人間は無益な受難であり、自由の刑に処せられた罪人に過ぎないのか?


id:KENTAROさんからトラックバックを頂き、緩慢な睡魔と共に生きる意味について思いを馳せながら、簡単に内容を敷衍してみます。

『絶対的な意味はない』というKENTAROさんの言葉が印象に残りましたが、サルトルなんかが言う様に『人間は無益な受難』に過ぎないのかもしれません。
人間は我という自我意識において、世界と自らを分別し、反省的思考において過去を超克しようとし、未来における自己像に向かって自由意志を持って可能性を投企する存在です。
サルトルはこういった未来への可能性の投げ掛け(投企)を、所詮は無意味で骨折り損だ、徒労に過ぎないと苦しげに吐露した。
それは、ニーチェの『神の死』を宣告された脆弱なる無神論者の苦悩であり無力感の吐露であるが、サルトルが結果として与えた答えは、本来的に無意味で虚無な人間存在(実存)を直視し、それでもなお運命の荒波に、時代の奔流に、我が身の可能性を投げ込み、世界に意味を付与する儚き“あがき”をせよという事であった。
サルトル実存主義の端的な描写に『人間は自由の刑に処せられている』という言葉があるが、自由の刑に処せられている事態そのものから私達は逃れられない、その自由を如何に利用して生の充実を志向していくのか、私が私である為に世界に歴史にどのような形で参加(アンガージュマン)していくのか・・・。

最後に有限なる人間が死ぬ事が分かっていようとも、あらゆる行為がメタ的次元で無意味であろうとも、そんな有限や虚無に飲み込まれ、自由を刑罰として受難するだけでよいのか。
虚無に打ちひしがれて眠り込んだまま死ぬのも人生、自らの生命を自らの手で途絶させるのも同じ人生、あらゆる他者の努力や行為を嘲り冷笑しながらシニカルに生きるのもまた人生である。

しかし、私達の生を鮮やかに彩る知識・快楽・関係性を味わう為に、それらを超越した至上の歓喜を享受する為に、全身全霊の力を振り絞って駆け抜ける生を志向する事は、本当に空虚で短絡的な死の決断と同義な事なのであろうか?
あるいは、真の理想とすべき自己を実現して甘露なる美酒に酔いしれる生き方を様々な未来の可能性に投げ掛けてみる事もまた興趣ある有意義な人生ではないだろうか。
人生を高尚なもの、低劣なものに分類し、真に高尚なものが無いと嘆いてばかりいるのも愚かであるし、人間性を高貴なもの、貴賎なものに分別して、真に高貴な人間がいないと世間を嘲笑しているのも卑しき事である、高尚なものがなければ自らが制作すべきであろうし、下賎なものしかいないのであれば自らが率先して高貴なものとなるように精進すべきであろう。

サルトルは、対自(自我意識)と即自(非自己)との哲学的思考を通して、私が思う『真実の私』と合一すること、その地点に到達することは不可能であると結論したが、私はサルトルの思考の短絡は、真実の私と合一する結果の地点に問題意識を置いた事であると思う。
真実の自己や理想の自己は、いつも現在の自我意識から幾分か先行し永遠に追いつけないし、『感情を抱いている自己』と『感情を抱いている自己を客観的に傍観している自己』との乖離といった『意識と自己存在の不一致』は絶えずあるが、それでも、なお真実の自己を志向し、思考や感情と合一しようと意識する『過程』において『意味を求める自己の生』を実感できるのではないだろうか。

