フランシス・ゴールトンの優生学の系譜と生命倫理学のSOLとQOLの対立


ダーウィンを起源とする進化論によれば、自然界の生物達は、自然選択と突然変異を通して、新たな形質を獲得し異なる種へと進化していきます。
自然選択(自然淘汰)は、他の個体との食料の争奪戦や繁殖の為の異性獲得の闘争といった生存競争を勝ち抜いた個体がより多くの子孫を残すという意味だけではなく、急激な気候の変動や地形の変化、伝染病の蔓延、地震・火山活動・氷河期の到来といった自然の猛威に耐え抜いた個体がより高い確率で子孫を残すという意味もあります。
進化生物学について、無数の生物種が生きる自然界の摂理が“適者生存”であるというのは正しいですが、“優勝劣敗・弱肉強食”というのは正確ではありません。

環境へより上手く適応した種や個体が生き残るという『適者生存の法則』は、自然界において成り立ちますが、種単位・個体単位でより強力で優等な種や個体が生き残ると言う意味での『優勝劣敗や弱肉強食の法則』は、自然界において成り立ちません。
例えば、食物連鎖のピラミッド型の階層構造の中で、他の生物種から捕食される危険性が少ない大型肉食獣は、種・個体単位では他の生物種よりも攻撃力があり強力な種・個体ですが、他の生物よりも強いからといって必ずしも絶滅する危険性が低いわけではありません。また、攻撃力が弱くて、鳥や動物などから多くの個体が捕食される昆虫が、弱いからといって必ずしも絶滅する危険性が高いわけではないことからも明らかです。

それらのことから、同種の個体や他の生物種との生存競争を含む広義の環境により良く適応した個体が、より多くの子孫(遺伝子)を残していく可能性が高いというのが自然選択ですが、この自然選択には『より優秀で高等な生物が勝ち残る』といった発想は含まれていません。
しかし、自然界の一般法則を人間社会の一般法則とのアナロジー(類似性)で捉えようとする自然主義の誤謬に基づいた学問分野として発達した優生学(Eugenics)』という分野があります。
優生学は、ヒトラーが主導するナチス政権下において、機械的に遂行されたユダヤ人、ロマ(ジプシー:漂白流浪の民族)、心身障害者などを対象とした非人道的な大量虐殺の理論的根拠ともなっており、別名、悪魔の学問とも言われます。

優生学とはどのような学問なのかを簡単に説明すると、『社会内の優等な遺伝子を有する生命(個人)を増やし、劣等な遺伝子を有する生命(個人)を減らす事を目的とした遺伝学的・社会学的な要因特定の研究分野』という事が出来るでしょう。
優生学の根底にあるのは、生命誕生の統御や生命の質の選別といった生得的な人権を否定する“知性優位主義”であり、科学理論や科学技術によって人間の生命の質の優劣を判別できるとする“科学万能主義”です。

優生学の始祖として知られるイギリスの遺伝学者フランシス・ゴールトン卿(1822-1911)は、『人間能力の研究』という優生学のバイブル的な書物を著し、人間の個人的な能力の差異と優劣の研究を統計学的に推進することが可能であり、優等な形質を有する遺伝子を選別することでより理想的な社会が構築できると考えました。
フランシス・ゴールトンの研究動機は、イギリスのアングロサクソン民族の遺伝的改良であり、人種としての優位性の明示的証明であったと言われますが、彼はその研究の為に自分が強い興味を抱いていた統計学の技法を駆使して膨大な能力の個人差に関するデータを解析していました。
しかし、現代の思慮深い人が少し真剣に考えてみるとわかるように、厳密には、人間の能力や特徴の優劣を客観的な基準で測定することは不可能であるという結論に行き着きます。

人間の知的水準・技芸能力・身体的特徴・身体的能力を、統計学で取り扱い易いように数値化して相対的に比較評価することには所詮限界があり、何に高い価値を置くか、どういった基準や問題で比較するかによって優劣は容易に入れ替わります。
特に、どういった遺伝形質が最終的に種の存続に有利に働くのかといった究極的な遺伝子の質の選別は、人間の主観的な知性によって事前に完全に予測し判別することは不可能であるといえるでしょう。

