マグナ・グレキアを実現したギリシア人の歴史


民主主義思想と民主政治について、縷々と取り留めなく書き連ねてきましたが、民主主義の原点を遡れば、アリストテレス(B.C.384-B.C.322)*1アテナイの政治体制に関する記述を読む事になるでしょう。*2

古代ギリシア世界のアテナイギリシア*3による民主政治は、市民全員が参加する直接民主制に基づく『民会』と、市民の代表者によって財政の歳出入や行政を監視する間接民主制に基づく『評議会』*4が存在していました。
評議会の審議事項や決定事項はそれだけでは権力による執行が出来ず、最終決定権は絶えず民会にある為*5アテナイの民主政治の主体は直接民主制であるという事が言えます。

また、アテナイでは評議会を構成する評議員だけでなく、公共の職務(公務)に携わる者の全てが各部族から同じ人数だけを選出する平等な任意の抽選によって選出されていました。
政治参加の権利と義務を、徹底して主権者であるポリス市民*6に背負わせる事の出来る機能的な政治システムが古代ギリシアでは確立していました。*7

ギリシア本国での身分には、貴族と平民の区別があって、この身分階層が政治的意思決定に参加できる『市民階層』という事になります。市民でない身分階層には、海外移住者(ペリオイコイ)と奴隷(ヘロット)があり、この階層の人たちは政治には参加できず、奴隷には自由な移動や行動も許されませんでした。*8

また、マグナ・グレキア(偉大なるギリシア)の時代には、ギリシア人達は先進的な文明人としての高い矜持と優れた民族としての自負をもっていたため、ギリシア人以外の民族を“バルバロイ(意味不明な言葉を話す野蛮人)”と呼んで蔑視し差別していました。

さて、アリストテレス政治学の話をしようと思いながら、ギリシアの歴史や文化の話題に逸れていっていますが、詳細な描写を省けば、ギリシアの政治形態は『貴族制→僭主制→民主制』へと推移していきます。
何故、一番始めの体制がいきなり貴族制で王制ではないのかと思いますが、これはただ貴族制以前(B.C.8世紀以前)の文字資料が存在していないという理由によるもので、おそらく貴族者階級(アリストクラシー)が商工業で財力を蓄える以前はギリシア以前のエーゲ海文明*9やミケーネ文明のように王制が敷かれていたと考えられます。

ギリシア人は、海上貿易の民であるフェニキア人(カルタゴ人)からアルファベットを起源とするギリシア文字を考案しますが、それ以前の地中海文明はミケーネ文明*10の線文字Bの記録に依拠しています。

ギリシアの魅力的で英雄的な歴史を語るには、アケメネス朝ペルシアとの戦争やアテナイとスパルタのギリシア人同士の苛烈な戦闘、そして、マグナ・グレキアの終焉を決定づけるマケドニア王国とのカイロネイアの戦い、そして、ローマ帝国の伸張を語る事が欠かせませんが、政治体制の話に戻ると、重要になってくるのは、『平民階級の経済的成長』と『ペルシア戦争での平民の活躍』『重装歩兵を中核とする軍隊編成への変化と戦法としてのファランクス(密集陣形)の確立』が貴族制・僭主制から民主制への移行を可能としたという点でしょう。

また、ギリシアの政治改革で最も興味深いなのは、B.C.508年のクレイステネスの改革であり、選挙の公正性を目的としてホームデシジョンの影響を減らす為の『10部族制』を採用し、独裁者や僭主が出現する事を事前に抑止する為に『陶片追放オストラシズム)』の制度を作った事です。
陶片追放は、進歩的な弾劾裁判として独裁者防止に有効に作用する事もありましたが、6000票以上の得票で10年間も追放される為、中には抜群に優秀な政治的才覚や軍事的戦略を持った人物を嫉妬ややっかみで追放してしまうこともあり国益を損ねる事もしばしばあったようです。
ある意味で、直接民主制に基づくスケープゴート選びでもありますからね・・・。


民主主義政体を衆愚政治の始まりとして評価する事がなかったプラトンアリストテレスの理想とした政治体制についてなど、『国家』『政治学』などを振り返りながらまたの機会に概略をまとめたい。

*1:アリストテレス(B.C.384-B.C.322):古代ギリシアのカルキディア半島の1小都市スタゲイロスにマケドニア王の侍医ニコマコスの子として産まれる。17歳で当時の学問の中心地アテナイに赴き、プラトンが開いたアカデメイアに入学した。プラトンの死後、友人クセノクラテスと、小アジア・アッソスに移住し、幅広い分野に及ぶ研究・著述・講義を3年間行う。世界帝国を築いたマケドニア大王アレクサンドロスアレキサンダー)の家庭教師としても著名である。アリストテレスは、形而上学政治学歴史学倫理学・自然科学・詩歌芸術などあらゆる分野の研究を進めて諸学問の基盤を築いた事から『万学の祖』と呼ばれる。リュケイオンという学問の府を設立した事でも知られます。

*2:無論、古代ギリシア世界の民主政治以前にも、マルクスエンゲルスが推測し粗描した原始的な共産主義体制が狩猟採集生活を営む小部族の中で民主的に成立していたとは考えられますが、余りに時代が古すぎて文字文化にまで文化が発展しておらず明確なテキスト・文献資料による記録が残存していないので原始共産制は除外します。

*3:ギリシア人は単一民族ではなく、ペロポネソス半島南部及びイオニアの植民都市群に拠点を置いた印欧語族アカイア人ドーリア人、イオニア人を指す。更には時代を下れば、イタリア半島南部やシチリア島などに植民した部族などを含む。ギリシア人による地中海覇権の確立と反映を指して“マグナ・グレキア(偉大なるギリシア)”と呼ぶ事もあります。

*4:評議会メンバーは、平等かつ公正な任意のくじ引き・抽選で選出され、構成員数は500名であったと言われる。

*5:民会に最終決定権があるのは、B.C.8世紀の伝説的政治家リュクルゴスの改革以来の伝統である。

*6:代表的なポリスとしては、先進的な文化学問の発信地でエジプトや島嶼部との海上貿易を好む“アテネアテナイ)”と勇猛果敢な戦士を育成する苛烈な軍事システムを持ち、閉鎖的で戦闘的な“スパルタ”が有名です。

*7:自らの意志と決定によって運命共同体・ポリスの興亡が左右されるという主権者のリアリティと群雄割拠して戦争が絶えない軍事的緊張とが、主権者意識を高め、ルソーなどが理想とするヨーロッパ的市民の原型を作り上げました。

*8:奴隷や外国人は、参政権がない一方で従軍の義務というか権利もありませんでした。これは古代ローマ帝国においても同様で、軍事に参加する事は政治に参加する事と同列の市民としての栄光ある権利として認識されていました。

*9:それまで神話扱いされていた『トロイ戦争』の実在を信じたシュリーマンの発掘によって発見された事が有名なB.C.20世紀〜B.C.12世紀の古代エーゲ海文明。シュリーマン小アジアや北東エーゲ海トロイア文明を発掘。エヴァンズは、クノッソス宮殿で有名なクレタ文明を発掘した。クノッソス宮殿は、ギリシア神話にも登場し、ギリシアの英雄テセウスが迷宮に住む牛頭人身のミノタウロスを退治したという伝説が残る。

*10:高い建築技術や青銅器鋳造・造形の技術を持つ文明とされるが、紀元前12世紀に忽然とその姿を消す。文明滅亡の理由は不明だが、鉄器で武器を製造する技術を開発したドーリア人に攻め滅ぼされたとする説が有力である。