『生命の救助と病気の治療』から『生命の選別と生死の判断』へと向かう医療:安楽と快適への流れ


自由主義社会の生命に関する倫理問題の多くは、出生前診断(マス・スクリーニング)や遺伝子治療、人工妊娠中絶、クローン人間産生、ES細胞の医療資源化など医療領域やバイオテクノロジーの領域で発生してくる。
生死に関わる問題や重篤な疾患の治療の機会を、経済力がある者がより良い医療サービスを受ける事ができるという市場経済原理に委任してはならないと考える人は未だに多いし、医業は神聖なものであり、患者の生命を預かる医師は特別に高い倫理観や良心を有する聖職者であるべきだと認識している人も少なからずいるかもしれない。

一方で、医療はサービス業の一つに過ぎず、医師と患者の非対称で不平等な関係を出来るだけ改善する為に、医学知識や病状説明、治療方針などの情報開示を積極的に丁寧に行っていくべきだという意見がある。
現在、マスメディアや医療関連の教養書などで強調されるこのスタンスでは、インフォームド・コンセント(十分な説明に基づく同意)”“セカンド・オピニオン(担当医以外の医師の診断や意見を聴くこと)”を徹底することで、医療行為はますます患者にとって身近でメリットの大きなものとなっていくだろうと示唆されている。

ここで前面にせり出してきている対立点は、『医師の権威主義の容認と否定』の対立である。
一昔前まで、医師の社会的地位は現在より格段に高く、医師は同じ先生という呼称で呼ばれる他の職業とも一線を画する特別な職業であり、現在でも高齢者には、医師に対して無条件の尊敬と信頼を寄せ、自らの主体的判断を放棄したがる人が多く見られる。
こういった主体的判断の放棄の心理機制は、一神教の超越的存在者である神に帰依する心理が日常化したものと考える事もできるのではないだろうか。
この一神教的観念の典型である依存心(他力本願)から派生したものが、権威主義であり、全体主義ファシズム)であり、境界性人格障害(ボーダーライン)であり、実存的不安や孤独であると考える時、『自分の意志で、自分の判断で、自分の生きる人生を選択する恐怖や不安を回避したいと願う』私達人間の心の弱さや脆さが本性的なものであることが分かる。

反抗期にある若者やアイデンティティ拡散の混乱状態にある人はよく『自分は社会に引かれたレールに従って生きるのはごめんだ。自分の人生をどう生きるかは自分で決める』と強力な自我意識の発露や主体的意志の顕示をすることがあるが、本当はどれだけ上手く社会に適応して人並み以上の成功を獲得していようと、どれだけ個性的で魅力的な生を享受していようと、誰もが現在ある社会規範や経済構造の元に引かれたレールの上を無意識的に走っている事に違いはないのだ。
様々な職業や活動はあるだろうが、他者(企業)から金銭や給与を得るという事は、他者に必要とされる社会的役割を享受する事に他ならないからである。
そこでは、自己実現の追求や、本当の自分探しといった精神的な価値や独自性への欲求はひとまず脇に置かざるを得ない。
精神世界の深奥にある理想的な自己表象を、現実世界での社会生活で実感し、それを実際の行動や関係の中へ取り入れる事が必要なのかどうかも再考する余地があるだろうし、“本当の自分”という魅惑的なシニフィアンに過度に耽溺する事は逆に不自由さの度合いを強めてしまうかもしれない。

そういった事に自覚的であるかないかの差異はあれ、人間は本質的に社会的な動物であり、社会や慣習や法規範の外部へと、超越的な場所へと抜け出て生を決定することは出来ないという事実が、他力本願的な宗教への回路をいつも開いている。

現実的世界にある『私』を超越した何かに縋りつきたい、頼りにしたい、保護されたいという宗教的観念が自分にはないというプラグマティストや市場原理主義者がいるかもしれないが、拝金主義や実利主義であっても、現実的な『私』を補強してくれる救済してくれる金銭・名誉・地位・人間関係といったものに依存せざるを得ないのではないか……自然世界にあるヒトから文明世界にある人間へと進化の発達段階を駆け上がった時に、権威や超越への憧憬や依存が必然的に私達の内面へと胚胎したと考える事も出来るだろう。

権威主義の根本は、非対称的な上下関係を何らかの社会的基準によって自分自身の側から進んで承認することにあり、権威主義を肯定する事によって心理的・実利的・社会的メリットを相互に享受することが出来るからこそ、社会にはその弊害が指摘されながらも権威主義は確固として存在するのである。
社会秩序や伝統文化を重視する保守主義者であれば、一定の社会的権威を必ず認める事になるし、社会成員の大多数の人は、社会機構内部の秩序を尊重していてもいなくても慣習的な権威構造に対して基本的に従順である。

