清貧と勤勉の人・アッシジのフランチェスコの自由なる信仰

『清貧・禁欲・勤勉・服従貞潔』といったキリスト信仰者としての諸徳を掲げ、厳格な規制の下で共同生活を送る西方キリスト教会の修道院の起源は、6世紀(529年)にイタリアのモンテ・カッシノに聖ベネディクトゥス(480頃〜543)によって設立されたベネディクト会に遡ります。
信仰の為の共同生活の場としての修道院の歴史をもう少し古い時代の3〜4世紀エジプトの修道院にあるようです。

修道院の最大の特徴は、『世俗と隔絶された神聖な信仰生活の領域』であるという事であり、仏教で言えば修道士とは世俗を捨てて出家した修行僧に当たります。

修道院の厳格で禁欲的な生活の基本は、『祈り、働け』というベネディクト修道会の標語にあるように、決められた時間通りに遂行される『祈祷(礼拝)』と『労働・学問(神学)』であり、自分自身の利益や欲望の為に行為せず、生活時間のほぼ全てを神に奉仕する事に費やします。
中世に至る迄、ヨーロッパの最高学府において最も価値ある学問とされたのは、キリスト教の教義と実践を研究する神学でしたから、修道士の多くは強靭かつ敬虔な信仰心だけではなく、相当に高度な教養や知識を身につけている知識人でもありました。

人里離れた辺境の静かな土地で信仰生活を送る修道士達の生活基盤は自給自足の農耕にありますが、托鉢修道会と呼ばれる会派では、民衆から食糧や衣服の施しを受ける乞食をして生計を立てていました。

乞食(こじき)と言うと現代の産業化された先進文明社会では、軽蔑や嫌悪の対象を向けられる人々であったり、怠惰や無為の結果としての零落した人々という偏見もありますが、宗教的な信念や規範に基づき生計の施しを受ける『乞食(こつじき)』とは精神修養の真髄を実践しようとする強烈無比な信仰心の具象化として解釈されるべきものだと私は考えます。

例えば、ローマ法王の絶大な権威と利権やキリスト教会権力のヒエラルキー体制に疑義を呈した純粋無垢な信仰の人・アッシジの聖フランチェスコ(1181〜1226)と聖フランチェスコが最も敬虔で真摯な信仰を持つと認めた聖女と呼ばれる聖キアラ(1193〜1253)などの生活行動を振り返ってみても、そこに怠惰や堕落を確認することは不可能です。

勿論、私はキリスト教をはじめ特定の宗教への信仰は持っていませんので、彼らの神への奉仕と服従を無意味なことであると言葉の上で否定する事は簡単ですし、結果としての個人的な快楽や幸福を基準とする功利主義や実際的な効率効用や合理を重視するプラグマティズムの立場から修道士や修道女の生活を自己犠牲のみの損な生き方だと批判する事は可能でしょうが、宗教や信仰を語る場合に神の不在を前提とする主張はナンセンス(無神論者同士の宗教批判)ですから、中世当時の神の存在の自明性を考慮して考えていかなければなりません。

アッシジのフランチェスコは、比較的裕福な織物商人の家系にイタリア人とフランス人のハーフ(混血)として生まれ、フランチェスコとはイタリア語で『フランス人』を意味する言葉でした。アッシジのフランチェスコ以前に、フランチェスコという名を持つ人は居ないとされる当時としては新奇な名前でもありました。
商人の子息であったフランチェスコは、元々、敬虔な信仰深き人だったわけではなく、ペルージャとの戦争に参加した折にその残虐で悲惨な光景を見て神の啓示を受けたとも、偶然入手したキリストの言行が記された福音書によって悔い改めを行ったとも言われます。

修道院建設の歴史は、ローマ法王庁ローマ教皇を頂点とする権力構造から切り離された純粋で敬虔な信仰を求める運動の歴史でもあります。
つまり、権力・権威を元に土地・金銭・名誉・快楽などを求めてしまう世俗化の波を受けざるを得ないキリスト教会組織のヒエラルキー構造の内部から外部へと抜け出そうとする運動の中に修道院はありました。しかし、清貧や貞潔を理想とする神聖領域としての修道院も組織が巨大化し、構成員が増えると権力構造が再び生まれて堕落や腐敗が始まります。
そこで、更に信仰の原点に帰ろうとする根本主義原理主義が再燃し、外部へ外部へと・・・純粋な信仰、敬虔な信仰は教団組織が大きくなるとその組織基盤を利用して権力や財力を得ようとする欲求が上層部に芽生えてくる為に『神への奉仕と信仰』を素朴に維持することが不可能になり、無限遡及的に原点回帰運動が繰り返される事になります。

キリスト教ヒエラルキー構造や王の世俗権力の承認を可能とする権威が増強されてくるのは、ローマ帝国においてコンスタンティヌス皇帝がキリスト教を公認(313年)し、テオドシウス皇帝が国教とした(391年)事に端を発します。
そして、キリスト教会の絶大な権威の源であった『コンスタンティヌスの寄進状』*1というものが、ルネサンスの古典学者ロレンツォ・ヴァッラに偽作であると鑑定されるまで、ヨーロッパ世界の土地の所有権はキリスト教会(ローマ法王庁)にあるという根拠になっていました。

