生命を存続させる巧妙な身体の仕組み:ホメオスタシス


ヨーロッパでは、ルネサンス期の神の支配からの離脱と科学的精神の高まりの中で、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452〜1519)の様に人体の解剖学的構造に興味を持つ進歩的な万能人が現れました。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、画家や彫刻といった芸術家として非常に著名で高い評価を得ていますが、土木工学や建築学、デザインといった工学技術者の一面、そして、物理学や解剖学、物理学、博物学的な植物研究といった自然科学者の一面も持っています。

レオナルド・ダ・ヴィンチルネサンスの歴史・人物については、また時間のある時に色々な考察を加えながら、感慨に耽りたい。
ダ・ヴィンチは確かに多才多芸な万能人なのですが、その広範な領域における才能は『普遍的な真理や美』の解明に向けられる手段に過ぎず、創作活動や芸術的表現もその解明の過程から産出された残滓でしかないのかもしれないと思う事があります。
ただ、私がダ・ヴィンチの絵画彫刻を個人的に美の解明過程の残滓だと解釈しても、高い水準の芸術作品の価値が落ちるわけではありませんし、ダ・ヴィンチが描き、彫塑し、思考した作品を制作するには情熱や意欲だけでは足りないでしょう。
生来的な創作の才能、天性のセンスや観察能力に助けられた部分も多分にあるのでしょうが、無限の探究心と好奇心を有形のものに変えていくアリストテレスを始祖とするような万能人的な生き方には、素朴な憧憬や羨望を感じます。

現代は、学問分野や趣味嗜好が細分化され、専門化されている為に、各分野の重箱の隅を突付くような機械的な専門家(スペシャリスト)は多くいても、全ての学問分野や思考領域をカバーする普遍性のある万能人(ゼネラリスト)は少なくなっています。


人間内部に広がるミクロコスモスへの興味関心は、キリスト教倫理による死体解剖の禁忌によって長らく抑圧されてきたが、ダ・ヴィンチの時代はちょうどその禁忌と解禁の端境期に当たるかもしれない。
人体の内部の複雑な構造と精密な機能と恐るべき構造と機能の連関は、当初、人間の科学的な理解を寄せ付けないほどの難関に思えたに違いない。
それ故に、西欧世界の人々は、人間をはじめとする全ての生物が全知全能なる神の完璧な計らいの元に創造されたとする“創造説”を長い年月の間、素朴に信じてきたのである。
いや、厳密には、未だ生命の無機物からの科学的合成には成功しておらず、地球外の生命は観察されていない、数十億年の過去の環境を正確に再現できないなどの事から、生命の偶然的な自然発生を否定する見解が絶対に間違いだと断定する事は出来ない。
しかし、神の存在も非存在も実証的に証明する事が出来ないので、科学的な仮説や思考においては神の存在を想定せずに、自然界の斉一性や論理の普遍性を前提として考える事になる。



『生物の目的は何か?』

この種の問いに、哲学的、倫理学的、神学的、宗教的に答えようとすれば相対的(あるいは自称絶対的)な『生きる意味』の解答が林立する事になるだろう。
人間の一見、複雑怪奇な解剖学的構造や動物の身体構造や行動様式は何の為にあるのかを科学的、生物学的に考えるならば、『個体の生存を維持するため』と『遺伝子を保存するため(個体の子孫を継続する事)』という明快な答えが出されるだろう。
私たちは死ぬのだから、死ぬ為に身体の構造や機能があるという逆説的な見方も、一面の真理は宿るかもしれないが、個体の死は種の環境への適応性を高めて種(遺伝子)の継続可能性を高める為に必要なプロセスであると考えられる。
いずれにしても、『結果としての死』を『目的としての死』に置き替える事で得られるものは少なく、死を目的とするならば初めから複雑精妙な身体構造や機能を作り出す必要はない。あるいは、種の保存を全く意図しないことが生物の常態であるならば、地球上に生物が満ち溢れている現状を説明できず、性的欲求や異性関係に支配されがちな人間の行動様式も説明できない事となる。

生きている生物の身体構造と機能は『生きる事を前提』として構築されていることは間違いない。
人間の身体の内部では、全体(中枢)と部分(末梢)の間において、多種多様な化学的・電気的な信号通信が行われ、物理的な運動が行われている。
身体の全体は完全と呼んでも良いほどの調和と均衡を保つシステムを神経系・内分泌系・循環器系・呼吸器系などによって実現しているのだ。ほんの僅かなバランスの乱れや不均衡が起これば、瞬時にその変化に対応することが出来る。