そもそも、各種学問分野や技術領域が細分化し複雑化する近代社会では、専門家・資格保持者は非専門家・無資格者に対してある種の権威としての立ち位置を得る事になる。
知性化する近代社会の構造とは、純粋な知識保有量の多寡を競い合う構造ではなく、規定された枠組みの中での試験や資格審査をパスするか否かといった国・公共機関・法人の権威の承認の元で競い合う構造であり、既存の学校制度の中で学者という専門家のステイタスが保障される構造ともなっている。
そして、自己実現や個性の発揮を強調する専門学校や民間資格発行機関があるように、公と民が相互に権威を承認強化するシステムを形成している。

医療倫理の医師・患者の非対称関係の問題に立ち戻ると、“生命健康に関する重要な選択責任を回避する事による安心感”が最大の根拠として挙げられる。
実際、医師に対して無条件の信頼を向ける患者のほうが、精神的ストレスは軽減され、重大な手術前の不安や恐怖は緩和される傾向があり、プラセボ効果と同種の回復を確信する被暗示効果は高まります。

一般に、病理学や薬理機序の知的理解の深化は、自分の病状や治療に対する懐疑・疑念につながりやすいのですが、それらの知的理解にあまり積極的ではない人にとっては、専門家である医師や薬剤師の治療や指示は絶対的に確実で正しいものとして受け取られる為、言われた通りに服薬して手術を受ければ大丈夫という安心感や信頼感につながります。
医学は、そもそも薬剤の効果効能や病態の進行経過に関しての個体差が大きく、普遍的な一般理論を提示できるような純粋な自然科学領域の学問ではありませんから、あるレベル以上の問題になると確率論でしか語れなくなります。
悪性の進行癌が発見されても、何年生存率が何%であるという確率論で語られ、薬剤の服用を指示する場合にも一定期間服用後に副作用がどの程度出ているかなどの経過を個別に観察しなければならないことからも、医学は一般法則の適用という自然科学のような機械的なものではなく、経験的要素が多く介入し、同じ診断名が下された患者であっても治療法や処方薬が異なる事は普通です。
重篤あるいは慢性的な身体疾患、恒常的な精神障害に典型的ですが、通常の身体疾患であっても、『この手術や服薬さえ行えば、絶対に良くなる』という断定や保証は、通常、自然科学ではない医療行為では行うことが出来ない。

医学が自然科学でないという事は、論理的に単一の真偽を判断する事が難しい分野であるという事でもあり、医療行為における微妙な確率論的判断(複数の対処方法が考えられるケース)には、一定の権威性の存在が要請されていたと考える事もできる。
最近では、医学界の権威が引き起こした薬害エイズ事件フィブリノゲンによる薬害事件による肝炎感染、相次ぐ医師の医療過誤やわいせつ事件の報道などの影響もあって、医療業界全体の信頼は磐石なものではなくなってきているが、ヒトゲノムの解析と遺伝子工学の進歩に合わせて、生命・健康を保護し操作する職業として医師が独占的に業務を行える領域はますます広がっていく可能性がある。

止まる事を知らず日進月歩で進歩する医療技術や医学知識が突きつけてくる生命倫理問題は、今まで単純に『死を回避させ、病気を治療する仕事』であった医療が『生死を選択し、生命を選別する特殊な領域』へと踏み込もうとしている為に起こっている問題である。
現代医学の目標は、疾患や障害によって生じる苦痛・不快を駆逐するだけではなく、事前にマス・スクリーニングの遺伝子検査によって予測可能な疾患や障害を予防して排除するという地点に置かれようとしている。

おそらく限界を知らない人間の欲望が最終的に行き着く医学に対する究極的な要請は、『永遠の健康と若さを維持した生命』の創出なのかもしれない。
それが遠い未来に実現可能なのか否かは私などには知る由もないが、『生の有限性』という運命的な制約から人間が解放された時、そこには現在とは全く異なる倫理規範の体系が構築されることになるだろうし、生命の尊厳といった概念そのものが根底から揺らいでしまう事になるのではないかと思う。

神の死せる現代社会において、人間の安楽と快適の為に生命そのものを操作選別してはならないという無条件の禁忌や戒律は説得力を持ちにくい。
具体的根拠や切迫した危険性を明示せずに、『それは、自然の摂理に逆らうからしてはいけないことなのだ』という素朴な論拠に基づく先端生殖医療の批判は、『医療行為自体が自然の摂理に逆らう人為的行為である』という意見によって反駁できると考える人も多いだろう。

どこまで生命の誕生や死に人為的な介入をすることが出来るのかという生命にまつわる倫理判断を人間自身の理性と良心によって考えていかなければならないとするのが『バイオエシックス生命倫理学)』であり、生命科学の成果を無条件に医療利用することに一定の歯止めをかけるという意味合いもそこには込められている。