アッシジのフランチェスコの思想の素晴らしい所は、それまで厳格な戒律と罰則によって人間の原罪を強調した聖職者の説教に疑義を呈し、最後の審判やハルマゲドンをちらつかせて地獄の恐怖で大衆を精神的に支配しようとしていたキリスト教会の布教法とは異なる視点を提示して、キリスト教イエス・キリストが本来目指した『愛と寛容の宗教』に立ち戻らせようとしたことです。

また、『信じる事は幸いなり』として俗世を捨てて人生を神に捧げた自分達を特権階級扱いするような聖職者の権威主義や権力志向の中には神の真の教えは存在せず、わざと難解で高尚な教養を振りかざして自分たちの優秀さを誇示したり、民衆が理解できない知識人の共通言語であるラテン語でしか聖書を書かないことはおかしいという宗教改革のルターにつながるような聖書の口語訳の考えを持っていた事も特筆すべきことでしょう。

高い教養を持っていなくても、高尚難解な学問に励んでいなくても、敬虔な信仰は実現できる。神の前にあっては、聖職者も庶民もその存在の価値は全く異ならず等しい。そういった謂わば、信仰者として当然の事柄を振り返り見たのが聖フランチェスコでした。
民衆が、自分自身では学習する機会も理解する能力もないラテン語で説教をして、ラテン語でただ暗記したままに祈祷を捧げるのは、信仰の本質を踏み外す事であるとして、『自分自身の頭で考え、感じ、理解する事の出来る日常言語』で説教をし、祈祷をすべきであるという事は、取りも直さず宗教を聖職者が独占し支配することへの批判へとつながっていきます。

勿論、絶大な教会権力を前にして、フランチェスコが直接聖職者階級を否定したわけではありませんが、フランチェスコの敬虔な信仰は教会ではなく神に向けられ、その優しさと寛容を旨とした啓蒙精神は、民衆へと絶えず向けられました。

フランチェスコを語るには、当時のローマ法王・イノセント3世についても語らねばなりませんが、結果だけを言えば先見の明のあるイノセント3世は、自分は豪華な生活と贅沢な貴族趣味を持っているにも関わらず、フランチェスコ修道会をキリスト教会の新しき血、新しき潮流として歓迎し、『法王の祝福』という名誉さえ授けました。

イノセント3世は、長いカトリックの歴史の中でも最高の権力と権威を実現した有能な教皇として知られ、その絶大な栄耀栄華ぶりから、『教皇は太陽、皇帝は月』という言葉さえ生まれました。
教皇は太陽、皇帝は月』という力関係を象徴する出来事が、あの有名な神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒ4世が雪の中ひたすら法王に破門取り下げを願って謝罪し続けた『カノッサの屈辱』ですね。
世俗で最高権力を持つ皇帝よりも、宗教で最高権威を持つ神の意志の代理人としての法王がより高い地位を占めていた時代を象徴するものでした。

その事を前提として更なる先見の明を持っていた聖フランチェスコは、後の信仰の自由を先取りするかのような進歩的な思想を持って、『聖俗』の区別をすることの無意味さを説き、聖にあっても俗にあっても各々の人間が信仰心を持って、それぞれが果たすべき任務や職務を果たせばよいと説きました。
つまり、当時の硬直した宗教界では誰も口にすることが出来なかった、専門的に神への祈りや学問を行う『司祭階級や修道士階級』と世俗社会で働きながら生活する『民衆・俗人』との間に、優劣の価値判断をする事は間違っていると考えたのです。
聖なる信仰生活をしたければ教会や修道院に入ればよいし、俗なる日常生活をしたければ世俗にとどまればよいという、生活と職業の選択の自由につながっていく人生観と価値観を持っていたフランチェスコは宗教教団間の権力闘争や非難中傷にも興味がなく、ドミニコ修道会などからの非難中傷にも全く反論や批判をせず、ただ忠実に神の教えを守ればよいという姿勢でした。

当然、キリスト教一神教ですから、神は唯一無二の絶対的な存在でその面では譲歩や選択の余地はありませんが、聖職者の排他的な特権意識を放擲した聖フランチェスコの生き方と思想は、現代社会で生きる私達も陥りやすい慢心や特権意識を内省するきっかけとなり得るものでもあります。

*1:キリスト教を公認したコンスタンティヌスが、ローマ帝国の西半分(ヨーロッパ全土)をローマ法王に寄進し、その正統な所有権を証明するものとされた寄進状で4世紀に書かれたものとされたが、15世紀の古典研究者ロレンツォ・ヴァッラの言語規則や使用法の研究によって11世紀に偽造されたものと判明した。中世世界に絶大な権威を振るったキリスト教会は、土地所有権の公認を行える事で王や封建領主に対して優位な立場にあったとされる。