ブロイラーの精神分裂病概念の発展とボーダーラインの出現


前回、クレペリンが早発性痴呆(Dementia praecox)の疾病単位を確立して、それまで曖昧模糊としていた症候群から躁鬱病統合失調症という『二大内因性精神病』を析出した事を見てきました。
内因性は、先天的・後天的な身体的原因が想定されるが原因を特定し難い疾患を意味しますが、統合失調症の場合には、脳・中枢神経系の機能が障害される事で『知覚・認知・思考・感情・意欲・興味・注意』などの脳機能に異常を起こします。

重症例の統合失調症では、MRI(核磁気共鳴断層撮影法)により、側頭葉や第三脳室などに拡大・萎縮などの器質的障害の所見が見られることもあります。また、側頭葉のシルヴィウス溝と呼ばれる部位を電気刺激する事で、通常の知覚とは異なる知覚が発生して幻覚・妄想が出現するという仮説もあります。
PET(陽電子放射断層撮影法)では、理性的思考や本能的衝動の抑制を司るといわれる前頭葉の血流障害が見られる事もあります。

脳内の神経細胞ニューラルネットワークニューロンと呼ばれる神経細胞の情報伝達のネットワーク)の破損や異常を想定する仮説では、ニューラルネットワークが正常につながっていない為に情報処理過程に障害が起きてそれが精神症状を引き起こすと考えられます。

ブロイラーは、クレペリンの早発性痴呆を『Schizophrenie』と名付けましたが、これはブロイラーがクレペリンの疾病概念全てに反対して名付けたわけではなく、痴呆という病態と精神病の病態との違いを指摘する一般的な疑問への対応であったと言われます。
ブロイラーは、連合心理学を基盤にして早発性痴呆の病像を観察したので、早発性痴呆の基本症状は『観念連合の障害』*1であり、それは『精神機能の分裂』*2によって生じると考えて精神分裂病という病名を発案しました。

ブロイラーの精神分裂病概念を考える際に忘れてはならないのは、彼の考えた精神の分裂は、人格や人間性の分裂とイコールではなく、個々の精神機能の結びつきの分裂であり、精神機能の統合性の障害を意味しているという事です。
統合失調症の症状は大きく分けて、幻覚・妄想・作為体験*3・支離滅裂な言動・興奮錯乱・気分の高揚状態を主な症状とする『陽性症状』と感情鈍麻・感情の平板化・意欲減退・思考発言の貧困・興味関心の喪失・引きこもり・無為・自閉などを主な症状とする『陰性症状』に分けられます。


統合失調症に対する間違った理解や認識の背景には、精神の分裂を理性的な思考の崩壊や人間性・自我の崩壊に結び付けて考えてしまう事があり、精神分裂病のような異常な狂気に冒された人間は回復しないという間違った先入観や差別的偏見があります。
統合失調症は、精神医学の19世紀的パラダイムから20世紀的パラダイムへの移行の過程で不治の精神荒廃に至る病から治療可能な病へと変化してきました。

フロイト精神分析療法が、統合失調症に対して殆ど効果を発揮し得なかったのは、精神分析療法の治療機序の要である『感情転移の欠落』*4と『自我機能の脆弱』*5があったからですが、通常のカウンセリングでも『感情移入の困難』や『意思疎通の不全』などの問題よってラポール*6が確立せず、統合失調症者の改善や回復は難しいとされてきました。

精神医学の歴史では、インシュリンショック療法や電気ショック療法など少し荒々しい治療法や、現在では非人間的な治療法と批判されるロボトミー手術などが行われましたが、結局、統合失調症の医学的な治療可能性は、1952年の『抗精神病薬クロルプロマジンの登場』という医学と薬学の相補的な進展によって齎されました。
治療不能な病から治療可能な病へのパラダイム転換は、統合失調症の理解可能性や了解可能性を高めていき、異質性や異常性という隔絶の壁を打ち壊していきます。
統合失調症という複数の症状を持つ症候群を分析していくと、幾つかの典型的な症状は神経症領域にも見られることが分かり、また、それまで精神病の定義であった『現実と非現実の境界線が曖昧になり、現実検討能力に障害がある』という定義もそのまま適用することが難しくなってきました。

統合失調症の症状を呈する人でも、通常の意思疎通が可能であったり、幻覚や妄想を現実的状況と切り離して考えられる人が居る事が確認され、神経症と精神病のカテゴリーは切断されているのではなく連続しているという考え方から、その中間領域の症候群あるいは性格の偏りとして『ボーダーライン(境界例)』という新たな精神疾患の領域概念が提起されました。

ボーダーラインの問題は、現在の精神医学関連分野においてかなり大きな問題となっており、精神の障害とすべきなのか性格の過度の偏りや歪みとすべきなのかは判断が分かれますが、私は、ボーダーラインは、その発症において『適切な対人関係スキルの発達を阻害する後天的な環境要因』が生育歴の中にあって、その為に人間関係にまつわる感情制御が不可能になっている心理状態・性格構造だと考えています。
ボーダーライン概念の出現は、クレペリンやブロイラーが否定したグリージンガーの『単一精神病説』*7の再来として解釈する事もでき、精神病を特別に重度な精神障害として区別する考えを否定する流れでもあります。

そして、1960年代の精神病者閉鎖病棟から開放病棟へ移して、治療可能な当たり前の人間として取り扱うという人道的な機運の中で、統合失調症は精神医学そのものを反射する鏡となり、社会構造や家族関係の歪みや問題を映し出す湖面へとなっていったのである。

*1:ある観念とある観念の結びつきに障害が起こる事で、現実的で論理的な考えが出来なくなる。支離滅裂な発言をして、思考内容も理解不能なものになる。また、“連合弛緩”といって通常の連想や想起が不可能になることで、他者との意思疎通が困難になる。

*2:ブロイラーは、連合心理学の立場から、人間の精神が知覚・思考・感情・判断など幾つかの精神機能が精緻に組み合わされて成り立っていると考えていて、精神分裂病ではこの精神機能の結びつきが離れて分裂すると仮説した。

*3:実際には存在しない相手からの命令の声が聞こえて、その命令に操作されるかのように行動してしまう特徴的な幻聴体験

*4:精神分析を受けているクライエントが分析者に対して、過去の重要な人間関係で体験した強烈な感情を向ける事を感情転移という。反対に、分析者が相手の感情転移に引き込まれて、自らの過去の記憶や体験にまつわる感情をクライエントに向けてしまう事もあり、これを“逆転移”という。転移には、好意や愛情を向ける“陽性の感情転移(恋愛感情転移)”と憎悪や嫌悪を向ける“陰性の感情転移(憎悪感情転移)”とがあるが、精神分析療法では感情の自由な発露と情的な実感的体験が治療の為に重要なものと考えられているので、感情転移が全く起きないクライエントは精神分析にあまり適応していないと言える。

*5:精神分析療法では、『分析を受けたい』という自発性や主体性を発揮する自我が重要とされ、また自らのありのままの感情や受け入れ難い過去の記憶と向き合う必要があるため、一定以上の自我の強度がないと精神分析は逆効果になってしまうことさえある。

*6:カウンセラーとクライエントの間で成立する信頼関係。あらゆる心理療法において、信頼と安定の人間関係を重要なものとされ、治療構造の構築段階でラポールを高めていかなければならない。

*7:全ての精神疾患は、ただ一つの精神病の多様多型な現れであり、表現される形が違うだけであるとする説。