不条理なる世界に生きる人間の対象喪失の危機


セカチューという略語も出来た片山恭一氏の『世界の中心で愛をさけぶ』の中で、ヒロイン役の向井亜紀が罹患する病気は白血病であるが、人間にとって白血球は欠かす事の出来ない重要な細胞である。
白血球は、自己と非自己を区別して生命を防衛する免疫システムの根幹を司るが、血液あるいは造血組織の癌とも言える白血病では、正常な免疫機能を持たない白血球が過剰に増殖する事で、免疫力低下による感染症、赤血球減少による貧血、血小板減少によって出血し易くなったりといった症状が出てくる。

愛する恋人を失った人間の喪失と再生の物語は多くの人の心を打つが、物語の悲劇性を高めるのは『予期出来ない不治の病』という二重の運命性であろう。
事前に難治の病気である事が分かっていたり、危険な任務や仕事で死の覚悟を固めていたりする場合には悲劇性が減じるが、昨日まで健康そのもので病の陰さえ感じさせなかった人間が不意に病魔に襲われる事には人智によって抗し難い運命性を予感させる。
また、無数にある病気の種類の中から、偶然にも難病や奇病とされる治療法がない致命的な病気に罹ってしまう運命性が更に加わる。

絶望的な情況や悲劇的な惨状は、私たちに人間の自由意志によっては変更できない運命や宿命を容易に信じ込ませる力がある。
健康で生きる意欲に満ち溢れている幸福な人には心に響かない運命論的な宗教教義が、苦しい病気に苦しんでいたり、複雑な人間関係に悩んでいる人に簡単に無抵抗に受け入れられる様に見えるのは、運命や宿命を変更できる神の力を信じ込まざるを得ない切迫した情況にあるからである。

人は、自らの行い得るあらゆる行為を試し終わった後に、時にこう高らかに述べる。
『やるべき事はやった。人事を尽くして天命を待つ』と。
可能性として考えられる限りの人事を尽くして、なお困難や問題、苦悩を取り除く事が出来ない場合に、人間は時に悲嘆に打ちひしがれたか細い言葉を述べる。
『助けて下さい。許して下さい。何でもしますからどうか良い方向に情況を変えて下さい』と。
こういった非論理的とも言える救済を願う経験は、相当に科学的で理性的な人間であっても経験する可能性は十分にある。

おそらく、この世界の成り立ちや人間の人生は数理や論理によって導かれる法則や技術では読み解ききることは出来ないし、世界の自然現象や人間の人生の流転を哲学や科学によって思いのままに制御し支配することは出来ない。
アインシュタインであってもボーアやハイゼンベルクであっても、鋭い論理的感性で世界を分析しようとしたウィトゲンシュタインラッセルであっても、日本の誇る湯川秀樹朝永振一郎であっても、どんなに天才的な科学者や深い思索による世界認識を持った哲学者でも、『人生の不条理』『世界の不確実性』からは逃れきる事が出来ない。

『助けて下さい』と助けを請い願う相手とは誰なのか、『許して下さい』と犯してもいない罪(キリスト教であれば人間は皆原罪を背負うが)の恩赦を願う相手とは誰なのか、『苦しくつらい情況を変化させてくれる』全知全能の相手とは誰なのか。
個人的な神の発生の起源の一部は、『人智によっては解決し難き苦悩や葛藤』にある。
人間よりも上位の知性や自然世界に対する権力を持っている神・悪魔を拵える事は、ニーチェによれば弱者の強者に対する怨恨であるルサンチマンによって捏造された背後世界であり、価値判断を転倒させる巧妙な道徳の仕組みでもあるが、人間の宗教心というのは更に根深いもので、有限の生を持つ無力な存在であるが故に生起する超越性や絶対性への憧憬や服属といった側面をもち、不完全な世界や身体に対する否定の念が込められてもいる。

世界の不条理性が極点に達するのが、『世界の中心で愛をさけぶ』に描写されたような本来、死ぬ筈のない年代での愛する他者の死もしくは自己の死であろう。
自分の生活世界の一部が欠落し、既存の世界の枠組みが崩壊する、今まで当然と信じてきた世界の枠組みが無くなった場所から生の意味が喪失してしまっている。
人間は、恋愛や結婚といった特定の相手の関係性に高い価値を見出すように、他者との関係性を自己世界の自明の一部として組み込む事で精神の安定を見ている場合が少なくない。
他者に依存し過ぎてはいけないとは日常よく言われる言葉であるが、人間の他者への依存性は自分でも意識していない間に進行し、生活世界を共有する瞬間瞬間に確固たる人生のリアリティを感じる本性があることもまた事実であろう。

対象喪失の心身の不安定は非常によく見られる現象で、他者の死や自己の死の運命を受容し諦観することはホスピスにおける末期医療の大きな課題でもある。
不条理な運命を諦める事、終わり無き葛藤を打ち切って、あるがままの情況をそのまま受容する事、不確実性に満ちた世界の中に生きる自分を再認識する事、これらは釈迦の説く四諦八正道にも繋がる苦悩の克服の正攻法でもある。

責任の所在や過失の原因が確定できない事に対する苛立ちや絶望は、病気とは種類が異なるが新潟県中越地震のような自然災害にも抱かれることがある。
落雷や地震、台風、大雨洪水などの自然災害は、被害を受けた人たちの不満や憤慨の持って行き場がなかった為に、伝説や神話などでは不信心な人間に対する神々の怒りの現れであるとされ、災害の後には神々を祭る祭祀が盛大に行われ、未開の古代文明では動物などの生贄(供物・供犠)が神に供えられたりもした。


世界・他者と私の境界線は、身体と自我意識によって形成されるが、細菌・ウイルス・寄生虫・化学物質など無数に存在する外部の脅威から自己を守ってくれる境界線は免疫系である。
世界・他者と私の境界線は、ある程度の柔軟性を持って引く事で、他者との共感的認識や相互理解、恋愛感情などを実現する事が出来るが、免疫系の自他境界が曖昧になる事は、重篤な自己免疫疾患、アレルギー疾患、白血病による感染症リスクなど生命の危険を招く。

精神・身体・免疫によって、『自己・非自己』『自己・他者』『現実・非現実』を裁断し区別し、あるいは溶解し同化するアンバランスな境界領域の画定の刹那に、私たちの生は不規則に不確実に推移している。