実存的な存在意義の苦悩に対処する三つのスタンス


『生物の目的は何か?』という問い掛けに、生物学的な回答を示すと『個体の生存維持』と『個体の遺伝子の保存』『結果としての種の保存』と言う事が出来るが、人間を他の動物とは次元の異なる高次の生物だと考えたい人たちにとっては『生物学的な回答』だけでは不十分なものに思えるに違いない。

『私たちはただ生きる為に生きるのではなく、性行為(セックス)をして自己の遺伝子を子孫に継承し、人類という種を保存する為にのみ生きているのではない』という主張は、『精神を持つ人間』『自尊心を持つ人間』にとって極めて自然な懐疑的内省である。
そして、この懐疑的な内省は、自己の存在意義の探究へと向けられる。
即ち、『私がこの世界に生まれてきたのは何故なのか?私が生きて存在している事に固有の意味はあるのか?私の価値はどのような客観的基準によって保証されているのか?』という懐疑は、宗教あるいは思想哲学への入口でもある。

こういった『人生の意味などという答えのない実存的な問い掛け』を考え続けるのは無意味だから、毎日の生活を楽観的に快楽的に楽しんでいこうとする考えを持っている功利主義者やプラグマティストであっても、真の意味でこの実存的な懐疑から逃げおおせることは恐らくできないのではないかと私は考える。

私たちは、毎日の日常生活で、ある行為を為す事を選択し、ある行為を為す事を断念している。私たちは幾つか可能性・選択肢の中から自らの価値基準や倫理規範に照応させて、ある可能性・選択肢を選び取るその瞬間に自由意志を行使している。
『私はどんな人生もどんな行為も選ばないという人間』はこの世界には存在しない、ただ布団の中で眠り込んで外界への関心を遮断しているひきこもりの様な状態であっても、ただ周囲の人が進学するから私も進学する事に何となく決めたという大学生であっても、ただ同僚が残業するからそれに合わせて残業しているというサラリーマンであっても、こんな仕事やってられるかと居酒屋で愚痴をこぼしながらも会社に通う青年であっても、自分が『他の選択肢よりも優れている、都合が良い、利益を得られる』という選択を為した結果としてその状態に自分を導いている。

『私がこの世界に生まれてきたのは何故なのか?』に絶対的で固定的な回答はおそらくない。
この種の人生の意味や価値を問う懐疑に対する姿勢に、私は3つの立場を前述した。
一つは『宗教』、一つは『思想哲学』、一つは『世俗的無関心』である。

人生の意味に対するそれぞれの立場の特徴を簡潔に述べれば、宗教は『懐疑を捨て、教義の説く普遍の真理(神)を信じる事=汝、疑うなかれ』であり、思想哲学は『固定観念を捨て、徹底的に懐疑する事=汝、安住する事なかれ』であり、世俗的無関心は『懐疑せず、信仰せず、私的生活に埋没する事=汝、思い悩むなかれ』である。
現代社会における実存的な苦悩の深淵はとても深く汲み尽くせないものであるが、現代人の多くは、物欲と性欲を資本主義的快楽装置によって加速する事で、世俗的無関心によって実存の絶望から救われている。
その為、誰もが歩むであろう人生の道筋を歩み、通常の日常生活のリズムを維持している限りは、私たちは『何故、私はこの世界に生まれてきたのか?』という無限ループを為す苦悩に対して無関心を貫く事が出来る。
例えば、今の季節であれば、日々の仕事に励みながらもうすぐクリスマスだから彼女と楽しいデートをする為に後少し頑張ろうとか家で待っている子ども達と一緒に祝うクリスマスを楽しみにしながら家事に精を出すだとかいった日常的な生活の喜びの中に実存的な苦悩を埋没させる事が出来るのである。

宗教というのは個人的な信仰者や瞑想者を除いて、基本的に同じ信仰や信念を持つ者と共に宗教コミュニティに属することが多いが、これも実存的な苦悩を癒す効果を期待してのものである。
孤独に一人である神や教義を信仰し続けることは、相当な精神力の強さと欲求不満への耐性がないと不可能な難事業であるが、同じ世界観を持つ仲間と一緒に信仰を持つ事は精神力の弱さを相互にカバーして、日々の友人関係以上の連帯感を宗教コミュニティから得られるという恩恵がある。
私は特定の宗教を信仰するつもりは毛頭ないが、新興宗教やカルト宗教と呼ばれる世間から危険視されあるいは白眼視される宗教コミュニティに入信していく人たちの心情や精神状態はある程度推察する事が出来る。

中には、自分が金銭を教団に寄進していることと宗教上の救済や恩恵が無関係である事を十分に承知していても、そのコミュニティに参加する事自体が楽しくて心が癒されるという人も多いのだ。
深遠な宗教教義を学んだり、尊敬できる教祖を信じて入信し、金銭を寄付しているのではなく、宗教コミュニティに帰属して精神的な連帯感を得る為に入信しているケースが多い。
宗教コミュニティに熱心に参加する人々の心の孤独や空虚は何も特別なものではなく、欲求充足の形式は異なれ、出会い系サイトで異性を求める人や恋人と別れて傷ついた心を抱えながら親密な関係を探す人と本質的に通底している。
即物的、肉体的な快楽を盲目的に求めている場合には、実存的な苦悩に対する世俗的無関心が前面に出ていると考えられる。

思想哲学というのは、本来的に孤独な思索の中で静謐な集中力を持って行われるもので、宗教や世俗的無関心の対極にあるスタンスかもしれない。
基本的に哲学は、他人と一緒に賑やかに明るく楽しく行う事は出来ない。
真剣な思考や論理的な考察を粘り強く続ける為には、一人で静かに考える場所と時間が必要で、過去の先賢の残したテキストを読解する場合にも他人とおしゃべりしながら気軽に読むということはなかなか出来ない。

現代社会において、世俗的無関心による功利的な生き方や宗教コミュニティへの参加による連帯に比べて思想哲学などが不人気なのは、基本的に他者とのふれあいや関係性によって孤独感から開放されたいと願い、即物的な快楽や感覚的な歓喜という分かりやすい形での幸福を相互承認する事で生きている実感を得たい人が多いからである。
孤独感や無力感に根ざす実存的な苦悩を、世俗的な娯楽や遊戯によって隠蔽したり、宗教的な信念や連帯によって解決したりするのはある意味で理にかなっているが、哲学的な孤独な思索や探求によって実存的な苦悩を克服するのは火に油を注ぐような危うさがある。
また、どれか一つを選び取る事なく、必要に応じて色々なスタンスを使い分ける折衷主義的な人生観を持つという方法もあり、多くの人はそうした綱渡り的なバランス感覚の中で日々の生活の中で生きる意味を具象化させていっているのかもしれません。


人間の精神の特殊性や崇高性についての理論に、古代ギリシアアリストテレスに端を発する『生気論』というものがあって、19世紀半ばまで生命力の源泉は物理的・化学的な要素に還元出来ないと考えられていて、それについて書こうと思いながら実存的な苦悩の話になってしまいました。