未開部族社会における死から再生するイニシエーションとその意義の衰退


イニシエーション(initiation)*1と言う言葉が日本で有名になったのは、皮肉な事にオウム真理教地下鉄サリン事件を始めとする一連の犯罪報道を通じてであった。
その余りにも異様な集団と反社会的な教義の影響から抜け出せない後遺症なのだろうか、一般の人たちにイニシエーションにまつわるイメージや感想を聞くと『カルト教団が行う奇妙な儀式の事だろう』とか『新興宗教の教祖が信者を洗脳する為に物々しい雰囲気の中で行う秘密の儀式だろう』といった内容の答えが返ってくる事が多い。
つまり、イニシエーションは、一般社会に生きる常識人である私たちとは関係のない事柄で、イニシエーションなどを行っている人間は異常な教義や信念を持つ集団の構成員に違いないというような先入観である。

しかし、この場合の『イニシエーションと無縁な一般社会の常識的な人々』には、『近代化された国家の成員あるいは宗教的価値観に束縛されない共同体の成員』という但し書きが必要である。*2
イニシエーションとは、通常、邦訳では『加入儀礼通過儀礼』と訳されているが、特定の社会・集団の成員として公的に認可される為に通過しなければならない儀式の事であり、その儀式を経験する事によってその社会・集団の『正式な一員』としての加入が公認されるのである。

前近代的な地域や部族のフィールドワーク研究を行い、通過儀礼(rites de passage)の概念を創始したフランスの民俗学者ファン・ヘネップ(1873〜1957)は、1909年に『通過儀礼』という著作を表して、社会学研究に社会的地位変遷の通史的なダイナミズムを持ち込もうとしたが、当時はフランス社会学会の重鎮デュルケームの理論との整合性がなく余り評価されなかった。

ファン・ヘネップの説によれば、未開社会に残存する通過儀礼の本質は、『成人になった事の公認』と『男性性と女性性というジェンダー(社会的性差)の明示的分離』にあるという。
種族社会・未開社会におけるジェンダーの明示的な区分とは、性別役割の引き受けの確認という側面が強く、男性性を女性性よりも上位の概念と位置付けている事が多い事から、男女同権思想を尊重する現代社会の趨勢では余り歓迎されない要素と言える。
ここでは、イニシエーション概念の歴史と種族社会における通過儀礼の実態について述べるので、そういったイデオロギーの是非や男尊女卑の伝統など男女差別の問題指摘はとりあえず脇において考えていく。

アフリカ大陸や南アメリカ大陸の原住民が暮らす部族(種族)社会、人権思想や男女同権思想、ジェンダーフリーなどの洗礼を受けていない原始的な未開社会、そして、近代化される以前の家父長制を敷く封建主義的な日本などにおいて、『成人男子』と『女・子ども』は明確にその社会的立場や身分を異にし、その役割分担も明瞭であった。
成人男子は、将来の家父長として、労働や戦争・防衛など社会活動を精力的に行う事が望まれ、社会秩序を維持する中核的な役割を背負うものとされた為に、ただ年齢的に成人に達すればいいというものではなく『一人前の成人男子』としてイニシエーションを通した社会的承認が伝統的に行われた。
即ち、伝統的種族社会におけるイニシエーションとは、年齢的に成年に達した男性が実質的な成年としての精神力や身体能力があるかどうかを試験するテストの要素を持ち合わせたものなのである。

未開部族社会においては、子ども時代は男性と女性の区別が余り明確ではなく男の子と女の子は一緒に遊び、大人からもそれほど区別なく取り扱われるが、成人の加入儀礼を経過して後は『成人男子の世界』は『成人女子・子どもの世界』は明確に切り離され、ジェンダーの区別が厳しくなる。
こういった近代化以前の伝統社会におけるジェンダーの区別は現代では男女差別に直結するものが多いが、男性性を『聖・ハレ・清め』に帰属させ、女性性を『俗・ケ・穢れ』に帰属させる傾向があり、イニシエーション期間は男性と女性の生活領域を分けて、通常、苦痛や恐怖を伴う儀式や秘儀が執り行われる事となる。

イニシエーションは、今まで固定的で安定していた社会秩序や社会関係を維持する事を目的として執り行われる為、イニシエーションを受ける成人男子は所属する集団・部族・社会・共同体への絶対忠誠を誓い、所属集団での年功序列的な上下関係を受け入れる事となる。
イニシエーションは、『死と再生』の象徴的儀礼として展開する。つまり、今まで親から保護され社会から子どもとしてある程度の甘えが許されていた『子どもの社会的立場にある自分』をいったん殺して、『勇気と忍耐のある自立した一人前の成人』として生まれ変わり再生するのである。

『女性・子どもの世俗界』から『成年男子の神聖界』へと社会的立場を移行させる事が未開社会のイニシエーションの骨子であり、その移行の為には世俗界から切断された一人前の男としての勇気や胆力、忍耐や覚悟が備わっているかを試す為の『死』を仮想的に実現する儀式が必要であるとされた。
その為、原始的な未開社会のイニシエーションは、『抜歯・刺青文身・ピアッシング(直径の太い棒などによるピアス)・性器加工(割礼)・バンジージャンプ・猛獣との格闘』といった耐え難い苦痛や背筋の凍るような恐怖を伴うものが多い。

