自由主義と現代社会

私達が戦後日本において享受した最大の権利といえば、あらゆる領域における『自由』です。

『自由である事は正しく、自由でない事は間違っている』とは、文明的な産業の発達した経済社会や自由な雰囲気の漂う民主主義社会ではおよそ全ての人に共通する価値観であり、確からしいとされる倫理的判断です。
しかし、ここで考えてみたい事は、『自由とは何か?』という事と『自由主義個人主義の範囲・限界』です。
そもそも、『自由』というのが何なのかを考えると非常に難しい。果たして、私達は普段、何気なく使っている『自由』なるものを真に理解していると言えるのだろうか?

自由という言葉、自由という概念、自由という理念を徹底的に掘り下げていくと、そこには『やりたい事をやりたい様に好き勝手にやる』という以前に関わっていかなければならない『他者』『社会』『共同体』というものが見えてくるはずである。自分の欲求や目的から生じる行為・活動には、空想的な創作や想像的な遊戯、一人で遊べるゲームなどを除いて必ず『他者』が関わってくるし、自分の欲求を満たす事に商品やサービスが必要ならば労働活動を通して社会や集団に関わっていかなければならない。

自由な思想や行動が認められた現代社会においても、私達は特別な大金持ちや資産家でもない限り、他者と関係せずに自由を享受する事など出来ないし、『私』という自我意識を十分に成熟させ確立させる為には『他者』の視線や評価を浴びなければならない。
『私とは何者なのか?』という問いかけに対して曲りなりにも答える為には、通常、私達は自分を社会内存在として認知し、自分自身の主観を離れて自分を他者と同じく相対的に見る客観視の能力を得なければならないからだ。

私達がかつて抱いていた『幼児的全能感に基づく自己中心性』や『胎内復帰願望に基づく自閉的万能感』は、『他者との出会い』や『社会への参加』によって粉々に打ち砕かれ、『私』と『あなた』を比較可能な対等な権利を持つ個人・対象として位置づける。
『私』は、社会内において必ずしも『あなた』より高く評価されないし、必ずしも『あなた』より優れた能力や特質を持つわけではない。

自由主義社会においては、『私』同様に、『あなた』も自由な存在であり、あなたが私の自由を侵害できないように私もあなたの自由を侵害できないという基本的な社会契約を私達は日々の経験に中から無意識に学び取り、その『他者危害原則』を内面化させる。
現代社会の自由主義論でよく問題として提出されるのは、この『他人を傷つけなければ、私は何をしてもよい』『他人の自由を侵害しない限りにおいて、私は何でもする自由を持つ』という他者危害原則の適用範囲である。

他者危害原則について少し触れたが、この問題は、後でJ・S・ミルの自由主義思想と関連させて改めて語りたい。
その前に、『自由』という理念・概念について多角的に色々考えてみなければならないと思っている。

  • 一般的な意味での自由…自分の意志・願望・欲求に従っており、他から強制・拘束・支配されていない状態。自由に行為する場合には、その主体の権利・義務・責任が問題になってくる。
  • 通俗的な意味での自由…自由気ままにやりたい放題に出来る状態。利己主義に基づく行動が妨げられない様。物事が自分の思い通りに進む様子。
  • 哲学的な意味での自由…カントの説く自己を統御する自律性(アンチノミー)に基づく自由。本能的欲望や生理的欲求に流されずに、自分を自律的に統御し、普遍性を持つ内的格率(規範)に従って自発的に行為する事。自由は、更に『他者の強制・支配からの自由』『外的自然からの自由』『内的自然(本能・感情)からの自由』に分類され、自由意志によって実現される。
  • 共同体的な意味での自由…所属する社会共同体が、基本的人権の尊重という自然権的前提を持ち、構成員の自律性や主体的な判断を重視し、自律性や決断力を成熟発展させる為の社会構造や社会制度を備えている状態。

おおまかに自由を辞書的に定義すれば上記のようになるが、自由概念は、時代的・歴史的な制約を大きく受けてきたという事も合わせて付記しておきたい。
古代ギリシア古代ローマ世界において、自由は取りも直さず奴隷でないことと同義であったし、殊に古代ギリシアではポリス(都市国家)市民として政治参加し共同体を運営することが自由な市民である事の証であった。直接民主制に参加できるポリス市民固有の属性として、自由が考えられていたのである。

暗黒時代と呼ばれる中世ヨーロッパ世界では、生活の為に労働に従事しなくてもよい貴族階級の特権的属性として自由が考えられる向きがあったが、自由は学問技術の発展や敬虔な信仰、詩的な恋愛を育む基盤ともなった。近代に至るまでの思想哲学・科学等学問の先導者の殆どは、生活の為の労働から解放された自由を享受する有閑階級に属していた。

16〜17世紀、マルティン・ルターカルヴァンが登場してカトリックプロテスタントの対立が先鋭化する中で信仰の自由というものが意識化され始め、ローマ法王を頂点とする教会教義の権威からの自由と敬虔な信仰が矛盾しないような道が模索される。これらは、信教の自由の原点を為す。

絶対王制や貴族制などの専制主義を打倒して、自由な市民を主権者とする政治体制を確立しようとする幾つかの市民革命(清教徒革命・名誉革命フランス革命)を西洋世界は経験し、自由概念を更に強化し拡張していくことになる。

現代の憲法基本法で掲げられる自由概念の適用範囲は市民革命後にほぼ出揃ってくる。信教・宗教の自由から思想・信条の自由へと、更には言論・出版の自由へと自由は自らを強化し、その範囲を拡張してきたのだ。
マルクスエンゲルス共産主義思想に置いて理想的に掲げた自由とは、『人間の権力・貨幣からの解放的自由』であったと言えるが、彼らが理想とした自由は実現されることなく旧ソ連や東欧諸国では人間個人は圧倒的な社会主義権力によって弾圧され抑圧される皮肉な結果を生んでしまった。