日本の伝統と心情に根ざした“桜花の美”と“菊花の美”


気がつけば暦は四月へと時季を移し、つい一週間ほど前まで寒さを感じていた外気が緩やかに和らいできました。
眠っていた生命が萌ゆる春の柔らかく暖かな息吹を感じ、先日出ていた桜の開花宣言を受けて“日本人の美意識の象徴”としての桜に思いを馳せました。
桜は、菊と並んで日本の国花ですが、菊花から浸透してくるイメージと桜花から想起されるイメージはやはり質的に異なるものです。

私の主観的感覚ですが、菊花には、日本国の天皇を頂点とする太政官制の権威をまとった粛然とした美を感じ、桜花には、日本人の無常観やもののあはれの感興に根ざした刹那的な清浄な美を感じます。
菊は確かに美しく、凛然とした気品を感じる花なのですが、歴史を知る日本人にとって菊は桜とは異なるある種の政治性や権威性をまとった花であり、死者の霊魂を慰める仏式の供養とも密接に関係した花です。

現在では、菊花は皇室独占の花ではありませんが、江戸幕府徳川慶喜から朝廷・明治天皇へと大政奉還が為された翌年1868年には、太政官布告により菊花は日本国の最高権威である天皇家を象徴する花として定められ、天皇家専用の紋章として、他の家柄や民間組織が菊花を紋章として使用する事を禁止しました。
薩長連合を主軸とする尊皇派の新政府軍に恭順する事を潔しとしない会津藩庄内藩仙台藩米沢藩長岡藩・新撰組など旧幕府軍は、徳川幕府江戸城無血開城してから後も、新政府軍と局地戦を繰り広げました。

明治維新前後の時代に、新政府軍と旧幕府軍が戦火を交えた戊辰戦争において、王政復古を理想とする新政府軍が軍旗として掲げたのは、天皇を象徴する“菊の御紋”でした。
菊の御紋は、君子である天皇の政治権力の正当性の象徴であり、菊の御紋を掲げる軍隊と干戈を交えるという事は自ら賊軍である事を示す行為として解釈され、朝敵や謀反者という烙印を押されることへとつながります。
江戸時代の学問の主流であった儒教的道徳観では、忠義に基づく君臣の序列は絶対的なものですから、形式的にではあれ、臣下として一時的に国家統治の任命を受けている征夷大将軍が、主家である天皇家に弓矢を向ける事は反逆であり謀反に当たります。

儒教では、基本的に、君子が徳を失って暴虐を尽くさない限りは、政治的支配を指示する天命は変わらないと説きます。原則として、下克上による実効支配というものを認めない有徳者の系譜や歴史的正当性に重きを置く政治思想です。
その為、現在は威勢を失っていても、かつて政治権力を握っていた一族や血縁が残っている場合には、その一族血縁を担いでその正当性を主張する勢力が現れる可能性は絶えずあります。
三国志で、愚直で温厚な蜀の劉備が人気を集めやすい理由の一つが、漢王朝の再興という大義名分に新興勢力である他の国よりも儒教的正当性を感じやすいという事があるでしょう。

自由主義世界に生きる私達は、旧態依然の社会情勢や既得権益の維持を一般に嫌う傾向がありますが、何故か歴史物語や貴族文化の世界に分け入ると、権力者の血の系譜に特別な価値や共感を感じたりする事があります。
伝統保守といった肯定的な感情であれ、差別思想といった否定的な感情であれ、血の系譜と政治権力との関係性に対して、人間は何らかの感情が湧き起こりやすい。
そういった血縁や一族を巡る感情の機微と喚起、政治権力の歴史的系譜への思いが、儒教思想の根幹である秩序志向や祖先崇拝の念と絡んでいるとは言えるでしょう。
私は、儒教の政治思想としての側面よりも倫理規範や徳性の概略の提示といった側面に面白さや魅力を感じますが、儒教は本来、個人の道徳修養を基にした天下・人民を治める政治思想としての趣きを強く持つ学問であることもまた確かなことです。

今でも、菊花は、国家権力を根拠に持つ警視庁の徽章として採用され、国政の大任を預かる国会議員の議員バッジのデザインとして使用されています。
更に、菊花は、宗教的権威に支えられた大寺社や有力な神社の紋章として採用されている例も多く、仏前に供えるのに最適な花とされていることからも、菊花はその取り扱いや社会的認知が、明らかに桜花とは異なっています。

桜が私的な美の光彩を放つ庶民の花であるとするならば、菊は公的な美の光彩を放つ貴族の花であると言う印象がありますが、どちらも見る人の心を揺らがせる日本の風土と歴史に根ざした風雅な気品と趣きのある美しい花です。

江戸時代の大儒であり国学者である本居宣長は、桜の花から感じられるもののあはれの情趣を楽しみ、桜の花を偏愛しました。
本居宣長は、桜の花の美を幾つも歌にし、随筆『玉勝間』の中でも桜を讃美する文章を書いています。


花は桜、桜は山桜の、葉あかくてりて、ほそきが、疎らに混じりて、花しげく咲きたるは 又たぐふべきものもなく、憂き世のものとも思はれず

『玉勝間』より


しき嶋の やまとごころを 人とはば 朝日ににほふ 山ざくら花

めづらしき こまもろこしの 花よりも あかぬ色香は 桜なりけり

わするなよ わがおいらくの 春までも 若木の桜 植えし契を

我心 やすむまもなく つかはれて 春は桜の 奴なりけり

此花に なぞや心の まどふらむ われは桜の おやならなくに

桜花 ふかきいろとも 見えなくに 血潮に染める わが心かな

短き時に華やかに咲き誇り、さめざめと散りゆく桜の刹那の美、人間の生の無常な儚さとそれ故の価値を桜花に見出した古来からの日本の美意識は現代の私にも通底するものです。
しみじみとした情趣や感興を深く味わうこと、そういった風雅風流な花見を無心に楽しみたいと思った四月初めの一時でした。