保守的な現実感覚と革新的な理想願望:現状肯定と否定の狭間で揺れる政治
id:cosmo_sophy:20041120で、ハーバーマスの政治思想を語る文脈で『右翼左翼の対立軸』について触れました。
現代社会の政治を語るに当たって、不必要な迄のイデオロギー的主張や宣伝は余り説得力を持ちませんが、『保守と革新・現状肯定と現状否定・現実的功利判断と理想的道徳判断』といった基本的な政治姿勢というものは有史以前の古代から連綿と続いてきたものであろうと思います。
右翼を伝統文化や既存の社会通念を尊重し、所属する共同体の独立・維持・発展を至上命題とする本来の保守主義*1として捉えるならば、現代の右傾化とは『グローバル化する不安定な厳しい国際情勢の中にある国家』では自己保存欲求という自然な理屈に基づくものであり、『激化する経済競争と分化する社会階層を意識しやすい社会環境の中の個人』にとって共同体帰属の安定感や競争に打ち勝つ『勝ち組』意識に繋がるものとして迎え入れられやすいものだと思います。
しかし、日本では右翼という言葉には根強い先入見や偏見が付きまとっていますから、ラディカルな右翼*2と保守派あるいは中道右派は、実際には区別する必要があるでしょう。
私は自由民主主義思想の核を無視した統制主義や個人の権利を蹂躙するような暴走した民主主義の形態である全体主義(ファシズム)には否定的ですが、政治思想として政党・政治家・市民の言葉を聞く場合には、それぞれの発言が右寄りでも左寄りでも関係なく、その思想内容や状況分析、政策指針、倫理判断を吟味して是非を検討したいという考えです。
国家や民族を大切にする人たちの現実的な判断に基づく発言を聞いていて最もだなと思う事もありますし、人類愛に根ざしたような反権力や反資本主義の思想を語る人たちの理想のビジョンを聞いていて、そういう理想が実現できる未来を夢見るのも悪くないなと思う事もあります。
私は、現代の日本社会における基本的な対立軸は、極端なものではないと思います。*3
余りに極端な言説は文学やコラムや漫画では可でしょうが、現実の政治場面で語れば幻想でありお伽話として軽視されます。*4私は、現状肯定派や原則主義者でもないので、極端な政治ビジョンや体制批判でも割と面白く読んだり聞いたりしますが、やはりそういった極端な言説が実際的な力なり賛同者を得るには具体的なプロセスや技術論が語られなければならないし、現実的な利害判断もシビアに行っていかなければならないと思います。
特に、功利主義的な倫理観に馴染んでいる現代社会にあっては、理想の為の経済的損害や損失を求める考えには同感を得られ難いですし、未来の為の自己犠牲を強いる事も適当ではないと考えられますから、理想論は青臭い書生論として退けられがちです。
『どうしても、何年も先の長期的利益よりも目先の短期的利益の獲得に追われてしまう、あるいはどうしても現在持っている財産や地位名誉などの既得権益を保守しようという保身の欲求が首をもたげて政治判断につながってしまう』というのは現代の民主主義国家に生きる私たち国民が抱える解決困難なアポリアであり、実際の選挙の場面での判断の相当数が短期的利益の追求に根ざして投じられています。
そのアポリアの結果として、返済不可能な膨大巨額な国家負債と財政破綻が生まれ、経済格差や教育格差が既得権益の結果として累積的に拡大する懸念が生まれています。
私たちは無規律な財政支出や公共投資に憤慨しがちですが、(確かにその何割かは無茶苦茶な官僚の恣意的資金運用もあるのですが)何故、そんなに国債を大量に発行し、無駄とも思える公共投資を延々繰り返したかの責任の幾らかは国家からの給付(保護やサービス)を求めた国民の側にもあります。
政界・財界・官庁の癒着構造の中で、その不公正感に憤る国民もいれば、そこから莫大な既得権益を得る国民もいるわけで、日本全体が平均的に潤っていた(という幻想に浸れた)バブル辺りまでの時代にはそれほど国家や行政への監視や批判は厳しくありませんでした。
