ぷちナショナリズム症候群のサマリー感想とエディプス・コンプレックス


ぷちナショナリズム症候群のサマリー
http://homepage1.nifty.com/nuka/kasetu/siryo/0212/putinasyo.html


精神科医香山リカの著書に『ぷちナショナリズム症候群〜若者たちのニッポン主義』があり、未読だがサマリーがあったので読んでみました。



序章 「ニッポン、大好き」

 2002年の前期、専修大学の学生に日本に対する思いや印象を問うアンケートを行った。結果は、「日本はいい国」「好きな国」といった肯定的なものが多かった。
「最近、もしかすると手放しで日本を肯定し、賞賛する人が若い世代に増えているのではないか」という筆者の予想が当たったと仮定できる結果だった。

(中略)

日本という国が好き−「イギリス文化がもっと好き」などという対立概念は存在しない。極端な言い方をすれば「日本国が好き」という人達には生涯、他の選択は存在しない。

あたかも自分の意志で選びとった考えであるかのように、それを口にしている人もいる。

 そういう人達が数を増やしつつ増やされつつあるのではないだろうか?それは日本社会で不気味に広がりつつある様々なひずみや病理と深く関係しているのではないだろうか?

そんな彼らをぷちナショナリストと呼び、彼らを生んだ社会背景について検討するのが本書の目的。

香山リカ氏によると、『日本が大好きで、日本はいい国』と肯定的に評価する若者が増えているという。その愛国心とも呼べないようなアンニュイで茫漠とした日本国への好意や賞賛は、自由意志による選択や決定の結果ではなく、何らかの明確な理由を認識しての好意でもない。
つまり、若者達の日本への愛着や好意は、イギリス文化や中国文化、オーストリア文化などの異文化と比較対照出来ないという意味で『絶対的な好意』であり、他の文化をより高く評価する可能性が閉ざされていると香山氏は主張し、それが『日本社会に不気味に広がりつつある様々な歪みや病理と深く関係しているのではないか』と推察する。

私は、この序章での問題提起のサマリーに国家と文化の混同、更には"nation,state"と"country"の錯誤を感じた。
人間が自らの生まれ落ち、育った郷土としての国(country)に他国とは質的量的に異なる特別な愛着や思い入れを懐くのは極自然な心理であり、それは自分の家族への愛情や友人への好意といったものを芽生えさせた環境としての故郷に通底している。
あるいは、自分がこの広大な世界において何者であるのかという自己同一性(アイデンティティ)を確認する場合に、言語・歴史・風俗習慣・伝統行事など文化的共通性を持つ人たちで構成される国を根拠にすることが殊更おかしなことでもない。

私が、問題だと考えるのは、巨大な政治権力を有するnation stateとしての国家、即ち立法・行政・司法などの権力を行使する政治官僚機構としての国家を盲目的に賞賛し支持して、その命令や指示に無抵抗に従属し行為する事だが、ひょっとしたらそういう意味でのぷちナショナリズム批判なのかもしれない。
表面的に健全な愛国心や郷土愛を掲げながら、権力への隷従、権力者への追従を暗黙の目標に据えている『扇動的な愛国心喚起』の運動や言説には注意や警戒が必要だと思うが、日本に生まれ育った者としての自然な日本の伝統文化への興味関心や風光明媚な景観への愛着は大切にしたほうが良いと感じる。
日本人同士の共感に基づく団結や連帯、日本人特有の道徳心や情緒性の尊重も外国に対する排他性や侵略性に結びつかなければ問題はないであろう。

自分の頭で良く物事の是非を考えずに、何となく周囲に流されて自分の選好(好き嫌い)を判断してしまうことが政治的な目的に容易に利用されてしまう可能性を指摘したと解釈することもできる。



第1章 ぷちなしょな風景2001-2002

内親王誕生

子ギャル風の若者たちの「キャー」「カワイイ!」は、自分でうまく言語化できない葛藤を、激しく衝動的な行動で表現してしまう病理的なメカニズム「アクティング・アウト」である。何でもいいから思い切り喜びたいということ。根本的な葛藤は解決されない。

(中略)

○日本語ブーム

2001年9月刊行された「声に出してよみたい日本語」斎藤孝→体育会系的な明朗さと健康至上主義

著者の斎藤「右翼左翼とか関係なく育った」軍国主義とは関係ない。

これに対して坪井秀人は、「声が力を持つことの功罪、声を通して健康や正しさを唱えることの危うさは、歴史のフィルターを通して常に疑われ、検証されなければならない。それがいかに昔のことであっても現象と歴史とを切り離して考えてはいけない」

