ネオリベラリズムと竹中平蔵:自由競争原理と経済格差


経済成長を最大の目的とし、市場原理と自由競争に基づく市場経済のメカニズムに信頼を寄せるネオリベラリズムは、経済的自由を最大限に尊重します。
経済的成功者でない人たちの抱くネオリベラリズムの大きな問題点や不信の一つと考えられるのは、経済成長と自己責任を過度に強調する事で弱肉強食型の社会モデル*1を正当化する恐れがある事です。

現在の日本の小泉政権の経済政策のブレーンである竹中平蔵氏は、日本を代表する新自由主義の経済学者です。アメリカ型の市場原理主義グローバリズムを肯定するネオリベラリズム新自由主義)の流れを汲み、市場経済システムを万能視して、政府の市場への介入を辞める構造改革のヴィジョンを持っています。
それは、政治的権力による財の再分配である『福祉政策・社会保障・公的投資(公共事業)・公的年金・医療介護・公的教育』を最小限にして夜警国家的な『小さな政府』*2を志向するものです。
緊縮財政、社会保障の縮小、国公立大学行政法人化、医療介護等の自己責任の明確化などを特徴としますが、こういったネオリベラリズムの隆盛は、財政を逼迫させ、個人の生活維持の自己責任を曖昧化させる福祉国家リベラリズムへの反動として起こりました。
その正当化の論拠は、リベラリズム政権の元では、財の再分配である社会保障制度にただ乗りして働かない怠惰で無責任なフリーライダーが増加し、勤勉で責任感のある経済的成功者ばかりが高い税金を支払って社会保障を維持するのは不公正であり、モラルハザード(倫理観の欠如)につながるのではないかというものです。

世界経済のグローバリゼーションの結果として構造的な貧困層が固定化する恐れがある場合に『経済格差の容認』をするのか否かは政治思想の立場を超えて考えなければならない問題ですが、国内経済のグローバリゼーションの結果生じる『構造的な富裕層と貧困層の固定化』に対して特別な再分配による政策的措置を講じなくて良いとする立場に竹中平蔵氏はあるようです。

そのネオリベラリズムの思想の現れは、竹中氏の税制改革の姿勢にも現れていて、彼は所得の増加に従って納税率を上げる現在実施されている累進課税制や財産を目減りさせ結果として経済格差を緩和する相続税*3にはいたく批判的で否定的です。
つまり、俗に言う“金持ち優遇税制”である所得の大小に関係ない累進度の低い税制に移行しようとしていて、理想的な税制としてフラットな人頭税(収入に関係なく、個人に一律に課税する税金)を意図しているようです。
所得税等の直接税から消費税等の間接税などへの税源移行もどちらかといえば高額所得者に有利な税制で、食品・衣服・日常雑貨・医薬品など生活必需品と趣味、嗜好によって変わるあってもなくてもよい娯楽品との間に税率の格差をつけることも余り考慮していないようですね。

日本の新自由主義は、構造改革進行の途中にあり未だ不完全なもので、小泉政権の経済政策には矛盾や言行不一致*4が多いのも事実ですが、基本的な路線として経済的社会的弱者には厳しい『自己責任を貫徹する強い個人』を想定した政治です。

財の再分配によって貧富の格差の緩和を行わない新自由主義は『強い個人』観に立ち、財の再分配によって貧富の格差を是正する福祉国家リベラリズムは『弱い個人』観に立っていると言えるでしょう。
『結果の平等』は間違っているが、『機会の平等』は促進すべきだという意見は一般的なものですが、教育や医療、介護などの分野では機会と結果を完全に切り離して考える事が出来ない所にアポリアがあります。経済的に厳しい家庭であれば、その子どもの資質や能力とは無関係の部分で、高い教育を受ける機会を掴むチャンスを逸したり、予備校や塾といった補助的教育機会において格差が生まれてきます。

小泉政権及び竹中平蔵氏が構造改革を妨害して不良債権処理を遅滞させる『日本型経済システムの短所・欠点』として取り上げている『政府による経済活動の規制・特定産業の保護・護送船団方式・横並び体質』は、過度な結果の平等主義や公平性の要求に繋がると確かに民間経済を圧迫し活力を落とす原因にもなるかと思いますが、公的部門の肥大化や非効率を改善する事と経済的弱者を切り捨てる事を同列に考える必要もないと思います。
新自由主義では民間の資本・労働・環境・土地を最大限に効率的に有効利用する事を考え、それを最大限に有効に利用する手段として市場メカニズムを考えます。ただ、その思想の欠落は、資源の最適配分までもが市場によって実現すると盲信してしまうところにあるのではないかと思います。アダム・スミスが想定したような『神の見えざる手』は市場経済には存在していない事は、経済の歴史の過程を見れば明らかでしょう。
肥大化して無駄遣いの多い公的部門の経費削減とスリム化の必要性は感じますが、財・資源の分配機能の全てを市場経済に委ねる事には否定的です。

