生命の価値判断と脳機能中心の人間観


id:cosmo_sophy:20040923で、バイオエシックスの話題に少し触れましたが、バイオエシックス生命倫理学は、生物学と倫理学を架橋する学問分野であり、『不可侵の生命の尊厳』や『人間の科学技術による生命の人為的操作の是非』について倫理的に考察を進めるものです。

生物学によって明らかにされる自然科学的な『事実』と人間意識が認知し尊重する事で発生する『価値』は、確かに異なる位相にあるのですが、事実と価値が全く連接していないわけではありません。
生命倫理学が対象とする問題は、その多くが医療現場で発生するヒトの生死を争点とする問題で、不可侵の生命の尊厳や価値が発生する時点や消滅する時点について対立や論争が沸き起こる場所です。

遺伝子操作などの先端医療技術、ES細胞(胚性幹細胞)を利用する再生医療・人工受精などの生殖医療技術、そして、一人の脳死者であるドナーの生命によって成り立つ臓器移植手術などにまつわる生命倫理の問題は、人間が持てる科学的知識や技術を何処まで実際の医療や社会に応用してよいのか、あるいはそういった問題を考えずに結果としての利益が得られるという功利性だけで医療問題を考えてもよいのかという価値判断を私達に迫ります。

現代において、生命の優劣判断や選別といった優生学的問題を意識することは殆ど無いのですが、潜在的な優生思想が人工妊娠中絶や脳死問題の中には含まれています。
医療とは、心身の病気や障害といった苦痛や不自由さを癒し回復する事を目的としていますが、病気や障害に対して『出来れば、私は病気や障害にはなりたくない』という個人のマイナス評価が倫理的判断に結実する事で、『病気や障害のある人は不幸である』という他者の存在意義に対する差別意識につながる恐れがあります。
そういった悪気のない差別意識は、通常の生活空間や自己の意識から遠ざけられ隠蔽されているのですが、内在化した差別意識を見つめなおす事で、現代の倫理規範の多くがその根底に『結果としての幸福=功利性』を持っている事が見えてきます。

『区別と差別』は、実は相当にその概念の厳密な線引きをすることが難しいし、AとBとCを区別する際に置かれている社会状況や人間関係や利害関係といった『社会生活の文脈』によって、単なる区別であるのか、反省すべき差別であるのかが分かれてくると思います。
経済社会の自由市場における競争による選別や格差は、その競争が公正な前提を持ち、大多数の人が機会の平等性を信頼している限りは、正当な区別であり差別ではありません。
また、生命倫理の領域における差別は、政治経済的・社会的な差別とはその性格をやや異にしており、人格の評価や生命の取り扱いなど生命の価値判断にまつわる事柄において発生します。

ただ、差別は、通常、個人対個人の関係性に限定された生活の文脈では起きず、『立場・特性の異なる集団間』や『利害の対立や権利の衝突のある集団間』で起きます。

一般的な政治的社会的差別とは、『民族・宗教・出自・身分・社会階層・心身の障害』など本人の意志や努力によって修正不可能な属性を理由にして、そうした属性の集団内の個人に対して、不当な政治的対応や社会的制裁、弾圧や排除といった理不尽な攻撃などを加える事です。

それに対して、生命倫理学の領域における区別と差別の境界線上にある判断とは、『脳死・未成熟・胎児段階の障害・私の幸福や利益の確保』を根拠にして、自我意識の発生していない人格のないヒトや自我意識を事故や病気で喪失した人格のないヒトを、不可侵の生命の尊厳がないと判断して、『自我意識のある人間』の幸福や利益といった功利性の為に利用してもよいとする倫理判断の事です。

私は、こういった結果としての幸福を追求する功利主義的な倫理判断を必ずしも悪しき差別主義だとして退けるつもりもありませんが、人間の生命の誕生と終結を巡る問題が、現代では、脳の機能である思考や感情の主体の生死を巡る問題に代わりつつあるとは言えるでしょう。

それは、価値を巡る言説が、科学的事実を巡る言説に飲み込まれかけているといった見方も出来ます。
しかし、客観的な倫理判断の議論の場で脳死=人間の生命の終結と納得していても、実際に自分の愛する配偶者・彼氏彼女・家族が脳死状態に陥った時に、私たちの倫理性は科学的事実が示す人間の終結を認めない可能性は大いにあります。
最終的な人間生命の取り扱いを科学的事実で規定することは出来ず、脳死を人間の死として強制的に取り扱う事に多くの人が抵抗感を感じるのは、私たちが現実状況で用いる内面的な倫理観の多くが『関係性と記憶の文脈』において生起してくるからだと考えられます。

言論空間では脳機能中心の人間観が優勢ですが、生活空間では関係性中心の人間観が優勢となってきます。他の誰も踏み込めない『私とあなたの関係』というものが、その象徴でしょう。

法律と倫理の矛盾や不一致が現れ出てくる地点の多くも、そうした内面的な良心や倫理観が関係性の文脈に現れ出てくる地点です。
政治権力や自然科学の知によって善悪を固定的に規定出来ないと感じる『私的領域』を守る必要性をそういった地点において感じるのかもしれません。

脳死と臓器移植、安楽死、人工妊娠中絶、遺伝子治療、クローン産生、ES細胞の研究利用などをいつか掘り下げて考察したいとは思いますが、生命倫理学の範囲は余りに広範で専門的知識を要請するものも多いのでなかなか大変そうです。