この地上に唯一の『私』という固有存在の意識として誕生し、現在という唯一の時点と地点に位置して試行錯誤し、沈思黙考し、他者と語らい、働き、学び、遊ぶ。
この奇跡的な比類なき私の存在に驚愕する所から悠久なる歴史のほんの片隅に自分と自分の親愛なる者たちの生の証を自己満足でもよいから刻印しようではないか。
ただ、一つ確実なことは、『私』が死ねば、この宇宙が滅ぶまで『私』という意識の所有者は二度と現れないという人生の唯一性、一回性である。
仏法の説く輪廻転生が事実であったとしても、私達は生まれ変わった後に前世の意識を保有しておらず、基本的に前世からは切り離された現世限り、一代限りの有限の私である。
最終的な『帰結における徒労や挫折』を見るのではなく、過程における唯一無二の『私』の懸命な生き様を壮大な歴史の一部を埋めるものとして眺めてみよう。
空虚なる生の苦悩に沈みながらも、意味の断片を模索するその“無為なるあがき”の真摯さに、『帰結としての徒労や挫折』を受け入れて余りある生の充実を見る事も可能ではないかと思う。


私は、こういった『人生の一回性(唯一無二の生しか生きられない事)』と『知と関係の快楽』あたりに虚無の克服の契機が宿るのかもしれないとふと物思いに耽ったりもします。

自殺の禁忌は、家族・恋人・友人知人など関係性の快楽を欠損させ、相互信頼と協働による社会基盤を揺るがすからですし、その意味では他者と切り離された個に閉じた『私』にとって自殺はタブーでも悪でもないと思います。
しかし、アリストテレスが言う様に人間は社会的な動物ですから、他者との相互的関係なくして生存する事は事実上不可能です。無人島で自給自足の生活を営んでいるような関係性皆無の状態であれば、自殺に道徳的な悪性は存在しないと感じますが、少なくとも日本社会に生きる個人の自殺が、あらゆる関係性の網の目を潜り抜けて『モノ的な死』になることは難しいと思います。

反対に言えば、幾ら既存の価値・道徳の枠組みを無視して、好き勝手に自由気ままに生きてやるぞと意気込んでみても、私達は社会的な枠組みや他者との関係性の網から抜け出ることは不可能です。
自己満足的な欲求充足にしても、そこには金銭が絡んでいたり、異性が絡んでいたり、商品やサービスが絡んで居たりします。
そして、金銭に相対化される価値のネットワークに自発的に参加しなければ、私達は殆どの娯楽や快楽、対人関係への道を閉ざされます。
そこには、最低限でも食物を得て生存を維持し、雨風を凌げる住居を維持する金銭を獲得しなければならないという意味と自由な選択肢を確保する為の金銭の獲得の意味がありますが、いずれにしても自由な思索やネットでの表現活動をするに当たっても、思索の糧を得る読書の為の本やパソコンやISP費用などが必要ですね。

知識にしても、愛情にしても、金銭にしても、信頼にしても『他者との交換のネットワーク』に参加する事で得られるもので、これらは生きる意味の一翼を担うもの、あるいは生きる価値の構成要素と成りうるものだと考えられます。
『私達の人生は、私達個人の生命の範疇に閉じていない』事の自覚、即ち独我論的な世界からの断絶の跳躍の可能性を反省的に信じる事が、虚無的絶望の闇に細々と差し込む曙光なのかもしれない。


最後に、確かに万人にとって普遍的な意味というのは、物語性を喪失した個人主義を基盤とする現代社会においては見出せないであろうと思います。
信念や信仰と言った個別の価値観を思念的に格上げする形になるか、同じ価値体系を共有する共同体の成員同士で確認し合える共通価値などの次元に落ち着くかといったところでしょうか。

今日はまとまりなく様々な事柄を散文的に述べましたが、また、時間の許す時には、自由なる思念の遊戯である哲学を繰り広げながら、実存的な生のあり方を反省的に振り返りたいと思います。

サルトルニーチェハイデガーといった歴史に名を刻んだ実存主義に分類される先人の哲学は、誰もが人生に幾度かは抱くに違いないであろう『生きる意味の不在と探求』に焦点があっているので興味を抱きやすい。
彼らが苦悩した問題に近縁する明確な問題意識を抱えていれば、難解な用語の意味内容の障害があるとはいえ、その思索の内容に入り込みやすい哲学者たちであり、さらには、文学的あるいは詩的な誘引力も兼ね備えていて、読む者をある種の陶酔や思い悩む酩酊に追いやる媚薬のような力を持っていますね。