮を働かせるという事などは論外であった。

ロジャースの、クライアント中心療法の態度に基づく学校教育は、従来の教師―生徒の権力構造(上下関係)を批判的に捉えるものであったので、教師の指導力やリーダーシップに高い価値を置く教師達にとってロジャースの思想は受け容れがたいものであったと言える。
学校教育の基本原理は、知的・人格的に優秀な教師が、知的・人格的に未熟な生徒を社会適応的な方向へと教え導く事にあるのは確かだから、教師には一定の強制力や権威が備わっていなければならないという主張自体はそれほど間違ったものではない。

既存の社会環境や支配的な価値規範に適応することが良いことなのか悪いことなのかを一概に断定する事は出来ないが、学校制度というものは、個々人の思惑や判断とは無関係に、基本的に現在の政治体制や社会環境を肯定的に捉えるといった価値観によって成り立っている。
カウンセリングに絡んだ価値観として反権威主義や反管理主義を有するカール・ロジャーズにとっては、機械的な社会適応化を図るシステムとしての学校制度が余り好ましいものに映らなかったようだ。


晩年の著書『人間尊重の心理学―わが人生と思想を語る』において、ロジャーズは、現実社会での職責や義務から解放された老身の身軽さも手伝ったのか、ラディカルなユートピア思想に類する近代的教育制度の解体と自由奔放な生涯学習を提唱している。
自分自身が近代的教育制度の中で、医学部の大学教授にまで順調に上り詰めたロジャースの近代的価値の否定は、逆説的な反骨精神に満ちたものだ。
勿論、そういった極端な楽観主義と権力の罪悪視に根ざした既存の社会制度の全否定には、言説としての奇抜さや面白さはあっても実現可能性といった意味での価値はほとんどない。

ロジャーズが学校生活を送った第二次世界大戦前後のアメリカの教育環境は、まだ非民主的で権威的な趣きも強いもので、典型的な教師―生徒関係の特徴は以下のような形で示されていた。

  • 教育の中心要素は、知識を有する優秀な教師が、知識の乏しい生徒へ知識を与えて、その達成度合と評価は、試験の点数で相対評価する。
  • 教師―生徒関係は、権力者―従属者の相補的な対立関係であり、民主主義の理念や価値が実際場面では無視されることがある。
  • 教育制度は、知識と技能の教育を主眼においており、人間関係や人格の陶冶などは後回しにされる。


私はあらゆる段階の教育制度をやめるべき時にきていると思います。州で決めたカリキュラム、出席すべき日数、終身雇用の教授、講義時間数、評価、学位等すべてを。そして、真の学習をこの息詰まるような神聖な壁の外で開花させるのです。幼稚園から権威的博士課程に至るあらゆる教育制度が、明日なくなると仮定しましょう。何と楽しい場面が繰り広げられることでしょう!

両親も子どもも青年も―おそらく教授たちの中でも何人かは―自分たちが学習できる場を工夫し始めるでしょう。全国民の精神を高揚させるのに、これ以上のものを想像することが出来るでしょうか。それは、悲しいと同時に、全く素晴らしいことでもあるのです。
何百万人もの人々が、同じ問いを発するでしょう。
『私が学習したいものが何かあるだろうか』と。そして、自分の学びたいことを見つけ出し、その学習方法を工夫するでしょう。

(中略)

この新しい世界は、より人間的で人情味があるでしょう。人間の心と魂の豊かさや可能性を探究し、発達させるでしょう。より統合された人間を生み出し、私達の最も偉大な資源である個人を尊ぶでしょう。自然への愛と畏敬を取り戻したもっと自然な世界になるでしょう。
新しい柔軟な概念に基づく人間的科学を発展させるでしょう。技術革新は、人間と自然の利用より、その力を高めることに向けられるでしょう。そこでは個々人が自己の力、可能性、自由を自覚するので、創造性が解放されるでしょう。

(中略)

完全なる個人的充足、援助からの独立、限られた関係以外は完全に個人的世界にいたいという盲目的崇拝を抱いているように思えます。この生き方はこれまでの歴史では達成されませんでしたが、近代技術がこの目的を可能にしました。
個室、自分の自動車、専用事務室、電話帳に掲載されない私用電話を持ち、非人間的巨大マーケットで食物や衣類を求め、専用のオーブン、冷蔵庫、食器洗い、洗濯機、乾燥機等を使って誰とも親しげに語る事なく生活できるのです。
メッセージ・パーラーを利用して男性は女の子を、女性はエスコート・サービスを呼び、独身者専用バーで飲み、性的欲求までも個人的親密さぬきに満たすことが出来ます。生活におけるプライバシーの極限は可能であり、また達成されています。私達は目的を達したのです。

ロジャース『人間尊重の心理学』より

自己不全感のないありのままの人間には、『成長・回復・発展・適応』へと向かう自然な本性としての実現傾向があると考えていたロジャーズは、理想的な教育環境では万人が学習意欲を高めるはずだといった恣意的な夢想があったのかもしれない。
伝統的な近代的教育システムに内在化している政治性を排除して、純粋な学習と教育を実現しようとしたとも言えるが、万人に学習者としての成長発展可能性が秘められているという実現傾向の信念には客観的な実証性はない。

ゲゼルシャフト(利害共同体)化する社会環境の中で、従来の地域に密着した人間関係は希薄になり、私達は過去の時代の人間が望んでも得られなかった、完全なる個人主義的快楽と快適な閉鎖環境を享受することが技術的に可能な世界に生きていることになる。

煩瑣で面倒な人間関係から解放された代償として近代人が支払ったものは、共感的・受容的な情緒的関係性に満ちた生活の場としてのゲマインシャフトであり、その結果として飛来したのは、世界からの疎外感や意味の喪失感であったのかもしれない。

自分が社会環境において何者であるかを知り、自己の存在を明瞭確実に自覚して受容し、ありのままに振る舞う“生の意味”を生成する為には、異質な他者との出会いによる社会の出現がなければならない。
特別な信頼や愛情を相互に寄せ合う大切な他者と関係を取り結ぶ時に、世界は“私”から愛を剥奪したり、無価値な怠惰へと頽廃させたり、全てを破壊したりするような呪うべき虚無の荒野ではなくなり、そこに価値や救いの沃野が開けてくる。