民主主義思想と政治参加する市民(citizen)について


民主主義とは、政治的な意志決定方法に関する『政治思想』であると同時に、共同体とその共同体に属する個人である市民(citizen)の政治的なあり方を規定する『政治形態』である。
民主主義政体においては、『国民主権主権在民』が前提であると学校の公民の授業などでは教えられる。日本国憲法前文でも、以下のように国民主権主義に基づく民主的な政治決定について述べられ、憲法が規定する国民主権主義に反する法令・条例・詔勅は無効であるとされる。
主権とは、言葉を換えれば、国家権力であり、強制的にその国家内の個人や集団に行為・義務を課す事が出来る力です。
国家主権は、最高権力であり、他国からの干渉を受けない独立権力であるとされます。


日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

私は、日本国憲法を不磨の大典と仰ぐ教条的な護憲論者ではないが、民主主義思想を政治的意志決定の基本理念とする事に異議はない。いや、現在の自由主義個人主義、人権思想というものを前提に考えるならば、民主主義を政治的な意志決定の方法論から排除する事は不可能であると言い換えてもいいかもしれない。

反対に、政治や立法を結果論だけで考えるならば、民主的な議会政治以外の特定個人や特定集団に権力が集中する『独裁政治体制』が必ずしも劣っているわけではない。特に、社会が混乱し不安定になる戦時や恐慌時、クーデター勃発の時などには、強力な絶対権力を持つ賢明な独裁者が政治を行う事が迂遠な民主政治よりも良い結果、望ましい結果を導く事がある。
だから、日本国憲法において民主政治が人類普遍の原理であると称揚されているのは、民主政治が功利主義的な利益・幸福の最大化をもたらすからでもないし、リベラリズム的な利益・幸福の均等化を保障するからでもない。

民主主義国家が、人類普遍の国家形態と断言してしまうのはやや傲慢で、現在のアメリカの強硬で押し付けがましい対外政策のような弊害を招くこともあるが、民主主義の価値とは『自らの行為に責任を持つ自由な市民が、自分達の意志や意見を政治に反映させながら、国家権力を市民の一般意思の総体として認識できること』にあると考えられる。

国家権力によって、徴税されたり、監視されたり、逮捕拘禁されたり、処罰処刑されたりする事で、私達は時折、国家権力を私達を支配し抑圧する圧倒的な力、ホッブズ流に言えばリヴァイアサンと考えてしまうことがあります。
とはいえ、民主主義国家では、通常、私達とは切り離されて存在すると考えられる絶大な国家権力の極々微小な一部を私達個人が分割所有していることになります。

国民主権主権在民というのは、今述べた国家権力を国民それぞれが平等に分有し、選挙での投票や住民投票といった間接的な形ではあれ、その権力を公共の福祉(最大多数の最大幸福)を目的として行使しているということを意味します。
しかし、現在のように国家機構が巨大化し、国家に所属する人口が非常に多くなり、社会システムが高度化して複雑化している政治状況においては、国民一人一人の分有する政治権力はもう余りに微細で弱小なものになってしまいます。
これが、id:cosmo_sophy:20041107で述べた、『主権者意識の低下』であり『政治への興味関心の低下』です。

かつて、古代ギリシア古代ローマの世界において実現された民主主義や共和制政治では、政治参加できる事は即ち特権階級的な市民である事を意味しており、市民は高い政治的意識と知識、共同体運営に関する強い興味関心と意欲を持っていた。
主権者意識の高さは、『共同体と自己の関係性』の深い認識に根ざしている。
何故、古代の民主政治や特権階級的な市民による議会政治において、高い主権者意識が維持されたのかを考えると、まず、重要な国家運営に関しては、間接民主制ではなく直接民主制を採用していることが多い事が挙げられる。更に、共同体の人口が小さく自らの意見や意志が明確に政治決定に反映することを実感できた事、共同体の繁栄や衰退が直接的に自分や家族の生死を分けたり、奴隷身分への転落を意味する運命共同体的な趣きが強かった事による。

ここで、一番留意しなければならない事は、民主主義政体において市民である事は、立法・行政・司法・外交・戦争といった国家運営に参加する特権を享受し、種々の社会保障や福利厚生の恩恵を受ける代わりに、自分の所属する共同体を外敵から防衛する義務、つまり、従軍の義務を負うと言う事です。
平和な現代の日本社会では、徴兵や従軍と言うととても恐ろしく危険な任務であり、出来れば忌避したい義務のようにも思えますが、古代ローマの貴族階級が自ら望んで意気軒昂と重装歩兵として従軍したように、かつての兵役は国家運営する市民としての『栄光ある義務』であり『共同体の命運を主体的に決定する手段』でした。
共同体の興亡は現代においても国民の生死や幸福と密接に関係しているのですが、第一次世界大戦以降の大量破壊兵器を利用する総力戦と古代〜中世の刀剣や弓矢、投石による局地的な戦争とを同一視することが出来ないという問題があり、現代の先進国では何らかの社会的特典付きの志願兵制や戦争のプロである職業的軍人による戦争が一般的な形態になりつつあります。

時々、日本における主権者意識の低下や政治参加の意欲の乏しさを欧米と比較して過剰に批判的に捉える向きもありますが、私は政治意識の低下が必ずしも日本特有の問題だとは考えていません。
アメリカの大統領選などを見ても分かるように、アメリカでも、政治参加の権利を行使する機会である選挙が、国家の政策を真剣に議論する機会としてきっちりと位置付けられているとは言えません。
大多数の人にとって、単なる人気投票であったり、マスメディアを通した誹謗中傷合戦を楽しむある種のエンターテイメントであったりします。
世論や人気を誘導する権力ゲームの様相を見せるエンターテイメントとしてのアメリカ大統領選は確かに、堅苦しい政策議論よりも国民の注目や関心を集めますが、テレビや雑誌で国民を喜ばせる面白いトークや内容空疎だがインパクトのある主張をするだけで票を集めることが可能です。

しかし、アメリカ型の国家元首を直接投票で選ぶ形式では、選挙に莫大な選挙資金が掛かる為に一般市民や裕福でない議員には立候補のチャンスすらありません。日本の選挙もお金が掛かりすぎるという批判がいつもありますが、アメリカの大統領選に掛かるお金は数百億という単位であり最早常識を逸脱し過ぎていて何らかの巨大な資産がある人物か大企業・資産家の援助を受けられる人物でないと立候補自体が不可能です。その上、その選挙資金の大部分が、相手候補のスキャンダルやミス、欠点短所を誇大にあげつらう非生産的なネガティブキャンペーンに費やされる事を考えると、余りに無駄が多すぎます。
その為、合衆国大統領になる人物が、アメリカ国内においていつも超一流の人格と見識と知性・経験を持っているわけではないという『選抜システムの欠陥』が指摘されます。

こういった事を考え合わせると世界にある先進国の多くで、ある種の民主主義の限界や弱点が政治意識の低下やむ関心といった形で露呈してきているとは言えるかもしれません。