リベラリズムの定義の変遷と社民主義


junp_mさんからのコメントを頂いてリベラリズムについて少し考えたのでメモを残しておきます。

国家の市場介入や再分配を否定する経済的な自由や個人的な価値観に基づく愚行や思想信条など精神的な自由を最大限尊重するリバタリアニズムの立場がありますが、リバタリアニズムという言葉の誕生の背景には自由尊重の思想を表すはずのリベラリズムが本来の定義から外れてきてしまった事が上げられます。
つまり、20世紀後半以降、ヨーロッパやアメリカでリベラリストと言えば福祉国家リベラリズムやコメント欄でjunp_mさんが述べられている社会民主主義をも含む人たちを指すようになって右ではなく左に偏ってきています。
特に、アメリカでは民主党がリベラルと言われますが、そのリベラルという言葉は自由主義保守主義ではなく『大きな政府による手厚い福祉政策を行う立場』を意味している事は明らかです。
余り知られていませんが、J.S.ミルも福祉国家を肯定するリベラリストですね。彼は功利主義に基づく自由主義を説きましたが、思想・信条・表現・言論の自由の尊重を強く主張する一方で、『経済学原理』の中で財の再分配を行う事の正当性を語っています。

マルクスが唱導した史的唯物論による共産主義(実現不可能と思われる私的所有の禁止・貨幣廃止や国家廃止の理想世界)と実際にロシア革命によって建設された独裁的なソ連の政治体制とは異なりますが、ソ連全体主義や計画経済を共産主義と呼ぶならば自由競争のない経済を特徴とする中央集権による『経済の均等化』と言えるでしょう。共産主義の場合、資本主義経済の枠組みから外れますが、生産手段の共有や私的所有権の禁止の段階までいかなくても『経済の結果的な均等化』を目指す思想ではあります。
資本主義の枠内で、自律的相互扶助のシステム擁護の本来の社民主義が実現できればかなり魅力的な選択肢にはなるでしょう。

これからは、市場経済の自律性に信頼を寄せるアメリカ型の新自由主義福祉国家によって機会の平等や弱者の支援を行うヨーロッパ型の社会民主主義かの大きな流れに分かれていくと思われますが、福祉切捨ての小さな国家を志向した保守回帰のサッチャリズム新自由主義レーガノミクスの結果は余り芳しくなかった事からある程度の財の再分配(機会均等を実現する程度)は必要だと私は考えています。

経済的自由の尊重や社会福祉政策の重視に対しては賛否両論があって当然ですが、思想・信条・言論・出版・表現といった人格的自由(個人的自由)は最大限の尊重を必要とすると思います。