精神分析学の転移概念と分析的関係の距離感


id:cosmo_sophy:20041110の記事で、精神分析やカウンセリングの治療的面接の場面において生起する『転移(transference)と逆転移の概念』*1について簡略な説明をした。

転移とは、クライエントの過去の記憶に痕跡を残している強烈な満たされない感情の向かう先が分析者(カウンセラー)の方向へと向け変えられるものである。
もう少し詳述するならば、『過去の人間関係』で重要な役割を果たしていた両親や親族などに対する感情が、『現在の人間関係』の中で再現され繰り返し反復される事が転移であり、病的な心理状態にある場合には転移に加えて退行(regression)や行動化(acting out)*2といった防衛機制が合わせて観察される。

誤解を防ぐ為に断っておくが、転移そのものは病的な現象でも幼稚な行動でもなく、極自然な人間関係の中で私達は無意識の内に転移に似た感情表現をしたり、転移に動機付けられた対人関係を取り結んだりしている。

転移現象で湧き起こる強い感情は、幼少期の愛情不足や虐待行為などのトラウマ(心的外傷)に由来する『愛情飢餓型の転移』と幼少期の愛情過剰による甘やかしに由来する『発達課題の未達成型の転移』があるが、フロイト精神分析理論では、転移が起こる場合には『リビドー*3の精神発達が停滞している固着点』への退行が起こるとされる。


その固着点(fixation)の時点で何らかの心理的問題や親子関係の障害が発生して、本来克服すべき発達課題を克服できなかった為に、幼児的な愛情欲求や感情欲求に固執する事になる。
しかし、リビドーの発達過程に停止や停滞があったとしても、その人がいつもいつもその停止した固着点に退行して幼児的な態度や発言をするわけではない。
どういった時に、発達が停止した固着点への退行が起こるかというと、現在の現実的な生活環境の中で失恋や裏切りなどの欲求充足の失敗が起きたり、試験の不合格や職場でのミスなどの人生上の挫折を経験した時である。
そういった欲求充足や感情的満足が上手くいかずに大きな困難に直面した時には、私達は非常に強いフラストレーション(欲求不満)を感じますが、発達過程での問題があり固着点を持っている人は、そのフラストレーションを解消する為に退行や行動化を起こしてしまう。

精神分析療法では、転移と逆転移が治療機序における重要な役割を果たすと言ったが、分析者はクライエントの転移を通して、過去のどの段階に固着点があるのかをまず確認していく。そして、どのような心的外傷体験や親子関係の障害が影響してその固着点への退行が起こっているのかを解釈し、クライエントの歴史的な精神構造と退行の構造を把握する。
フロイト神経症の病理学を簡単に説明すれば、無意識領域に抑圧された『過去の満たされない願望』があり、その過去の満たされない願望を現在の生活状況の中で満たされない場合に、『神経症の症状の形に転換』されるとするもので、その無意識的な願望に気付いて意識化しない限りは、繰り返し反復的に症状が繰り返されるというものです。

リビドーの発達段階のどの段階に固着しているかによって、フロイト精神疾患の病態が異なると考え、次のような仮説を出していました。この仮説は現在では科学的に正しいものとは呼べませんが、精神分析学理論の中での整合性は取れているので認知療法などに応用可能な心理学的な意義はあると思います。

こういった外傷的な記憶の想起と転移現象の解釈とその取り扱いの重要性を説明したフロイトの論文に1914年に書かれた『想起・反復・徹底操作』というものがあり、力動的な精神分析学の転移現象と記憶の想起や退行に興味を持っている人であれば一読の価値はあります。



さて、ここまで精神分析学の範疇での病理学的説明をしてきましたが、次の機会には転移現象の危険性を考えてみたいと思う。

余談だが、クライエントの側に陽性(愛情)にせよ、陰性(憎悪)にせよ何らかの転移の現象が生じた場合には、その多くのケースにおいて分析者(カウンセラー)の側にも逆転移と呼ばれるクライエントに向かう特別な感情の流れが起こる。
何故、分析者の側にも転移が起こるのか、プロフェッショナルならばクライエントに恋愛に似た感情や怒りに似た感情などを抱くべきではないと分かっているはずなのに何故転移が起こってしまうのかという問題の答えは、シンプルに考えれば、分析者であれ医者であれカウンセラーであれ、過去の記憶の影響を無意識的に受けざるを得ない不完全な人間に過ぎないからという事になる。
誰でも特別な自己内省や反省的思考の訓練を受けてでもいない限りは、特定の相手と向き合って一定の時間を共有する事を規則的に繰り返していて、相手が自分へと良い感情を向けてくれば、自然に自分の側からも相手に対する好意を感じてしまうようになる。それが、日常的にも体験される転移現象という事なのである。