このように、進化生物学が示唆する自然界の自然選択による個体選別を、人間社会の優勝劣敗に基づく自然淘汰へと歪曲して同一視する思想や考え方を『社会ダーウィニズムといい、優生学や社会ダーウィニズム自然主義の誤謬の一典型として認識することが出来ます。

このように優生学の歴史を堅苦しく振り返ってみると、現代ではそのような遺伝的優劣を測定するような差別的思想や非人道的対処は許されないから優生学は過去の学問・思想に過ぎないという感想を抱くかもしれません。
しかし、人権思想の普及が進み、個人の個性として遺伝形質を認知する考え方が一般的になってきた現代社会においても、優生学の基本的思考形態は、個人の内面的価値判断の中で潜在しています。
例えば、生殖医療分野において、遺伝性疾患や先天性奇形、重篤な心身障害を有する胎児を出生前診断(遺伝子診断)によって発見し、健康で正常な胎児のみを選別しようとする発想には、優生思想が内在しています。
出産前の自分自身の胎児のみに対する優生思想なので、実際の社会的な迫害やマイノリティに対する弾圧といった危険性を持つナチスが用いた優生思想の論理とは異なりますが、胎児期の障害・奇形の有無によって生命の質を選別しようとする内面心理の中には優生学的な差別思想が沈潜・内在していることもまた事実です。

勿論、こういった差別意識を完全に排除するのは容易なことではなく、私も含めて多くの人は、自分自身の子どもが重篤な遺伝疾患や先天性奇形を抱えていることが判明した時に、人工妊娠中絶の誘惑に駆られる可能性が僅かなりともあるのではないかと思います。
奥深き内面に、正常と異常、健康と病気という二項対立的な差別意識や優劣判断を潜在させていることそのものを明白に否定できる人というのはそう多くないでしょう。
他人(友人知人)の障害や疾患に対する差別意識はないと明言することができ、実際に健常者と障害者と全く分け隔てのない対応や交流が出来る人であっても、自分の子どもが重篤な異常や障害がある場合にそれを自らの運命として受け入れ、出産の判断が出来るかは非常に難しいことだと感じます。
極端に言えば、実際に重篤な先天性の障害や疾患を抱えた子どもを産み、愛して慈しんでいる親御さん以外には、一点の曇りなく優生学的な差別意識を超克していると宣言することは不可能ではないかとも思います。

この問題は、生命倫理学(バイオエシックス)では、主要な研究分野の一つであり、胎児単独での生存権や人工妊娠中絶の倫理判断などに関わってくる問題ですが、私はこういった純粋に倫理的な問題を法的な規制や処罰の対象とするのはそぐわないのではないかと考えています。
受精卵や胎児の生命をどの程度尊重すべきなのかという意見の相違は、宗教的信念の有無や人権思想の敷衍の程度の違いなどに依拠して生まれてきます。
究極的には、生命至上主義(誕生し、存在することそのものに最大の価値がある)と功利主義(誕生することそのものよりも、誕生以後にどのような人生の過程を送ることが出来るかという事に価値がある)の対立の問題に還元されるでしょう。
あるいは、“SOL(Sanctity of Life)”QOL(Quality of Life)”の言葉が象徴的に示すような、『人間生命の不可侵の尊厳(神聖性)』と『人間の人生の質(クオリティ)』が交錯し葛藤する問題でもあります。

生命倫理学において、SOL(生命の尊厳)概念というのは極めて重要な概念であり、最も価値観の相違によって意見が激しくぶつかり合う概念でもあります。
あらゆる生命の尊厳を不可侵な神聖なものとすると、私達人間は生存を維持することが出来ない為、どの生物種にどれくらいの生命の尊厳を認めるのかという事を考えなければなりませんし、受精卵〜胎児〜新生児といった発達段階のどの段階において不可侵の生命の尊厳を見出して線引きするのか(線引きできないとする意見もあります)という判断も、法的に中絶可能な週数などに影響してくる重要な倫理判断と言えるでしょう。