チューリング・テストによる人間と機械の識別


人間の意識と機械の機能の差異は、質的なものか、量的なものか。
多くの人間は、『人間と機械の差異は質的なものであるから、絶対に機械が人間と同質の意識を持つ事は有り得ない』と信じている。
私もどちらかと言えば、『人間の意識と機械の機能の質的差異』を信じている側の人間であるが、『言語化される意識の知能的側面』に限定していえば、『人間の意識が文字で表現する内容』と『機械のプログラムが文字で表現する内容』を厳密に区分するのは難しいと考えてもいる。

人工知能の実験で、ある機械に本当に知能が備わっているのかどうかを判定する有名な実験に『チューリング・テスト』というものがある。
イギリスの数学者・コンピューター科学者であるアラン・チューリング*1によって、1950年に提唱された実験で、行動主義という心理学的立場にたって、機械の知能の有無を判定しようとしました。
つまり、自然科学者らしくチューリングは、目で実際に見て観察できない『内的意識や内的思考過程』を省略した形で、目で観察できる事象(文字情報)に限定して機械に知能があるように見えるかどうかを実験で検証しようとしたのです。

これは、哲学的な内省・内観という方法によって意識の内容や構造を探求してきた伝統的な方法とは異なるもので、『心理学は、行動の予測と制御の科学である』と宣言して心理学の自然科学化を志向したワトソン*2やスキナー*3らの行動科学の意識観に通底するものです。

アラン・チューリングは、行動科学的な知能の認識にたって、機械の持つ人工知能を考え、客観的に観察可能な知的な振る舞いとしての文字情報に限定して、チューリング・テストを行おうとした。
機械装置全体の姿が、人間の姿に似ていようがいまいがそれは本質的な問題ではない。音声で知的な発言をしても、文字で知的な発言をしても知能の有無には関係ないし、エネルギー源を食事に依拠していようが、コンセントから流れる電流という電力に依存していようが拘る必要はないというのがチューリング・テストにおける知能と意識の認識である。
意識というと私などはすぐに内的な自意識や感情を想起してしまうのだが、今から論じるチューリング・テストで検証する知能は意識とほぼ同一のものとして考えられているといってもよい。そこには異論があって当然だが、行動科学的な心理観とはそういった観察可能なものしか対象にしないという前提を踏まえて考えていきたい。

チューリング・テストは、人間の知能が生み出す文字情報と機械の知能(機能)が生み出す文字情報とを識別判定する実験である。
知能の有無を判定したい機械と機械との比較対照をする人間を、判定者と別の部屋に入れて、判定者の側からその容姿や形態が見えないようにして、声や音も聞こえないようにする。
二つの部屋の間に、テレタイプ用の回線を設置して、判定者は、別の部屋に居る人間と機械を相手にして自由に文字で質問したり対話をしながら意思疎通を図る。
判定者が相手から得られる情報は文字情報に限定される為、表情や動作や振る舞いや音声の調子といった非言語的(ノン・バーバル)なコミュニケーション情報を相手から入手することは出来ない。

これは、現代のインターネットが普及した情況で考えれば、文字で会話するチャットやMSNメッセンジャーなどと同一のコミュニケーション形態である。
チューリング・テストの実際の実験方法を説明するのは、アラン・チューリングが生きた時代よりも現代のほうが相当に容易である。
つまり、チャットをしている相手が機械的なプログラミングされた人工知能ではなく、本物の人間であることを識別できるかどうかというのがチューリング・テストなのである。


チューリング・テストにおいては、判定者は、機械が人間と同じ水準の知的能力をもっていない事を証明する為に、広範な分野における多種多様な質問を投げ掛ける。
テレタイプ回線を通して文字情報で返事を返してくる相手に対して、数多くの質問をすることによって、色々な分野における基本的な知識の有無、質問に対する文章の内容による感情・気質、政治経済に関する見解、倫理道徳に対する態度などを判定者は探ろうとする。
アラン・チューリングが、この実験によって、機械を人間から識別できなければ機械に知能があると判断できると考えたが、その背景には、人間の意識や知性を言語に還元できるとする理性万能主義が窺い知れる。

