血液型性格診断の類型論の決定論的問題


最近、テレビや雑誌を見ていると、『血液型性格診断』の文字をよく見かけます。
その内容のキャッチコピーを見ると、『相手の血液型を知れば、恋愛は上手くいく。顧客の趣味嗜好を血液型で知れば、仕事は成功する。あなたが人間関係で悩むのは、血液型の相性と特徴を知っていないせいだ。血液型による自分と相手の性格・特性を知れば、恋愛・仕事・金運・セックスなどの成功法則を知る事が出来る。』などなど実に現世利益と直結したもので、日常生活の中で様々な人間関係や心理的葛藤に右往左往する人間にとって誘惑的なものではあります。

人間の性格(人格)がどのようなものであるかを研究する心理学分野に、『性格(人格)心理学(personality psychology)』*1という分野がありますが、その分野の中の研究方法にも性格*2をその顕著な特徴や目立つ傾向によって幾つかのカテゴリー(範疇)に大きく分類する研究法がある。
この血液型性格診断にも見られる目立った特徴や継続的な傾向による分類を主体とする研究方法は、性格心理学でもかなりポピュラーなもので『類型論』と呼ばれるものだ。

ここでは、血液型と性格について書こうと思っているので、心理学者の性格論には詳しく触れる余裕はないが、類型論的なパーソナリティ理解の起源は、医学の始祖とされ医聖と尊称される古代ギリシアヒポクラテスに遡る。彼は、人間の体内を流れる体液を大きく『血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁』の4つに分類し、その体液のバランスの違いによってパーソナリティが変化すると考えました。
ヒポクラテスの理論は現代の基準からは科学的なものではなく医学的な有効性も無いですが、この体液の適正な混合比率によって健康が維持され、体液のバランスが崩れると病気を発症するという考えそのものは西洋医学の歴史において14〜15世紀辺りまでは権威的な説得力を持っていました。
視点を医学の東西比較史に転じれば、中世の15世紀頃まで、陰陽五行説本草学、気功などを理論的基盤に持つ東洋医学ヒポクラテスからガレノスに継承されていった体液病理学とでも呼ぶべき西洋医学にはそれほど大きな格差はなかったとも言えるのではないでしょうか。
しかし、西洋医学は近代以降、自然科学の発展の影響を大きく受けて、解剖学・生理学・薬理学などと共同歩調を取る科学的な実証性のある研究方法を重視するようになり、ウイルス・細菌による感染症の発見と公衆衛生意識の高まりもあって大きく発展します。

ヒポクラテス以外にも、性格の類型論を展開した心理学者には、メジャーな所ではユングの『外向・内向軸と思考・感情・感覚・直感タイプを組み合わせる類型論』やクルト・シュナイダーの『性格の10の分類』、クレペリンの通常の心理状態と精神病への移行段階を考察する中で発見されたサイコパス類型や病前性格研究、体質・体型と性格・精神障害の関係を毎日の臨床活動の中から実証的に研究したエルンスト・クレッチマーの『肥満型(躁鬱病と関係する循環気質)・細長型(分裂病と関係する分裂病質)・闘士型(てんかんと関係する粘着気質)・未成熟型の分類(未熟で衝動的な気質)』などがあります。
ユングとシュナイダーは、精神の病気と関係のない一般的な性格の分類をしようとする意図の元に性格理論を構築していますが、後者二人、クレペリンクレッチマーは、精神病や神経症の患者を診察治療する過程で性格理論を組み立てていて、病前性格や発病傾向としての性格理論になっている所に違いがあります。
また、クレペリンクレッチマーの研究は、実際の患者との面接や治療を通して行われた実証的な性格を持つ科学的なものではありますが、その研究対象が精神科を訪れた患者に限定されていて一般の人が殆ど含まれていない為にサンプルに偏りがありデバイスがかかっている事に注意する必要があると思います。特に、クレッチマーの性格論における体型と性格の関係では、てんかんと筋肉質な体格との関係は、現在では脳神経科学の知見などにより科学的に否定されています。

誰もが知っている血液型性格診断は、『A型・B型・O型・AB型』の血液型の区分に従って、それぞれの血液型に対応する典型的な性格の特徴を列挙していくものです。
私は血液型性格診断に精通していないので至って常識的な分類として普及している血液型による性格の特徴を示してみます。


『A型=几帳面で生真面目で努力家だが状況に応じた融通が利かない頑固さもある。集団・社会への適応性があり、常識的倫理観を遵守する。』
『B型=自由奔放で細かい事に拘らない大雑把な性格。集団・組織への適応性は余り高くなく、自分の信念や価値観に忠実である。』
『O型=明るく社交的で周囲からの信頼を得やすい。物事を沈思黙考するよりも楽観的に捉え行動する為悩み込む事が少ない。』
『AB型=二重人格的な側面を持ち、個性的でちょっと風変わりな面もある性格。個人主義で自分独自の世界観を持っている。』 

血液型性格診断は、それを信じていようと信じていまいとお構いなく、社会や世間において一般常識として普及しています。
時々、それを強固に信じている人とそれを全く信じていない人との間で生じてくる『価値観の押し付けによるレッテル貼り』が起きる事もあります。それが友達や家族といった個人的関係の間で起こるレッテル貼りなら(全く問題ではないとはいいませんが)、罪のないもので余り問題ではありません。
問題は、それが公的な社会的場面での人格(性格)判断に流用される時に生じるのだと思います。

