中華人民共和国の成立の歴史と政治体制の変遷について


私たちが、日常的に中国と呼び習わしている国は、漢字名での正式名称を『中華人民共和国』と言い、国際的な正式名称では『People's Republic of China:PRC,China』*1と呼ばれる。
漢民族が総人口の92%を占めるが、その他にも約55の多数の少数民族を国内に抱え形式的な自治区を設けているものの、基本的に人民解放軍の武力による統制であり、少数民族民族自決と独立を願う反発も根強い。
内政情況は中国共産党の独裁的な指導体制により表面的に安定しているが、上海や香港など沿岸の経済発展地域では中央政府の規制や統制に対する反発も出てきており、中国は名目上の社会主義国であるが、実質的には訒小平の改革開放路線以降は資本主義国になっている。

中国が、国際的に標榜している正式な国家体制は、共産主義体制ではなく、独裁軍事政権であることを否定し民主主義国家である事を強調したい意図を込めた『人民民主共和制』である。
民主共和制という建前であるが、国家元首である国家主席は人民の選挙によって選ばれるわけではなく、中国共産党の党員のみ*2によって構成される唯一の立法機関『全国人民代表大会』によって選出され、政権交代や人民の意志による国家主席の罷免解任などは存在しない。

社会主義国の国民の呼び方の特徴として『人民』という言葉があるが、これは中国の正規軍を人民解放軍と呼ぶように、マルクスの国家権力からの人民解放やブルジョア階級の支配からのプロレタリア解放という理想から生まれた言葉で、通常、自由民主主義国家では『人民』という言葉は使わず、『国民』『市民』『民衆』といった言葉を用いる。
勿論、国家や市場経済の支配から完全に解放された地上の楽園としての共産主義国家などはこの世界に出現した事はないし、ソ連や中国の実情は人民の自由や幸福といった理想からかけ離れており、反体制的思想や運動に対しては容赦ない無情苛烈な粛清や弾圧が加えられた。

現代中国の建国の父・毛沢東が行った悪名高い急進的な共産主義運動として、1966年に起こした『文化大革命*3がある。

改革開放路線以後の中国では、市場経済に参加して働く都心部の資本家やサラリーマンと市場経済の枠組みから外れている農村部の農民・遊牧民との経済格差が極端に開いて、所得の地域格差が解決困難な問題となっている。
内陸部は、石油や天然ガス・石炭などの資源が出る地域以外は、特定の産業や観光資源もなく平均して沿岸部よりも所得が極端に少なく、前近代的な生活に中途半端に市場経済が入って来ている為に自給自足もままならず厳しい。
農業は、淮河流域より北の黄河流域の華北では小麦、大豆などの畑作農業が行われ、南の長江流域の華南では米を中心とした稲作農業が行われ、土地が肥沃な地域では稲の二期作が行われる。中国の『穀倉地帯』とされるのは、華北と華南の中間にある華中と呼ばれる地域で畑作と稲作が合わせて行われている。
農業は、昔も今も中国の基幹産業であり、米の生産高は他を圧倒して世界一の生産を誇っている。

以下に、現代中国の国土面積、人口、経済力などの基礎的データを示すが、やはり、広大な国土、膨大な人口、豊富な資源を抱える中国の存在は現在、余り芳しくない国家関係にある日本には脅威である。
中国の国際社会における地位は今後益々重要性を増してくるのに対して、日本の人口や経済力、国際的地位は今後先細りする予測が立てられている。
特に、少子高齢化の急速な進行は、国力の基盤であるマンパワーの絶対的減少を意味する事が懸念される。
それと合わせて、NEET,引きこもりの増加に見る若年層の社会参加意欲や労働モチベーションの低下、更にパラサイト・シングルや同棲事実婚の増加に見る結婚願望の低下や文化伝統技術の世代間継承の断絶などの問題も日本には重くのしかかっている。

私は、NEET、引きこもり、パラサイトシングルの問題は社会的問題と精神的問題の両方面からの真摯な考察が必要であると考えていますが、自由な生活や職業の選択を保障し、最低限の文化的経済的な生活水準を維持する為にある程度の国家の経済力や政治力は必要だと考えている。生きるか死ぬかの究極的な貧困層が増大するような国家の経済崩壊や極端な貧富の格差による階層社会の成立は、私たちの知恵と努力と共感によって回避しなければならないのではないでしょうか。