このチューリング・テストを継承して簡略化した実験を行うレブナー賞人工知能競技会が、マサチューセッツケンブリッジ行動研究センターによって毎年開催されている。
レブナー賞では、参加者がそれぞれ人間の知的能力を模倣して作成したプログラミングを持ち寄って、どの機械(プログラム)が、最も良く判定者の目を欺くことができるか、判定者に自らを人間であることを信じさせられるかを競う。
実際の人間の知能と比較対照する為に、数人の人間も同時に参加するが、人間のほうは、自分を機会であるかのように見せかけてはならないというルールがある。つまり、意図的に、質問の内容と全く無関係な語句をキーボードで打ち込んだり、簡単な質問に長時間答えなかったり、相手の質問に無視したりすることは禁じられており、対照群としての人間は、出来るだけ自分が人間であることを判定者に証明する形で、高度な人間としての知能を示し、聡明な発言を心掛けなければならない。

しかし、レブナー賞は、厳密なチューリング・テストではなく、ある分野やトピックに限定された知能の有無を検証しようとするものであり、その知能は存在が実証されたとしても、人間の広範囲にわたる知的能力には遠く及ばないものであることも述べておかなければならない。
レブナー賞では、事前に決められた話題に限定してプログラムが組まれ、人間側もその話題に関する情報を集めて実験に臨む事になる。機械の側も人間の側も、何が実験において話題にされるかを事前に知っていて、判定者はその話題と無関係のテーマや話題を投げ掛ける事は禁止されている。

リベラリズムの政治思想に対する見解』、『理想的な友人関係』、『安楽死問題』、『女性差別問題』、『車社会の功罪』など様々な分野の話題が割り当てられるが、それが事前に分かっていて、その話題だけに終始すればよいという意味で、極めて限定的で不完全な知能ではあるが、ある議題を与えられて対話する場合に人間と機械を見分けられるかという疑問に答えるものとは言えるだろう。

機械を人間だと信じ込ませる為に、そのプログラム作成者が取る戦略は様々なものがあるが、古典的な正攻法としては『人間以上の膨大なデータベースから適切な情報を選択して組み合わせる』という方法があり、その他には『思考、選択、躊躇、迷いといった心的過程を再現する為に、質問に対して一定の時間感覚を置いて短文で小出しに答える』という方法や『質問内容と類似の内容をオウム返しのように繰り返して聞き返す』という精神科医プログラムと呼ばれる事もある確認や反復を主軸に据える方法がある。

しかし、幅広い教養を持ち、コンピューター科学にも精通しているような科学者や科学ジャーナリストが判定者に立った場合には、簡略化されたチューリング・テストで、プログラムされた機械を人間であると信じ込ませる事は、現段階では難しいという結論が出ている。
“現段階では”難しいが、言語に還元される知能(意識)のみに注目するチューリング・テストという知能検出の実験方法を採用するならば、未来における何処かの時点で、全ての人間に対して機械を人間だと信じ込ませる事の出来るプログラミングを作成することは原理的には可能なはずである。

そうであっても、機械は、飽くまで行動主義が規定する『結果(行動・反応)としての言語活動』しか行っておらず、言語の意味を理解した上で会話や議論をする事は出来ないという言語哲学者・ジョン・サールが『中国語の部屋*4で提示した反論もまた成り立つのではないかと思う。