私はそういった意味では、自由経済化で経済や民生がガタガタになってしまった中南米の実情などを踏まえ、最低限の文化的生活を保障する程度の再分配を行うヨーロッパ型の成熟社会や社会民主主義を参考にする必要を感じます。
しかし、古典派の自由放任主義から政府介入型の有効需要創出のケインズを経て、またまたハイエク、フリードーマンなんかが旗手となり今人気のクルーグマンなども唱えるネオリベラリズム的経済学が主流になっているのは興味深いですね。

ヨーロッパの場合には、社会権の伝統があるので、国民が経済的・文化的に最低限の生活を国家によって保障されるべきだとする考えが根強くあり、伝統的なカトリシズムとも相まって、それが北欧型の高負担・高給付の福祉社会につながり、劇的な成長や進歩を望むのではなく安定した循環型社会を理想としているのでしょう。
伝統的なカトリシズムというのは、キリスト教民主主義とも呼ばれ社会民主主義の普及と深い関係があるとされています。その二つの思想信仰の潮流がアメリカ型の新自由主義ネオリベラリズム)の強硬な対立軸を作ったと言えます。
また、政府と市民個々人が参加する利益団体との間で利害調整を行いながら政策形成を進めていくヨーロッパの伝統的なコーポラティズムも多数決ではなく交渉対話(ダイアログ)を重視するという意味で社会民主主義に大きな位置付けを得ています。

新自由主義を語るには、サッチャーレーガン、中曽根などの政治理念とその帰結を考えたり、ネオリベラリズム中南米の人々の生活にどのような影響を与えたのかを調べる必要がありますが、また時間のある時に考えたい問題です。
もっと大きな地球規模の視点では、市場経済システムの問題は、環境問題やエネルギー問題、資源枯渇問題として長期的観点をもって臨まなければならないでしょう。

*1:自由競争の結果生じた貧富の格差は自己責任であり、構造的に経済階層の分化が進行し固定化したとしても経済格差を政治権力によって是正する必要はないとする社会

*2:『小さな政府』の場合でも、アメリカの共和党を見ても分かるように、国防に関する軍事力の増強やセキュリティ強化の為の情報通信網整備などに必要な経費は削減しない場合は多くあります。ブッシュ政権ネオリベラリズムネオコンサバティブ(ネオコン新保守主義)とも呼ばれるように、レーガン政権時の国内政治におけるネオリベラリズムとは異なって、対外的なグローバリズムやナショナルな動きと並行する市場経済主義の拡大であると解釈できます。

*3:相続税の税率については、高すぎるという意見と低すぎるという意見に分かれますが、その判断の分かれ目は自分の両親の財産が大きいか少ないかに大きく依存している極めて功利的なものです。相続税を無くしたり、低く設定する事は、本人の意志や努力に拠らない部分での経済格差を縮小します。生まれる家庭環境によって決まってしまう財産格差が意欲格差(インセンティブ・ディバイド)につながるという見解と両親の勤労意欲は『子孫に財産を残してあげたい』という自然な情緒にも支えられているもので、財産の所有権は子に継承されて当然であるとする見解があります。法学的な対立点では、財産の所有権がその個人のみに認められた権利なのかその子孫にまで及ぶ権利なのかといった事になるでしょう。ケインズは、エリートの大資産家で所謂特権階級に所属していましたが『所得分配の不平等は認められても、遺産の不平等はいかなる理由によっても受け入れられない』という言葉を残しています。若年世代の『頑張る事の無意味化』が、経済階層の分化と関係しているとも言われ、市場経済の自由化を推し進める場合には、親の世代では負けても、子の世代では逆転できるという余地を残しておく事が経済の活性化にも結果として繋がります。

*4:政府による経済介入や規制指導を撤廃して、自由競争に基づく市場原理に経済活動を委ねるのが本来のネオリベラリズム新自由主義)であるが、銀行や大企業は例外として保護政策や救済支援策を打ち出している。金融システムの早期安定化と世界恐慌回避という大義名分の元では、公的資金の注入を行うというのは言行不一致ですが、私は必ずしも新自由主義の原則に従う必要は感じないので適切な公的資金投入であれば反対するものではありません。