高度経済成長期にある中国と経済成熟低成長期にある日本とを比較する事自体が苛酷ではあるが、諸々の事情を勘案して中国との敵対関係や対立緊張はできうる限り回避すべきである。
管見ではあるが、日本国の安全保障や独立維持、成熟型社会確立の為には、歴史的な国家間闘争で敗北を知らないアングロサクソン国家であるアメリカとイギリスとの同盟関係を原則とし、国際金融資本に大きな影響力をもつユダヤ勢力と経済協調路線を取って、台頭する中国を中心とするアジア諸国家とは経済・文化交流を活発にしながら過去の怨恨感情の鎮静化を待って相互に不可侵で安定的なパートナーシップを構築する努力を怠らない事である。



中華人民共和国の情報

面積 960万km2(世界第3位 日本の約26倍) 

人口 12億8,543万人(2002年現在 世界第1位 日本の約10倍)

首都 北京

人種 漢民族(総人口の92%)及び55の少数民族

言語 漢語(中国語)

宗教 仏教・イスラム教・キリスト教など

略史 1911年 辛亥革命により清朝崩壊

  1912年 孫文を臨時大総統とする中華民国成立 後に袁世凱が臨時大総統となる。

1921年 中国共産党創立

  1928年 中国国民党蒋介石により南京を首都として全国統一(国民政府)
 
  1949年10月1日 中国国民党との国共内戦に勝利して中華人民共和国成立

1971年10月 国連総会において台湾にある中華民国は中国を代表する正式な政府ではないと決議され、公的に正式な中国政府は中華人民共和国となる。

政体 人民民主共和制
国家主席 胡錦濤
議会 全国人民代表大会
政府 (1)首相 温家宝(国務院総理)
   (2)外相 李肇星(外交部長)
     共産党 胡錦濤(総書記)

主要産業 農業、エネルギー産業、鉄鋼、繊維、食品
GDP 約1兆4,000億ドル(2003年、11兆6,694億元)(日本は4.3兆ドル)
一人当たりGDP 1,090ドル(2003年)(日本は31,106ドル(2002年))
経済成長率 9.1%(2003年)
物価上昇率 1.2%(2003年、消費者物価)
失業率 4.3%(2003年、都市部登録失業率)
貿易額(2003年) (1)輸出 4,384億ドル
         (2)輸入 4,128億ドル
主要貿易品 (1)輸出 機械電気製品、ハイテク製品、繊維・同製品
      (2)輸入 機械電気製品、ハイテク製品、原油、鋼材
主要貿易相手国・地域 (1)輸出 米国、香港、EU、日本
          (2)輸入 日本、EU、台湾、ASEAN
通貨 人民元

外交基本方針  (1)平和共存五原則に基づく各国との関係発展
        (2)覇権主義反対
        (3)世界平和の擁護、第三世界との団結・協力の強化を標榜し「独立自主の平和外交」を展開

2.軍事力 (1)予算 1,853億元(2003年度予算:約2.8兆円、GDP比1.6%)(日本の予算4.9兆円、GDP比1.0%)
    (2)兵役 徴兵(満18歳〜22歳の男女)と志願兵の併用(陸・海・空軍一律2年)
    (3)兵力 総兵力約225万人
    (陸軍170万人、海軍25万人、空軍40万人、作戦機約1,900機)

外務省の中華人民共和国サイトから引用し、『略史』の項目を一部編集しました。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/data.html