何故、その様な苦痛や恐怖を感じる行為を通過儀礼として行うのかの説明は幾つかあるが、総じて言えば、『所属共同体を運営・防衛していく重い責任の自覚を強めること。共同体の生産労働・戦闘活動・家庭の家父長といった中核的役割を担う成人男子相互の連帯感を強めること。それらの結果として共同体の存続・発展・拡大を実現すること。』と言えるだろう。
言わば、原始的な愛国心ナショナリズムの維持継続にイニシエーションの根拠は求められ、その根拠を覆い隠す様な形で宗教的な意味付けやトーテミズムによる解釈がなされたりするのである。
『過去の依存的な子ども』を象徴的な死を与えて、『共同体を背負う自立的な大人』への新しい生を歩み始める儀礼であるイニシエーションの名残は、現代の日本の伝統行事や地方文化・儀礼・お祭りなどの中にも見られる。

戦国時代には、“元服”という正に一人前の男として戦闘に参加する事が出来るという意味でのイニシエーションがあったし、江戸時代辺りまで元服するまでの子ども時代には幼名*3が付けられていました。


こういった文化人類学の研究対象になるような未開部族社会のイニシエーションは、『人権思想・ジェンダーフリー自由主義・民主主義』を前提として成り立つと考えられる現代社会においては存在する余地がありません。
また、資本主義の流れの中で産業経済が発展し物質的に豊かになったこと、自然開発が進められ人工的な環境で自然の脅威から(完全ではないにせよある程度)守られていること、大人と子どもあるいは男性と女性を明確に区別する必要性やメリットが減じたことなどを背景にして、苛酷で厳しいイニシエーションを社会に存続させる必然性がなくなり、それらは成人式といった実際的な通過儀礼にはならない形骸化した儀礼として形を留めるのみになっています。

カウンセリング、心理療法ユング心理学などでは、イニシエーションがカウンセリングのセッションの中で重要な要素を持つものだと考えられていますが、それは身体的苦痛や現実的恐怖を伴う物理的な未開社会のイニシエーションとは異なる純粋に精神的な『過去の自分との訣別と新たな自分の再生』をカウンセリングや精神分析において実現しようとするものです。
内的な連想や夢、記憶を辿りながら自分の人生や存在意義、人間関係などを見つめ直していく過程で、心的外傷に固着して様々な精神症状や身体症状に苦しみ続けている過去の自分を象徴的に殺して、力強い自立的な自分を取り戻すという意味ではイニシエーションと呼ぶ事が妥当であるとは言えると思います。

私は、過去のグローバリズム考察でグローバル化が孕む文化帝国主義的な要素の批判をしましたが、少数民族や未開部族の人たちが持つ固有の伝統文化・歴史・言語・自然環境などを保護する必要性を語ったりしましたが、アフリカや南米などに残存する身体を欠損させたり傷つけたりするイニシエーションをその民族や部族固有の文化であり伝統であるとして完全に保護すべきなのかの判断は微妙なところです。

ただ、私は強く反対すべきイニシエーション、完全に禁止すべきイニシエーションもあると考えています。
そのイニシエーションは、原始的で野蛮な男性原理に基づく女性虐待の趣きを持つFGM(Female Genital Mutilation)と呼ばれる婦女子割礼です。
FGMは、女性性器の陰核(クリトリス)を切除するという暴力的な伝統儀礼であり、アメリカ合衆国などでは民族固有の伝統であっても人権思想・女性保護の観点から許す事が出来ないということで法規制され処罰の対象にもなっています。
私が、FGMについて知ったのは高校時代の世界史の時間だったと記憶します。その時には、イスラム教との関連がFGMにはあるという説明を受けましたが、その後にアフリカや中東の歴史を学ぶ中で、FGMはイスラム教の教義や儀式とは何の関係もない、特定部族や民族に固有の風習伝統であるという事を知る事になりました。

FGMを詳細に語るには、アフリカや中東の文化規範や歴史を参照しなければなりませんが、私が思っていた以上に広範な地域でFGMは実施されています。*4

アフリカ・中東の男女差別やレイプ・売春など性暴力の歴史を語ることは、何だか前近代的な地域への民主化や自由化を正義とするアメリカの片棒を担ぐ様で嫌なのですが、いつか、まとめて調べてみたい問題ではあります。

*1:イニシエーションという言葉の起源を辿ると、ベルギーの民俗学者ファン・ヘネップ(1873〜1957)が、"rites de passage(仏)"という概念を考案した事に始まる。社会的な立場や身分が変化する場合に執り行われる儀礼であり、イニシエーションを経る事で社会的な待遇や認知が大きく変化する。イニシエーションは、人生の節目の大きなイベントである『誕生・死・成人・結婚』などの出来事を迎える際に執り行われる事が多い。

*2:しかし、日本の様な宗教的価値観から比較的自由な国家においても、通過儀礼が皆無な訳ではない。形骸化した形ばかりのものに過ぎなくても、“入学式・卒業式・成人式・入社式・結婚式・葬式”なども社会的な身分・立場の変化を公式に明示する為に準備されたイニシエーションである事に変わりはない。

*3:有名所では、織田信長は吉法師、徳川家康は竹千代、豊臣秀吉は日吉丸、源義経は牛若丸、伊達政宗梵天丸という幼名を持っていました。また、江戸時代辺りまで、何かの大きな人生の区切りの度に改名をする事は普通に行われている事でした。

*4:FGMを実施している民族が居住している国家は、中東では南北イエメンサウジアラビアイラク、ヨルダン、シリア、南アルジェリアがあり、アフリカではブラックアフリカと呼ばれる地域全体で風俗慣習として行われている。ケニア、ナイジェリア、モザンビークエチオピアソマリア、マリ、スーダン、アイボリーコーストなどで行われている。