人の政治や国家に対する批判や憤慨が高まるのは、外敵の脅威や経済恐慌など民間生活を直撃する国家的危機にある時、『利益を得ている層』と『その利益の為に利用されている層』とが分化してきた時、あるいはそういったアイデンティティの分化が始まり経済的・政治的・教育的な階層意識が高揚して来た時ですから、現在の日本の状況は階層分化には至らないものの総中流意識の崩壊との端境期にあたり、そういった雰囲気の中で『ゆとり教育と学力低下と経済所得の相関問題』『公と民の間での不公平感』『政治家・医師・官僚に象徴される職業世襲の進行』などがクローズアップされてきたわけです。
中流意識の崩壊というテーマや日本社会の不平等化、公的教育環境の悪化による教育格差のテーマを扱った著作も数多く刊行されていますが、そういった問題についてもいつか考えたいですね。
現在、小泉内閣で進行中の地方自治を推し進める三位一体の改革と教育格差の問題の関係もよく新聞やニュースで取り沙汰されていますが、これは地方自治体の経済力の違いが公教育のレベルや内容の格差につながったり、日本国内の統一的な教育指針が立たなくなる事のメリットやデメリットに関する問題といえるでしょう。
今日は、文章を書き始める時には、右派・左派の対立軸から導かれる右の保守的な現実主義と左の革新的な理想主義を語ってから、本当は歴史的なユートピア思想とその挫折や三島由紀夫の伝統回帰的なユートピアニズムと自決について色々書いてみたかったのですが、何だかいつの間にか政治向きの話に大幅に脱線してしまいました・・・。
最後に少しだけ、保守的な現実主義と革新的な理想主義について触れますと、基本的に総体的な保守を志向する人というのは現在の政治体制や市場経済のルールから既得権益を得ている層が多く現状肯定的であれば今までと変わらない豊かさと社会的地位を維持する事が出来ます。
何故、かつての自民党が55年体制と呼ばれる単独政権を簡単に維持し続けられたかの疑問には、日本経済の高度成長が継続する限り、国民の生活水準の向上が約束されていた事により、わざわざ現在の政治体制や経済システムを実験的な社会主義などのリスクの高い思想で転覆させる必要性を感じなかったからと答えられます。
当時においても、現在の政治や社会のシステムに強固に反発するのは、完全なる自由と平等の実現という幻想的理想に燃える社会主義者か現在の国家体制や経済システムの中で不遇を囲っていて生活の厳しい層かという事になりますが、日本国のGDPが飛躍的に上昇する流れの中では絶望的貧困が次第に減り、現状の生活水準に満足する人が増えていき貯蓄をしてそれなりの財産を築く層の幅が厚くなっていきました。子孫に譲り渡す程度の資産を蓄えた層やそれなりの収入と地位を得た層が、全体の過半数を占めれば、現在の政治体制は望ましいものとして保守が主流になっていきます。この際に重要だったのは、具体的な所得(フロー)や資産(ストック)の数値の比較ではなく、その当事者が自らのアイデンティティを『それほど裕福でもないが嘆くほどの貧乏でもなく私は中流に属している』という地点に置いているという自己規定であり自己意識でした。
この中流意識を持っていれば、自然に現状肯定の保守主義の価値観にシンパシーを感じるようになり、中流意識を持てずに社会からの疎外感を感じていれば、自然に現状否定的な革新や変革を求める考えや社会のルールやシステムの不公正感や不平等感を強く感じてその変更を要求するようになっていくと推測できます。
そして、国内での全共闘運動というお祭り騒ぎの果ての残酷無比な浅間山荘事件や何の正義も理念も感じられないよど号ハイジャック事件、その後の北朝鮮の国家的犯罪や大韓航空機爆破などテロリズムなどが留めとなりました。
1970年代以降、日本国民の若年層による政治への革新的参加欲求は急速に萎んで、政治を語りたがる若者は数を減らし、政治を真面目に語る事はイケてない若者の象徴であるかのような風潮が大勢を占める中で、若者の最大の関心事は、ファッションや歌、恋愛といった牧歌的で平和的なものへと推移して、『パックス・ジャポニカ』とでも呼べるような繁栄と平和の数十年を迎えるに至りました。
私は、政治に関心をもたないで私的生活の快適や充実だけを考えていられるそういった時代は悪くないと思いますし、現在、よくマスメディアで批判されているほど日本の若者だけが特別政治意識が低いとも思っていません。若い人たちでも政治に強い関心を懐いて驚くほどに政治学や政治の歴史過程、経済との連関について精通していて博識な人は数多くいます。