こういった身体の内部環境(組成・物理的状態・生化学的状態)を一定に保とうとする総合的な機能を『ホメオスタシス(ホメオステーシス:homeostasis)』と言うが、ホメオスタシス(生体恒常性)という概念を提唱したアメリカの生理学者ウォルター・B・キャノンが実に示唆深い面白い発言をしている。
それは、『個体が真に安定して生体恒常性を保てるのは、安定しているからではない。恒常性を支える安定性の必要条件は、逆説的だが不安定性なのだ』という概略の発言なのです。
つまり、時々刻々変化する外部環境に適応し、異変を再調整し、うまく生存を維持するよう順応していく為には、頑固で強靭な不変の安定性ではダメなのです。
物凄い速さで変化していく外部環境の状況に素早く適応する為には、不安定なほどに可変的であるほうが都合が良いし、最も効率的なパフォーマンスを発揮する事が出来るのです。

このホメオスタシスの話は、私たちの人生において時に苦悩の源泉となる理想主義や強迫的な完全主義への戒めのようにも聞こえます。
今現在の状態で、もう変化しようがない程度に完成し満たされている事は、逆説的ですが、不完全で危険な状態とも言えるのです。変化する可能性に開かれていない完全性は、不完全な老衰期に入ってしまっている事をも同時に意味します。
外界や他者はいつでも同じ状態に留まって、規則的な対応をし、決まりきった関係をもってくれるわけではありませんから、私たちが完全であろうとするならば、いつでも瞬時に状況や相手に対応順応できる柔軟さ、ある種のいい加減さや不完全さが要求されてきます。

心の病気である精神疾患の多くも、この『気持ちの柔軟さ』『人生に対するいい加減さ』『時間的心理的に余裕のある人生観』を失ってしまった時に発症してくることが多いのです。
生体の恒常性は、その殆どが不随意神経(自律神経系)や不随意筋に支配されていますので、私たちが何とか完全なバランスを取ってやろうと意気込まなくても、自然に無意識のうちに完全に計算され尽くしています。
心理的ストレスや生活のバランスの乱れから生じる自律神経失調症なども、自然なホメオスタシスの機能が意識的な完全主義や努力精進で阻害されている場合が往々にしてあります。
その場合には、薬物による治療も効果的ではありますが、基本は、人間の生来的な生体恒常性を回復するという視点を忘れずに、日々の生活を無理なくおおらかな柔軟性と自由さに富んだ気持ちで送ることが重要になってきます。
うつ病などの精神疾患では、脳神経系のホルモン分泌に異常が見られ、活動性や意欲関心、生存欲求に作用するセロトニンノルアドレナリンが不足していることなどが生理学的な視点から指摘されていますが、そういった生理学的異常の原因の一つとして病前性格としての生真面目さや責任感の強さ、完全癖が考えられます。
うつ病が先進的な産業文明社会に多く見られる病気である事も、心理的ストレスの増加に加えて、自然なホメオスタシスを障害する完全主義的な意気込みの強さと社会活動をミスせずに遂行する重圧の強さがあるのかもしれません。

少し、精神疾患ホメオスタシスの話に逸れましたが、人間の精神や心を理解する場合には多くの道筋があり、その複雑な分岐する道筋の中で最も確実な知に基づく道が、生物学的あるいは解剖学的な人間理解だと私は思います。

ホメオスタシスに代表される生命の恒常性、大脳新皮質の身体統御に代表される生命の統合性、そして身体構造には普遍性があるのに、私たち人間は無限の精神の多様性と魅力的な個性を持っています。
その余りに芸術的で精妙な配慮を感じさせる身体の構造と機能を基盤とすることで、今こうして思索し、思考や知識を文章化しているような私たちの精神活動が実現されている事を思う時、人間の尊厳というものが心身一体の一元論的な主体に宿るのではないかという思いにふと捉われます。

脳の構造そのものは、他の哺乳類とそれほど大きく異なるわけではないのに、あるいはチンパンジーの脳と人間の脳が単純な量的差異に留まるという見解もあるのに、やはり人間精神には動物と質的に異なる特殊性があるという幻想が私の脳裏に飛来します。
人間精神の特殊性が何処にあるのかと考えると、やはり第一に思い浮かぶのは言語でしょうか。その『言語に支えられる思考とコミュニケーション』を基盤として『倫理』『芸術』『技術』『学問』に象徴される知的倫理的諸活動に特殊性が感じられます。
また、言語によるコミュニケーションと思考や解釈に直結する部分では、私たちが物事や他の生物について、より高次のメタな次元から分析的に語る事が出来るという事も挙げられるかもしれません。

精神と身体の二元論の問題について、少しid:cosmo_sophy:20041205で触れましたが、解剖学的研究の成果から言える事として人間の特殊性は身体性よりも精神性にあるという事も言えそうです。
霊魂の存在を説く宗教的な教義を信じない限りは、精神は身体や脳の一次基盤がなければ、この世に存在しないものですが、『思い、考え、感じ、意欲する事柄を言葉にする精神』が人間の特殊性を際立たせています。