日本と中国は、本来、歴史的に長らく友好的な関係にあり、日本にとって中国の政治システムの見事さや中国の知識人は尊敬の対象でさえあった。何より日本に文字文化が花開いたのは、中国が漢字を日本に伝えてくれたからであるし、現在尚多くの信者を持つ仏教や日本人の道徳観に大きな影響を与えた君子の思想・儒教も中国から学び取ったものである。
先進的な文化文明を持ち、強大な軍事力を誇っていた中国を日本が軍事的に侵略しようという意図を持った事など誇大妄想的な豊臣秀吉の明征討の野望くらいなものではないだろうか。日本の政治権力は遣隋使や遣唐使に代表される使節交流を通して、中国から学ぶべき制度や技術を学んで以来、中国とは一定の距離を置いてきたし、その文化文明・芸術にはある種の憧憬や敬意を抱いていたと言える。
日中の対立関係の端緒は、東洋と西洋の文明の不幸な出会いにあり、本来、アジアの盟主として責任ある立場を取るべきであった眠れる獅子・清の不甲斐なさと頑迷固陋さにあったと言えよう。西欧列強に為す術もなく国土を蹂躙され、権益を搾取される大国・清に対して日本は自国防衛の為もあって見切りをつけざるを得なかった面もあると思っている。


周辺諸国を劣等国と見下す中華思想の影響もあって、ヨーロッパの科学技術や政治・経済システム、近代的装備の軍隊編成を学習する事を潔しとせず、旧態依然な皇帝の専制義体制を維持した中国は国際的な近代化の波に完全に乗り遅れてしまう。近代の18世紀〜20世紀に掛けて、イギリス、フランス、ドイツ、オランダ等の帝国主義外交を積極的に行う列強諸国の植民地争奪戦に巻き込まれ国土の大半を租借地と言う名目で植民地にされたり、和平と引き換えに割譲させられたりする。

中国の近代の歴史を学ぶことは、ヨーロッパの全体主義帝国主義のコロニアニズムの歴史を学ぶ事でもあり、日本と中国の不幸な戦争の歴史を振り返り、反省すべき点を反省しながらも、未来志向の世界戦略の起点を再考する事でもある。

*1:中国を『支那』と呼ぶ事は現在では蔑称とする見解があるが、その起源は紀元前に中国大陸を初めて統一した始皇帝の『秦(シン)』という国名にある。清王朝を打倒した孫文が、中国を清と呼ばずに支那と呼んだが、中華民国設立を認可しなかった日本政府が中国を支那と呼び続けた為に反発が強まったとされる。現在では正式国名ではないので、日本語で呼ぶ時は中国、英語で呼ぶ時はチャイナで良いと思うが、歴史を語る文脈において広大な中国大陸や中国文明圏を表現する語として使用する場合の支那が特別な差別語であるわけではないと思われる。勿論、それを不快に感じる相手が居る場合に強硬に使用し続けるほどの意味がある言葉でもない。

*2:厳密には、中国共産党以外にも少数政党が幾つかあるようだが、それらの政党が中央政府の指導部の意向に表立って反対票を投じることは考えられない。絶対数が少ない上に、自由な政策論議に開かれていない為に、その存在意義は日本における日本共産党社会民主党よりも小さいだろう。

*3:中華人民共和国の建国(1949)から、文化大革命の終焉(1966〜1976)までが中国における毛沢東時代と言える。中国共産党革命を主導し、蒋介石率いる中国国民党との内戦に勝利した毛沢東主席のカリスマ性に支えられた絶対権力によって中国の政治経済軍事は動かされていた。文化大革命は、毛沢東の目指した共産主義国家設立への原点回帰運動であり、毛沢東原理主義の性格を持つ急進的で総合的な革命だが、その運動の性格は『反近代化の様相』を備えているものであった。何故、文化大革命の様な急進的な運動が起き、特殊治安部隊のような残忍な紅衛兵による監視社会が出現したのか、粛清や暗殺と言った陰惨な非民主的な政治支配が行われたのかの考察は難しい。中国建国当時から進められた土地改革に基づくソ連型の集団農業や産業設備・生産手段の国有化、人民公社設立の五ヵ年政策や『大躍進』が挫折して経済が停滞した時に、人民公社を解体する改革案が提出され、私有財産を一時期認めるような気運が高まった。その反革命的な気運を嫌った毛沢東が、『共産主義革命の原点に戻ること』を旗印にして起こしたのが文化大革命であり、伝統文化や習俗慣習まで悉く壊滅させて自らの政治思想を実現させる為に粛清や暗殺といった手段まで使う悲惨な歴史になってしまった。