『ひき裂かれた自己』レイン:内的世界の相互干渉と他者性


統合失調症精神分裂病)にまつわる誤解や偏見は実に基本的な部分にある事が多い。
過去の記事id:cosmo_sophy:20041109に書いたように、精神分裂病という名称から生じた間違った認識として『精神機能の分裂を人格の分裂と崩壊』に置き換えて考えてしまう事がある。
人格が分裂して崩壊するという間違った統合失調症のイメージは、共存不可能な狂気性を捏造し、反社会的な危険性を過度に強調する事に繋がる。

これは、ミシェル・フーコーの『監獄の誕生』や『狂気の歴史』によって説き明かされた『構造的な異質性の排除』の現象であり、私たち個人に内在化された正常性の規範によって生まれる悲劇である。
もっと踏み込んで考えるならば、近代の産業経済社会を支える合理的科学精神(哲学的理性)をより高みに駆け上がらせる為に、精神病は日常性から隔離され隠蔽され、人々の意識から忘却せしめられたのである。
18世紀の産業革命以降、自然法則を解明し、産業経済を振興し、人間存在を称揚する『論理的な理性』は強力無比な権威である。

経験主義者のフランシス・ベーコンは、自然征服(control)と技術革新(inovation)の意味を込めて『知は力なり』と宣言したが、近代以降の知(理性)は、非理性的であったり非生産的であったりする者を象徴的にカテゴライズ(類型化)して『狂気・怠惰・無知・無能・無為』を異常性として囲い込み隔離し隠蔽しようと企てていく。
精神医学、異常心理学、臨床心理学、大脳生理学といった諸学問の知*1は、囲い込んだ異常性と理性の側(正常性)との間に境界線を引く権威として機能してしまう事になった。

ここでは、理性や科学知(専門知)によって囲い込まれた異常性としての統合失調症を考えていくが、統合失調症はその発症率が0.7〜0.9%即ち約1%であり、100人に1人が発症する。この発症率は国や人種、民族、文化によっては異ならないし、統合失調症は原因が特定できない身体的原因(脳内のドーパミン系の神経伝達過程の障害や脳の萎縮など)によって起こる内因性疾患であるので、いつあなたや私が発症しないとも限らないという意味でそれほど非日常的な精神病ではないと考えてよい。
精神分裂病統合失調症)は、極少数の人に発症する普通の人とは無縁の病気である』という誤解は、発症率と発現機序についての無知から生じている。また、その無知を啓蒙しようとしないマスメディアが、時々起こる精神病者の犯罪の恐ろしさだけを強調することでますます統合失調症は暗黒の非日常の領域へと追いやられてしまう。

精神分裂病統合失調症)は、幼児虐待等不幸な生い立ちや異常な親子関係から作られた性格の歪みが原因となって起こる病気である』という偏見や間違った認識も、統合失調症心因性を補強する症例は少なく、極々普通の生育歴と親子関係を持っている人に自然発症する事のほうが圧倒的に多い『内因性』の病気であるという理解が無い所に由来する。
この無知が何処から生じたのかの原因も、私たちが『理性的な表の世界』から非理性的な統合失調症を隠蔽し忘却したいという無意識的願望*2にある。


統合失調症に対する正しい認識の為には、統合失調症が治療可能な病気であると同時に対話可能な病気である事を知る事である。
世界と自己との間で引き裂かれ、真の自分と偽の自分との間で引き裂かれてしまった統合失調症者の内的世界との対話を知るには、R.D.レインの『ひき裂かれた自己 分裂病分裂病質の実存的研究』(ISBN:4622023423) が興味深い導きの書となるだろう。
レインは、分裂病者というアイデンティティに対して懐疑のまなざしを向けて、分裂病という客観的状態は存在しないと主張する。そして、権威に基づく分裂病診断を科学的事実でない社会的事実としてのレッテル貼りに過ぎず、政治的出来事*3だと看破する。この精神病の病名診断をレッテル貼りの『政治的出来事』だと言い放つレインに、私はフーコーの権力作用の説き明かしを重ねて見てしまう。