一般の人々が内親王愛子さんや雅子さんに対して熱狂的な声援や支持を送ることは、ある種のお祭り騒ぎ的な皇室ブームの現れであり、特に『キャー』『カワイイ』と単純な掛け声で素朴な好意を表明している人はアイドル歌手やタレントに華やいだ声援や視線を送る事と同レベルのアクティング・アウトかもしれない。
スポーツ選手、皇室の方々、アイドル歌手などの著名人のおっかけをしている人たちの心理や行動を病理的なメカニズムで生起するものとは断定できないが、何でもいいから非日常的な著名人のいる場面へ自分を参加させて思いっきり感情やストレスを発散させて楽しみたいという気持ちはあるだろう。

斎藤孝さんの国語の授業風景は確かに運動しながら大声で教科書の文章を朗読させるスタイルをとっていたり、かなり常識の枠から外れた体育会系の国語授業である。健康至上主義という表現は言い得て妙だと感じました。



第2章 崩壊するエディプス神話

○おやじ大好き

「おやじの後を追う若者」に対して、かっこいいという反応が多い。小泉首相の息子など。

時間や精神の層を通して選ばれた「好き」ではなくてある意味、反射的に「好きだから好き」と言ってしまう態度。そこには理屈があるわけではなく、あるのは単純明快な体育会系的な判断。こういう若者たちの心の奥深くで起きていることは何か?

○「巨人の星」世代の特徴

「厳格な親子関係が絶対に正しい」と言えるだけの自信は「巨人の星」世代30代後半から50代前半にはないのが現状である。ただノスタルジーに浸るだけ。

エディプス・コンプレックス

フロイト・父親に敵意を抱くと同時に脅威に怯える。規範やモラルという形でとりこむ。これがあるから良心的道徳的になれる。→超自我



尾崎豊にみるエディプス葛藤の再燃

しかし現代の若者はほとんど共感できない。現代の若者は尾崎のような再燃は起こらない。 (エディプスコンプレックスの不成立)

○二世万歳ー小泉親子の謎

小泉親子は従来のエディプスコンプレックスの理論ではどうやっても説明することができない。

 エディプスコンプレックスが欠如した若者に世間が違和感を持たないと言うことはもしかするとこれは、小泉親子に限ったことではなくて世の中一般に広がりつつある傾向だと推測することも可能なのではないだろうか?

○「父の娘たち」の生きづらさ→息子同様にエディプスの影が感じられない。

子供が息子であろうと娘であろうと父親へのエディプス葛藤や母親を含めたエディプス三角が関与しないルートで「お父さんのこと大好きだしせっかくの名声や地盤があるのだから」という無邪気な理由でその後を継ぐ。

○なぜ屈託のない二世が生まれるのか

エディプスコンプレックスやその抑圧による葛藤が従来のように主要な役割を果たさなくなってきた。(精神分析学者の牛島定信

エディプス葛藤の原因となる「母の支配」という問題よりむしろ「辛い体験を抑圧できずに切り離す」という子供の心の変化がある。

二世タレントを若者がすんなり受け入れる現在の状況の背景には、「切り離し」を行う「人間の心の仕組みの本質的な変化」という意外に深い問題が隠れているようだ。


エディプス・コンプレックス(女性の場合は、エレクトラ・コンプレックス)は、3〜5歳期に生じる異性を巡る恋愛葛藤の原初的な心理状態であり、母親に対して独占的な性的関心と強い愛情を感じ、母親を独占している父親に対しては嫉妬と憎悪を感じて、何とかして父親を排除して母親の愛情を独り占めしたいと葛藤します。
エディプス・コンプレックスは、ギリシア神話の『オイディプス王』を題材にしてフロイトが幼児期の子どもの行動を観察して考案したもので、通常、子どもが男女の区別を付け始める3〜5歳の発達段階の時期で発生します。

一人の異性の愛情・関心を巡る競争の三角関係の原点とも言える関係であり、フロイトの時代には、家父長として絶対的な権限を持っていた父親に子供は勝つ事が出来ないので、父親に反発して排除しようと企む自分を父親は厳しく処罰するに違いないという『去勢恐怖』を感じて、父親からの躾や教育で罪悪感を学び、より高次の良心や道徳心といった『超自我』の構造を持つようになります。

エスの本能的欲求や動物的衝動を抑圧して、社会規範や倫理規範を遵守するように機能する超自我は、権威的な父親の存在を前提として確立すると考えられていた為、父親の存在感や権威が弱まっている現代社会では、社会規範や倫理規範を守ろうとする超自我の機能が弱くなり、反社会的な行為や他人を傷つける行為を行う事を抑制する良心や罪悪感が発達し難くなると指摘する心理学者もいます。
超自我形成の根拠として、『私が反社会的で非倫理的な悪い行為をすれば処罰される』という去勢自我が働くというフロイト流の解釈以外にも『私が他者の権利を侵害すれば、私も他者に権利を侵害される』という相互利益的な思惑から道徳的規制が働くという解釈も出来ますので、父親の権威の衰退や父性の喪失が直接的に倫理観の崩壊や道徳心の欠如につながるとは私は思いませんが。


また、時間のある時に、エディプス・コンプレックスフロイト精神分析についても詳述したいです。