私は事実だか事実でないか自分で確認していないので本当に起きている問題なのか保証出来ませんが、正社員やアルバイトの採用面接の際に面接官が応募者に対して血液型を質問し、その血液型を採用するか否かの一つの指標として利用しているだとか、企業内での人事考査の際に、A型は真面目で責任感が強いから安心して高いポストを任せられるが、B型は企業の秩序に忠実でないから管理職には向いていないという評価をしたりだとか言う事があるというのを何処かで目にしたことがあります。
仮に、そういう事が事実であるとしたら、本人に何の責任もない能力や努力・意欲と無関係の部分で重要な決定にペナルティを与えられている訳で問題でしょうね。

特に、圧倒的多数が血液型性格診断を正しい根拠ある診断だと確信している集団内では、自分が『○型だから、〜という性格である』というアイデンティティを本人の意志とは無関係に持たせられる事があるかもしれません。

私は、楽しい会話を成立させる為のコミュニケーションの道具や日常の仕事や恋愛をより面白くする為のスパイスとして血液型性格診断や各種占いで盛り上がるのは良いと思いますが、余り極端に科学的にも正しい性格論なんだという固定観念に嵌まり込んでしまって、相性や人間関係を血液型のバイアスに縛られてしまうのは出会いの幅を狭めたり、人間関係の発展を諦めたりする事にも繋がるので損だと思います。

血液型性格診断の科学的側面からの最大の問題点は、血液型の抗原の差異によって何故性格が変化するのかの科学的根拠の乏しさ*3以上に、『性格は、先天的な気質・体質の要因だけによって固定的に規定されるものではなく、後天的な環境・成長の要因によって可変的に変化するものなのに、先天的な血液型の差異によって生涯継続するような性格の傾向が規定されてしまう点』にあると思います。

血液型と性格の相関を研究する事自体は、科学的な方法と手続きを適用する事が出来ますので、原理的に科学的検証が不可能な占星術やタロットカード、水晶球占いよりかは科学的な文脈で考える事が出来ます。また、証明・検証の原理的な性質として『有』は証明できるが、『無』は証明できないということがいえますので、絶対に血液型と性格に相関はないと断言することは原理的に不可能です。
どんなに不可能でありえそうにない事柄であっても、宇宙の隅々まで観察して確認することは出来ませんし、因果関係や相関関係を完全に漏れなく認識することは原理的に出来ませんから、『不在証明の不可能性』は人間の知性と認識能力に規定されているものです。

勿論、私は非科学的なユング心理学(分析心理学)には実際的な有効性のある部分があると思いますし、宗教的な儀礼(イニシエーション)や神秘的なグノーシス主義超心理学などのオカルティズムも面白く読んだりもしますので、科学と非科学のどちらが優れているかという価値的区別はしません。
しかし、科学的に考えるべき問題や対象については科学の技法や理論を用いるという原則はあるでしょうし、科学的な根拠のない理論や考えを科学的なものであると強調する必要もないと考えています。

人体を形成する免疫細胞や神経細胞を始めとする細胞相互は複雑なネットワークを形成していますが、免疫細胞や免疫細胞が放出する化学物質の神経細胞に与える影響の研究などが進めば血液型と性格との相関研究の基盤が作られる可能性もあると思いますが、いずれにしても神経科学や生理学の枠内の研究成果を性格論に応用する場合でも、単純な類型論では説明が難しくなると想定されます。

批判の多い血液型性格論には、竹内久美子氏の『血液型の違い→病気への抵抗性の高低→性格の違い』という流れの話もありましたが、科学の雰囲気のある読み物としてはなかなか面白いものでした。

*1:現在の性格心理学・パーソナリティ心理学では、『性格(人格)』という用語よりも『パーソナリティ』という用語が好んで使用されている。その理由は、日本語の性格や人格という言葉には、『温厚で思いやりのある性格』『自分に厳しく他人に優しい高潔で気品のある人格』といった使用法が一般に見られる様に、『良い性格・悪い性格』『高潔な人格・下劣な人格』といった道徳的価値判断が内在化されている為である。客観的な性格理解や臨床的な性格診断においては、社会通念や常識感覚に大きく影響される道徳的価値判断を持ち込まない事が望ましいとされている。

*2:人格(personality)と性格(character)は同義に用いられる事もあるが、厳密には人格は性格の上位概念として位置付けられる。人格は『気質(temperament)・性格(character)・知能(intelligence)』によって構成される。人格・性格については、いつか精神医学領域の『人格障害』について詳細に記述したいと考えているのでその時に掘り下げて考えたい。

*3:血液型のABO型分類は、赤血球上の抗原(糖鎖)と血清中の抗体という免疫学的な区分に過ぎず、それがどういった生理学的機序を持って、脳機能によって制御されると考えられる『思考・感情・認知・行動のパターン』所謂『性格』に影響を与えるのかが明らかではないという意味で血液型性格診断は科学的根拠が乏しい。この免疫学的観点からの血液型についてもいつか書いてみたいと思っています。性格形成の機序が分からなくても、ある血液型を持つ群とある血液型を持つ群に顕著な性格の相違が統計的に見られればとりあえずの科学性は担保されるという考えもありますが、血液型に関する経験的な実感や自己認識以上の確からしさはないようです。観察者が血液型の知らない成人を対象にして、一定期間その人の行動や態度を観察して血液型を当てる場合に、4分の1以上の有為な確率で的中させられればある程度相関があるのかもしれません。