現代社会において、何かに興味を持つ事が高尚であり、何かに興味を持つ事が低俗であるという事を主張する事には意味は無く、政治が好きでも、小説が好きでも、恋愛が好きでも、どれかに重み付けをする事は職業的に関わっていない限りは個人の選好の差異に過ぎないとも言えるでしょう。
私は、マルクスの共産主義思想やマルクス以前からある反権力を中心概念として持つアナキズムの系譜というのは、宗教的世界観を否定しながらも、結局はキリスト教やイスラム教が説く『天国・エデンの園・楽園』といったユートピアニズムから離脱できなかった為にその限界や欠点が露呈したのだとも考えています。
私は保守主義や国家主義の現実的な利害判断という事を書きましたが、それは国民国家を基本単位とする現代の世界情勢の中では、『パレスチナなんかを見ても分かるように国家なくして安全や豊かさはないだろう。理想的な平等主義じゃ飯は食えないだろう。』という極めてシビアな現実に根ざした見解を指しています。
私たち日本人が日本という国家の国籍を持っている事による利益や恩恵は、第三世界の国々の人たちの例を引くまでもなく明らかなものがあります。
日本が好きな人も嫌いな人もいるでしょうが、無国籍であったり、国際的な信認の低い国籍であることの不安定さや不利益は、私も当事者ではないので想像するしかありませんが、(日本に密航してくる人たちや労働意欲があっても強制退去させられる外国人を見ても)相当に大きなものがあると感じます。
日本国というか小泉さんの国民を守る気概の低さを批判する内容にも同感する部分がありますが、(もちろん、幸福・不幸の個人差はあり、日本に生まれて非常に苦しみ悲しんでいる人もいますが)同時に日本国籍によってあるいは日本国に生まれた事によってある種の特権的待遇を得ている事もまた間違いではありません。
国民国家や市場経済の枠組みを否定する地上の楽園建設の思想や復古的理想郷建設の願望は悉く打ち砕かれ挫折してきました。
歴史をまたいで繰り返すユートピアニズムは、現代では新興宗教やカルト教団の専売特許になっている節もありますが、ユートピアニズムや理想主義を語る事にはある種の面白さや楽しさ、興奮がある事も事実です。
現状を極端に否定して一気に全てをひっくり返す思想には非現実性や危険性がつきものですが、完全なる現状肯定も制度疲労や人心の怠惰を招き、社会の閉塞感を呼びますから、漸進的な現状改革による進歩主義が中庸の徳に適っていることもあり適切なものなのかなと思ったりもします。
*1:政治思想の対立軸の歴史を遡ると、その起源の多くは『フランス革命』に辿り着く。革命後のフランス国民公会(議会)において、議長席から右に保守派ジロンド派が位置取り、左に急進派ジャコバン派が位置取った事に由来する。フランス革命は、国民国家の枠組みを作り出し、特権階級による絶対主義から市民による民主主義への革命的パラダイムシフトを引き起こした。私は国民国家の政治形態が主流になったのは『自由・平等・友愛』の理想的な基本理念の力が全てではなく、ナポレオンの躍進によるヨーロッパ大陸制覇に見るように、徴兵・課税・団結など政治システムとしての効率性・機能性に優れ、大規模で強力な軍隊を編成し、産業経済を活性化させるのに有利だったからだと考えている。
*2:私が言うラディカルな右翼とは、一般的にイメージされる黒塗りの街宣車に乗ったコワモテの人たちや理論家であっても、天皇崇拝・日の丸や君が代の礼拝・戦時の軍国主義回帰など国粋主義を唱導する人たちを指します。
*3:左翼と言われる人たちでも本気で共産主義革命や世界同時革命なんかを起こそうという人はいないでしょうし、市場経済システムを全否定して原始的な物々交換がいいという人や結果の完全平等を求める人なども余りいないでしょう。右翼と言われる人たちでも本気で天皇主権に戻して徴兵制を復帰して軍事力を強化し対外侵略的な拡大路線を突き進むべしというコテコテの国粋主義者は殆どいないと思います。
*4:改革や革新といっても経済的には資本主義の枠内での改変改良であり、政治的には自由民主主義や個人主義の枠内での改変改良であり、人権思想の原理から外れない者である事が殆どです。