レブナー賞では、機械を人間と誤って判断することはまずないが、人間を機械と取り違えてしまう間違いは比較的よく起こる。時には、機械よりも文字から窺い知れる人間らしい知能において劣っていると判定されてしまうこともあるようだが、これは私たち人間が落胆したり悲観したりする結果ではなく、判定者がコンピューターに対して持つある種の固定観念、典型像に基づく誤謬である。
それは、コンピューターの明晰な論理性、画一的な短い返答、単純な文章を打ち込む傾向のある人間が機械と誤認されやすい傾向があるという事を意味している。
しかし、総合的に見て現段階の機械の知能は、極々限られた分野の話題に対してさえも機械であると見破られないように文字情報を紡ぎ出すことが難しい。人間の質問や意見に対して、違和感やズレのない回答や情況に適した感情の籠った対応を出す事は予想以上に難しく、百科事典的な膨大なデータベースの蓄積や幾つかのプロトタイプ的な回答例の組み合わせだけではなかなか再現できないものである。

いずれにしても、チューリング・テストは、人間の知能・意識を言語機能のみに限定する言語中心主義に偏向している為、本当の知能や意識をそうでないものから識別する為のテストとして万全ではないし欠点や欠陥も数多い。
人間以外の高等類人猿なども人間の幼児に近い知能を有しているが、言語能力を持たない為にチューリング・テストでは無機物と同等の評価しか得る事が出来ない。
精神的ストレスやトラウマなど心因性失語症患者は、正常な知覚・認知・思考・情緒・創造・記憶能力を持っている人間であるが、チューリング・テストでは機械プログラミング以下の存在になってしまう。しかし、失語症の人に知的障害や認知障害があると考える医師も一般人もまずいないし、実際、失語症の人は筆談やジェスチャー、表情によって豊かなコミュニケーションが出来る。

また、最大の問題は、知能テストにおける知能の定義が十全でないように、『知能とは何か?』という問いに対する誰もが納得するコンセンサスが成り立つ定義が提示されていないところにあると考えられる。
チンパンジーボノボやゴリラや犬や猫やイルカやクジラなどの高等哺乳類に、人間の持つ言語的知能とは異なる種類と性質の知能が備わっていることは、多くの人が認めるところであろうが、そういった広範囲の生物全般に適用できる知能の定義や解明はまだ端緒についたばかりというのが実情であろう。

真正の知能理論に基づいた厳密な検証方法が開発された時に、私たちはまたより一層高次な機械の人工知能の可能性の問題に取り組めるようになるのではないかと考えます。
真正の知能に共通する特徴・性質・行動・能力・メカニズムなどを解明するような科学的理論の登場に大きく貢献するのは、おそらく脳神経科学であり、認知心理学的アプローチがそれを補助するのではないでしょうか。

チューリング・テストが不完全なものであったとしても、アラン・チューリングの生きた脳科学等の研究業績の乏しかった時代背景を考えれば、やはり画期的な検証方法の提起であったと思います。
知能の要素である学習行動や知覚的認識を、生物の脳の内部の運動学的、動力学的な観察によって確認することが可能になっている現代では、アラン・チューリングの生きた神経学的な微細な内容を観察できなかった時代よりももっと厳密で生物全般に汎用性のある理論や実験法が求められているという事になります。

強硬な神経生物学者であれば、生物学的、神経化学的な脳のネットワークの構造は途轍もなく複雑ではあるが、電子工学的な機械によって絶対に再現できないわけではない*5と考えるでしょうが、意味を理解する主体、幸福を実感する主体が人工的な電子ネットワークである機械にどのような形で付与することが出来るのかが最大の難関であり、内面的な意識を切り捨てる行動科学的な心理観で乗り越えるしか手段はないようにも思えます。

*1:Alan Turing(1912-1954):天才的な数学者であり、現代につながるコンピュータサイエンスの基礎理論を整備し、第二次世界大戦下では暗号解読者として活躍して、ナチスドイツのエニグマの暗号を破った事でも知られる。チューリングは最期に、謎の自殺を遂げてその人生に幕を下ろした。

