変わるべき個人と変えるべき環境・他者との原因帰属を巡る葛藤


カウンセリングや心理療法といった個人の心理的問題の解決を援助し、精神症状の苦痛を緩和していくアプローチが抱えている原理的な限界性として、“個人の内面心理と社会環境の調整の限界”が考えられます。

ロジャーズやマズロー人間性心理学が人間の本性として説く“実現傾向”(健康・適応・成長へと向かう人間の潜在的な能力)を強く信奉するカウンセラーや心理臨床家であれば、心理的苦難を抱えたクライアントに無条件の肯定的尊重の意図をこめてこう言うかもしれません。
『あなたは何も変わらなくて良いんですよ。今の自分を否定せずに、ありのままのあなたを受け容れていく過程で、問題を解決する為の自己決定を為す時がやってくるでしょう』

しかし、自己受容の促進や自己肯定の強化による自尊心の回復だけでは、多くの場合、心理的な苦痛や不安がある程度軽減されることはあっても、本質的な問題や症状の解決にまで辿りつく事は困難です。
また、自分自身の心理状態を客観的に振り返ってみたり、自分の置かれている状況を冷静に再認識して、問題解決を主体的に行っていける『一定の自我の強さ』が備わっていなければ、カウンセラー側が積極的な介入を行わない支持的療法では大きな成果を挙げられないかもしれません。

しかし、ロジャーズやマズローのヒューマニスティック心理学が提示した『個人の人格性・自己決定の無条件の尊重』は、現実社会での自己肯定感の低下を補う効果や自分自身で自分の問題を解決しなければならないという自立的態度の確立を為す効果があることも事実ですから、一般的な生活上の問題や人間関係の葛藤であれば、クライアントの主体性や自己決定を尊重して傾聴する来談者中心療法も、自立的な人生の構築にとって有効な方法と言えるでしょう。

『個人の心理』と『外部の環境や対人関係』の相互的関係性を前提としてロジャーズ流のカウンセリングの問題点をやや批判的な視点から指摘するならば、『他者との関係性や外部環境からの影響性によって生じている問題であっても、その原因を個人の内面へと還元してしまう可能性がある事』を指摘できるでしょう。
よく色々な人生相談の場面などで引き合いにだされる通俗的な心に関する言説として、『社会制度や政治問題は個人の力ではどうにもならないし、それと同じように、他人の気持ちや考えは簡単には変えられないが、自分の気持ちや考え方は意識的に努力すれば変えられるのだから、あなたの態度や考え方次第で状況は良くも悪くもなる』という解釈の多義性と心理の自己制御を根拠においた説得や助言がなされることがあります。
確かに、『外界の事象に対する解釈の多義性』は、認知理論の前提を踏まえたものではありますが、本当に本人に一切の誤りや落ち度がなく、相手が全面的に間違っている場合であっても、本人に責任の大部分を還元してしまう恐れがあります。

個人の自立性と自己決定を最大限に尊重するという立場は、自由主義社会の基本的理念に沿う立場であり、現代の自由民主主義社会に生きる大部分の人が、この個人の自立性と自己決定を尊重する立場に立ち、個人の直面する問題や困難の責任は、個人に帰属するという考えを持っています。
この個人主義自由主義の前提としての自己責任の論理そのものが間違っているわけではなく、基本的には自分の行動や態度によって生じた結果に対して自らが責任を取らなければなりませんし、その自己責任の原則の遵守によって社会秩序が維持されているとも言えます。
この個人への責任帰属は、個人の精神機能への責任帰属という事とほぼ同義なのですが、人生の様々な場面で問題となるのは、個人の責任でない社会環境や他者の行動の責任として発生した苦痛や障害であっても、“個人のこころの問題”へと還元されてしまいやすい事でしょう。

専門的なカウンセリング場面であっても、一般的な心理相談場面であっても、『社会構造・経済システム・他者の心理』というのは殆どの場合、不変的事実や適応すべき環境として提示されるわけで、厳密な意味では、精神分析療法の原則としてフロイトが掲げたような“分析者の中立性”を堅持するのは困難であると言えるでしょう。
徹底的な傾聴による共感的な理解と積極的な肯定をカウンセラーの基本的態度として推奨したロジャーズの限界と葛藤が顕示するのは、こころの問題と社会環境の要因の双方が複雑に絡み合った心理的問題へ対処する時です。
現代では、個人の価値観が多様化して、細かな生活行動の良否に関するコンセンサスを得る事が実質的に不可能となっています。更に、社会環境が複雑化して、各種領域が専門化の度合いを強める中で、『個人の人格性や価値観を尊重しつつ、環境への適応を行うことが困難であるケース』が増加しているところに解決困難なアポリアや適応困難な障壁が生じていきます。

個人の内面心理の変化変容と社会環境・経済体制の改善変革との相互的なバランスを取ることで、より幸福な個人の心理生活の実現とより良い社会環境の整備が進行していくのではないかと思います。