アリストテレスの生気論から機械論的自然観へ


『自然の全ての事物には、何か驚嘆すべきものがある。』

と、博物学的な自然観察の書『動物誌』でアリストテレスが述べた様に、私達人間は自然界特に人間の生命に対して物理的・化学的な考察では解明出来ない神秘的で深遠な何か、例えば、魂だとか霊性だとかが宿っていると考えやすい傾向を持つ。
その神秘的で崇高すべき何かは、多くの場合、精神だと考えられているが精神の起源が脳に関連するという科学的考察の結果以上の事は分かっていない。
ユダヤ教キリスト教イスラム教といった一神教は、私達人間を全知全能で完全無欠の創造者である神の被造物=作品と考えるが、それは科学的には検証する事が出来ない神話や説話物語の領域であり、旧約聖書を無条件に信仰する者にとっての真理に過ぎないと通常思われている。

迂遠な議論を避けて、論理的に考えれば、精神の起源には二通りの解釈しか成り立たない。
進化生物学が巧みに説明する様な自然選択と突然変異の結果の『自然発生的な起源』*1か神の様な超越者の『作為による起源』かである。

人間の知識や認識の歴史を遡れば、宗教的な教義や神話的な物語が説明する『精神』が科学的な理論や生化学的な機序や神経科学的なシステムが説明するようになった。
科学的な観察や実験によって確認する事が出来ず、物理的・化学的に還元する事も出来ない生物だけが持っている神秘的な仮説的エネルギーを生気と呼び、生気によって生物や生命活動を説明しようとする理論を『生気論』と呼ぶが、19世紀初頭〜半ばまでは科学者や有識者の多くがアリストテレスを起源とするこの生気の存在を信じ、生気論を支持していた。
アリストテレスは、無機物から生命が誕生するとする生命の自然発生説を提唱したが、その自然発生説の基底には生気論があり、生命の胚種に生気が宿る事で生命を有する生物が誕生すると説明した。現在では、完全な誤りであるが、アリストテレスは、エビやウナギが水中の泥から自然に誕生し、昆虫やダニなどは土や泥、露や汗などから自然発生すると考えていた。

生物の特徴や構造が科学的に明らかになるにつれて、生気論はその説得力を失って衰退していくが、現代においても生命には非生命である物質とは異なる特殊なエネルギーを持っていると考える人たちは数多く存在しているし、私達も生命を非生命よりも高い地位に置き、生命には特殊な尊厳や力があるように考えやすいのは確かではないだろうか。

科学的領域において、生気論者に対して勢力を増してきたのは機械的自然観を有する機械論者とでも呼ぶべき科学者たちで、生命現象の全ては物理的・化学的に解明できるし、精神でさえも脳内のニューロンのような物質に還元出来るとする人たちである。
しかし、生気論そのものが元々、神や霊魂と同じように科学的研究の対象には成り得ない観察不可能な目に見えない不可思議で未解明のエネルギーである事から、厳密には生気論を反駁する事は出来ない。生気論という生命に特殊なエネルギーが流れているという理論は、最早、信仰対象のように信じるか信じないかといった区別にしかならないということであろう。

機械論的な生命観は確かに数多くの証拠に支えられる強固な視点であるが、人間の生命が生物学的な細胞や組織という部品部分の総体そのものではなく、人間や生物の生命は部分の総体以上の存在である事もまた事実である。死んだ身体に幾ら完全に部品が揃っていても、その身体に生命を取り戻す事は出来ないし、部品を人工的に製造して組み合わせてもおそらく生命は誕生しないし、更に高次な精神を再生し復元する事などは未来永劫不可能ではないかと思える。

生命の3条件とは『外界と自己を区別する膜(境界)』『自己複製能力(子孫を残す繁殖)』『物質代謝(外界から物質を取り入れて、生化学反応によってエネルギーや栄養を取り入れ排出する)』とされ、この3つの特徴が非生命と生命を分ける基準でもある。
人間の物質代謝は、循環器系の心臓の拍動、呼吸器系の肺胞によるガス交換や消化器系の消化・吸収・排泄によって支えられている。
多細胞生物は、生命を支える血液の循環によって身体の個々の細胞に酸素、栄養、必須化学物質などを送り、細胞の代謝活動によって産生する老廃物や有毒物を排出する。

繁殖能力・自己複製能力は、私達個人・個体の生存維持には必ずしも必要なものではないが、生命を遺伝子情報に載せて永続的に継承する為には重要な生物の能力である。リチャード・ドーキンス利己的な遺伝子ではないが、生命個体の目的は究極的には自己の遺伝子を次代に継承して延々と複製を作り続ける事とも言えるであろう。

個体の生命の保存と種の遺伝子の保存は、同じ次元では語れないが、人間という種が他の動物とは異なる特異性として挙げられるのは、個体の生命の保存だけではなく個体の人生の意義の充実を求め、時には種の遺伝子の保存(子孫を残す事)に無関心にもなれるという点である。
少子高齢化問題や非婚晩婚化、セックスレス、避妊行動といった事象も、自己の遺伝子を継承する事を最優先する他の動植物とは異なり、個人の幸福や利益を子孫継続以上に重視する場合のある人間の特異性に基づく事象なのかもしれない。

いずれにしても、生命の様に深遠で複雑なメカニズムを機械論的自然観・生命観に基づく冷静沈着なメスだけで分析する事は至難である。
生物学的な個々の機能を無意識的に統合しているメカニズムを解剖学や生理学で考察することは出来るが、精神による有機的な全体的統合を単なる細胞分子の相互作用だけで説明するのは考察手法が適当ではないように感じる。

有機的な総合的存在である人間を、唯物論的な思想に基づいて、機械的に部分の構造や機能の総体として認識するだけで十分なのかという問いが湧き起こることがよくあるが、過去に偉大な業績を残した多くの科学者もそれと似た疑問、唯物論的な自然認識に対する違和感が生じる事はあったようだ。
何故、世界が人間が法則的に論理的に理解できるような秩序正しい形をもって現前しているのかという疑問は、アインシュタインも抱いていたと言う事を何処かで目にした事があるが、その謎に科学的手法によって答える事は原理的に出来ない。
脳内のニューロン・ネットワークの回路の構造と機能が全て明らかになっても人間の精神の全てが明らかになる事はないし、『私という自我意識』が何故、私の脳だけに宿るかといった私秘性も説明することは出来ないだろう。生体ホルモンといった化学的伝達物質を研究することで、生理機能としての変化や反応は明らかに出来るだろうが、精神の内容や意識の働きの全てを化学的に分析することなどは到底出来ない。

人間存在は、部分の集合以上の存在であるという信念は、精神の物質への非還元性によって支えられている。
精神の特殊性に思いを寄せる時は、『自然の全ての事物には、何か驚嘆すべきものがある。』というアリストテレスの言葉が胸に染み入る瞬間でもある。

*1:無機物から有機物の生命が誕生するとするアリストテレスの『生命の自然発生説』は、フランチェスコ・レディの魚の死体を用いた対照実験や1861年微生物学の権威ルイ・パスツールが出した『自然発生説の検討』によって否定された。