理性ある人は道徳的な責任主体であるが、理性がないと診断されてしまうと公的な“心身喪失者”として道徳的な責任主体としての法的地位を失う。これは、『私が社会内に生きる唯一無二の私である』という意味での実存的な立場からの転落そして頽落さえも指し示す事に帰結していく。

医師―患者の社会的関係に権威性を感じ取り、閉鎖病棟に社会環境からの異質性の隔離を読み取り、薬物療法に対話可能性からの撤退*4を読み取った反精神医学の旗手レインは、医師としての自己規定を放擲して、ロンドンの開放された空間・時間において、医学的な治療矯正の対象としての患者と向き合うのではなく、極当たり前の人間として人間的なコミュニケーションの相手として向き合った。

そこには、自己と事物(病んだ患者)との一方的な関係があるのではなく、自己と他者(人間)との相互的なコミュニケーションがある。
実存主義的アプローチを取るレインは、すべての人間存在は、自分の存在の意味や根拠を探究する本性があると述べる。実存主義における孤独な人間存在の意味とは何か?
それは、他人の内的世界において然るべき位置と影響を持つ事である。世界は、私の内面に閉じていない事を知る事である。他者は、自分の内的世界から切断された異次元にいる訳ではない事をまざまざと実感する事である。
実存的な存在意義を探求し欲望する事の次元では、正常と異常の恣意的な区分は姿を消してしまう。
レインは、『私』と『他者』の興味関心が相互に絡まり合う、私の興味に他者の興味が寄せられ、他者の興味に私の興味が寄せられる無限の交錯と螺旋こそが、生き生きとした意味を生み出す人間関係であると考えた。
私たちが生きていくという事、社会で他者と出会い関係を持つ事は、内的世界を相互干渉させて拡大していく事であり、他者の表象を内面化させることで絶望的な孤立や不安から離脱していく事でもある。

『ひき裂かれた自己』では、身体性の概念が非常に重要なものとして出てくる。私たちは、他者の身体性はその全体を可視化できるが、自己の身体性は可視化出来ない。
引き裂かれていく自己において、身体性は偽なる自己意識に宿り、真なる自己意識は身体性を持たないという言うのも自己の身体の不可視性に由来するのかもしれない。
身体性について考えた過去の哲学者も数多くいると思うが、統合失調症と身体性の関係に着目したレインの視点は斬新なものだと感じる。

*1:勿論、精神医学・異常心理学・臨床心理学の研究成果である理論や知識は、精神障害の治療や回復に役立つものが数多くあり、フーコー的な構造的排除の論理を当てはめずに素直に考えれば学問の知そのものに罪悪があるわけではない。問題は、それを利用し応用する私たち自身の認識や判断にある。

*2:私や私の家族や私の友人知人は、普通の幼少期を過ごし、両親との関係も問題がなかったから狂気に至る可能性とは全く無縁であるはずだという科学的根拠を無視した無意識的願望を私たちは絶えず持つ事で平穏無事な日常性に埋没する事が出来るのかもしれない。現在、急速な増加傾向にあるうつ病も、精神疾患である事をオープンにし難い職場環境や社会環境、家族関係によってその傾向が強まっている可能性がある。仮面うつ病などでは、強硬に自分がうつ病ではなく単なる身体疾患としての過度の疲労や体調不良に過ぎないと主張する人もいるが、これも精神科領域の疾患に異常性を感じている証左である。

*3:ある病名を診断される事によって、それまでの人間関係や社会生活に何らかの変化や影響を与える場合には、医療的出来事ではなく政治的出来事となる。癌やエイズや難病(特定疾患)の身体疾患の診断も少なからず政治的出来事の意味合いを兼ねているかもしれない。

*4:現在の精神医学では、統合失調症抗精神病薬メジャートランキライザー)の有効性は70%以上であるという事が科学的・統計的に実証されている為、レインの理想とした投薬なしの精神医療が正解であるという事ではありません。レイン自身は後年には医師としてのアイデンティティを捨てて、精神修行を行う行者の様になっていったようですが、この辺はカール・グスタフユングの姿とオーバーラップしますね。