しかし、熟達した分析者は通常、自己分析の研鑚と努力を毎日し続け、絶えず内観的な反省をする事で、逆転移の感情の奔流には飲み込まれる事なく精神分析やカウンセリングを継続する事が出来るはずだ。
それは、最も基本的な治療構造の遵守に関わる問題でもあり、限定された時間と空間で分析者とクライエントという立場を崩さずに関係を積み重ねていくという原則を守る事にも繋がる。
そして、そうした自己規制や分析的な関係性の保持という事が好ましい結果を招くのだが、過剰にクライエントに共感や同情をして分析的な関係の一線を超えて友達のような知人のような個人的な関係にまで発展させてしまうと分析やカウンセリングの失敗を引き起こし、破滅的な関係を迎える事も少なくない。

特に、破滅的な関係を迎えるケースを考えてみると、境界性人格障害(Borderline Personality Disorder)に典型的に見られるような依存性と衝動性の強い性格で、適切な対人関係の距離を見失いやすい傾向のあるクライエントに向き合う場合である。
そういった場合に、実際には実行不可能なレベルの信頼関係や個人的な人間関係を安易に請け合ってしまい、最終的なカウンセリングの終結がいつまでも出来ず、本来克服すべき見捨てられ不安をカウンセリングの場面で維持強化し続けるといった『善意から生じる副作用』を引き起こすのは問題である。
どんなに特別扱いをしたい感情や同情が起きても、一見、相手への対応が冷たく慈愛が足りないように思えても、飽くまで面接場面での限定された時間と空間における抑制のある信頼関係を前提とする事が、分析者もクライエントも結果としての安定と効果を得る事になる。

これは、カウンセリングなどの特別な人間関係に限定されることではなく、恋愛関係や友人関係などの人間関係一般にも適応できる事で、自分が責任を持って背負える以上の相手の依存心や愛情欲求を安易に引き受けることは相互的な破綻や心的外傷を引き起こす事があるという事でもある。

*1:精神分析を受けているクライエントが分析者に対して、過去の重要な人間関係で体験した強烈な感情を向ける事を感情転移という。反対に、分析者が相手の感情転移に引き込まれて、自らの過去の記憶や体験にまつわる感情をクライエントに向けてしまう事もあり、これを“逆転移”という。転移には、好意や愛情を向ける“陽性の感情転移(恋愛感情転移)”と憎悪や嫌悪を向ける“陰性の感情転移(憎悪感情転移)”とがあるが、精神分析療法では感情の自由な発露と情的な実感的体験が治療の為に重要なものと考えられているので、感情転移が全く起きないクライエントは精神分析にあまり適応していないと言える。

*2:自我防衛機制の退行とは、自分に対する愛情や関心を獲得したり、叱責や非難を避けたりする目的で幼い年齢の精神状態へと戻る事である。退行が起きた場合には、年齢相応の判断力や思考活動は期待できず、言葉遣いや立居振る舞いも子どものような幼い様子を見せるようになる。行動化とは、不適応行動の一つの表現方法であり、自分の抱えている苦悩やストレスを言語化して表現出来なかったり、幾ら説明しても周囲の人が自分の苦しみを理解してくれないと思ったりする事で、暴力・反社会的行為・性的逸脱行動といった形でストレスや葛藤を解消しようとする。行動化は、青少年の非行や犯罪行為にも見られる心的過程であり、短絡的で衝動的な行動を取る事により、結果としての不利益を招く事が多い。

*3:リビドー(libido)とは、生物学的な性的欲動の事であり、フロイトはこのリビドーの充足と抑圧を神経症論の中核に据えました。リビドーは私達が日常的に用いる意識的な性欲ではなく、生物学的な欠乏や不快を取り除こうとする本能的な欲動であり、ホメオスタシスや自己保存欲求によって規定される欲動であり、欲望ではありません。フロイトが提示した人間の行動原理の発達である『不快原則→快感原則→現実原則』もリビドー論を下敷きにしています。