切り離す事の出来ない『脳・身体・環境・他者』の連動が創出する幸福をアフォードする。


今日は、id:KENTAROさんの所で、『人間の脳と幸福を生み出す装置』に関する興味深い議論が行われていたので、そこにコメントした内容を一部加筆して掲載します。
id:Lainさんの意見なども色々と示唆されるものがありますので、関心のある方は、読んでみられると良いと思います。




全体を通して読ませて頂いた感想として、『人間の幸福=物理的な快楽』ではない所に、『幸せを産む装置のアポリア(行き詰まり)』があると思います。
以下の文章は、KENTAROさんの問題意識『何故、人間は幸福を目的とするのに、科学技術の最終目標にしないのか?』という哲学的な論点から少し離れて、脳科学的な技術論や意識論になりますが、参考になればと思い私見を述べてみます。

まず、脳神経科学の知見から、『幸せを産む装置』の成立不可能性について考えてみますと、『脳単独では世界を認識できない為に、幸福と不幸を識別する自我が確立されない』という問題が立ち上がってくると思います。

『幸せを産む装置』は、現在の科学の成果から考えると、『脳の電気的・化学的な情報伝達過程を、直接的に制御する装置』という事になるでしょうが、持続的に多幸感や爽快感を感じるエンドルフィンやドーパミンを脳の知覚や情動の領野に流し込んだとしても、脳の神経細胞ニューロンは同じ情報伝達刺激を受け続ける事で感度を鈍化させ疲労してきます。
その結果、単純な快楽性の化学物質や電気刺激は、ありふれた日常の知覚・情動刺激として処理され、『幸福感の喪失』へとつながっていくでしょう。

幸福感を喪失せずに永続的に死を迎えるまで心地良い感覚を感じ続ける事は、脳の物理的機能的構造上、不可能だと考えられますが、唯一の可能性としては、『複雑で多様な情報伝達刺激』を『快楽性の刺激を一時的に停止』してランダムに送り込む方法が考えられますが、『現実世界で生きる事をやめて』という前提がある場合、複雑で多様な情報伝達を行う為の『材料』がありませんから難しくなります。
総論としては、『不幸がなければ幸福も存在しない。不自由がなければ自由も存在しない』という俗説は、脳科学的にも正しいと言わざるを得ません。

また、『幸せを産む装置への依存度』を考えると、自分の感覚器官による知覚能力・身体性・運動性を排除した『装置への完全依存』の場合には、『現実世界・物理的環境の喪失』を意味しますから、『幸せを産む装置を脳に接続する以前の生活環境や学習行動から得た記憶』に全ての快楽体験を依存することになり、多様性ある情報伝達刺激の不足により欲求不満になる可能性が高いですね。
また、人間は完全に身体感覚や知覚機能を遮断されると、感覚遮断実験で実証されているように、『途轍もない恐怖感や不快感と共に、精神病症状である知覚機能障害(幻覚・妄想)に絶えず苦しめられる』事になります。

脳(心)は環境から孤立しては機能する事が出来ないので、『現実世界で生きる事を捨てて、装置につながれっぱなしになる』と最終的には発狂して精神荒廃に陥り、自我意識そのものが解体して植物状態に近い無気力な状態になるのではないかと思います。
実に皮肉な事ですが、『不幸の原因となる現実の社会環境こそが、幸福の原資としての多様性と複雑性に満ちた情報を用意してくれる』という事になります。
環境と切り離された脳は、どのような方法を用いても、『私』という自意識を保持し続ける事が恐らくできないでしょう。

快楽・不快を物理的に感じる脳だけでは、人間としての幸福・不幸を実現する事が出来ない、即ち、『物理的な快楽』と『人間的な幸福』の間にはどうしても越えられない深淵な谷間が口を開けています。
感覚器官からの知覚刺激は、脳に電流を流す事で再現できますが、知覚内容を選択したり表現することは不可能です。

『脳・環境・身体』は、相互的な依存関係にあり、どれ一つが欠けても、人間的な幸福を享受する事は不可能になります。そのため、唯脳論的な科学操作による幸福追求の人類の希望は木っ端微塵に破砕されてしまうと結論づけざるを得ないのではないかと私は考えています。
快楽を越えた幸福を感じる為には、最低限の必要条件として、『自分の身体から情報を獲得して、物理的な生活環境を生きなければならない』という事になりますし、J・J・ギブソンアフォーダンス理論にあるように、私たちは生活環境から身体感覚を通して意味や価値を発見し、可能性を広げます。

私たちは、社会環境や自然環境といった環境世界に生きる事を苦しくて面倒だ、手っ取り早く幸せを手に入れたいと考えがちですが、全ての幸福につながる価値基準は、意味の充満する環境世界からアフォード(可能化・発見)するしかないのです。

幸福という概念は、抽象的で確定的な快楽の感覚刺激に収斂する概念ではなく、行動可能性や価値に繋がる『意味』が充満している生活環境からアフォード(発見・可能化)する事によって自己創出していく総合的な価値の具現化ではないでしょうか。

私個人の意見ですが、私は『結果としての幸福』には余り魅力を感じません、そこには『幸福の具体的な内容=環境世界からアフォードされる意味』がない空疎な幸福の容器に過ぎないからです。
私は、幸福の容器ではなく、具体的な生活経験の中から深く実感できる幸福の内容に価値を見出しますし、『幸福追求の過程』にこそ、多種多様な快楽や歓喜や充実があるのではないかと思います。

『心(脳)と身体と他者と環境の相互的な連動』こそが、『私』という意識出現と意識保持の必要条件であり、幸福を追求しているという言葉と実際に幸福を感じている情況との乖離にも目を向ける必要があると思います。

世界中の書物に記されている知識を脳にダウンロードし、世界で起こる日々の出来事を間断なく脳にアップロードする『全知全能の結果』よりも、自分の興味を抱いた書物やニュースを自分のペースで深く読み込む『読書の過程』のほうに幸福感や充実感を感じるし、世界で最も美しい理想的な異性との快楽的な関係のデータを脳に伝送されるより、自分が生活世界で見つけた好きな異性と対話したり愛し合ったりするほうが魅力的ですからね。

人間の果てしなき幸福追求の終局に、エリザベス・キューブラー・ロスが人生の最終段階の課題として提示した『自己の人生の肯定と死の運命の受容』があるのかなと考えたりもします。
唯一、一度限りの人生の最後に、自らの運命と人生を愛し抜く事が出来るのか、ニーチェの超人思想を偲ばせるような大きな人間の意識が抱える難題ではありますね。