*2:J.B.Watson(1878-1958):アメリカの行動主義心理学者。客観的に観察できない内的意識や無意識の概念を徹底的に排除し、心理学が対象とすべきは観察可能な行動だと説いた。また、ラディカルな環境決定主義を採用し、人間の性格や能力は、先天的な遺伝ではなく全て後天的な環境によって形成され規定されると考えた。彼は、『私に生後間もない赤ん坊を与えてくれれば、成育環境を完全に調整することによって、政治家・芸術家・科学者・教育者・肉体労働者・犯罪者・・・子ども達を予測した通りにどんな職業にでも就かせてみせよう。』と豪語して、極端な環境主義を主張したと伝えられている。当然、人格・才能の環境決定論は間違っているが、当時としては客観的科学を目指す斬新な学説ではあったのだろう。行動主義心理学の理論的基盤には、ロシアのパヴロフの『パヴロフの犬』によるレスポンデント条件付けやオーストリアのソーンダイクの猫を用いた試行錯誤学習実験によるオペラント条件付けがあり、S(stimulus:刺激)-R(response;反応)結合によって全ての行動を説明したいという思惑があった。

*3:B.F.Skiner(1904-1990):新行動主義を代表する心理学者。ワトソンの実証主義的な心理学を、更に一歩推し進めて関数表記に基づく操作主義の考え方を心理学に持ち込み、思弁的な意識や抽象的な概念など観察不可能な要素を心理学から排除しようと考えた。スキナーが、最終的な理想としたのは、『S−R結合の関係を数学的な関数として分析し把握することで、人間の行動を事前に予測して制御する』というものであり、オペラント条件付けの技法によって望ましい行動の結果を確実に導く事が出来るとした。スキナーのネズミを用いた実験装置として有名なものに、『スキナー・ボックス(スキナー箱)がある。スキナー・ボックスは、ネズミがスイッチを押すという反応をすると餌が貰える仕組みになっていて、複数回の試行錯誤行動によってネズミは自発的にスイッチを押して餌を貰う行動を学習することが出来る。これは、オペラント(道具的)条件付けの典型的な実験であり、学習行動のメカニズムを研究する学習心理学に大きな貢献をした。ある行動の頻度を増加させる為に与える刺激を『強化』と呼ぶが、餌や金銭などその人が快を感じる刺激を『正の強化』と呼び、電気刺激や罰則などその人が不快を感じる刺激を『負の強化』と呼ぶ。簡単に言えば、オペラント条件付けによる行動制御とは、昔の人々が経験的に知っていた『アメとムチの論理』を精緻化したものと考えれば分かりやすい。環境からの刺激に対する生理的・反射的な行動が『レスポンデント』であり、環境に対する学習された自発的な行動が『オペラント』である。

*4:ジョン・サールは、チューリング・テストによっては、知能の有無を検証する事は出来ないとして『中国語の部屋』の例示を出した。中国語を理解できない英語話者に中国語の質問に対する回答の全てのパターンを網羅した回答表を持たせて、密室の中に入れ、密室の外から中国語の質問の書かれたカードを提示する。密室の中にいる英語話者は、中国語を理解してはいないが、回答表と照らし合わせて、機械的な選択により正しい回答を部屋の外の人物にカード(文字)で示す事が出来る。密室の中には、物事の意味を理解する知能の所有者は存在せず、機械的な単語の変換手続き(変換システム)が存在するだけであり、密室から出力されるカード(プログラムが出力する文字情報)を理解しているのは、それを見ている密室の外部の人間(判定者)だけである。サールの『中国語の部屋』に対する反論として、脳内に意味を理解するホムンクルスがいないように、部屋の内部に意味を理解する知能所有者がいなくても、知能は成立するのではないかという見解もある。

*5:人間の目の網膜を構成する多層ニューラルネットワークは、静止物を知覚できないという不完全なものではありますが、シリコンチップに微小な集積回路を刻み付ける方法で、電子的類似物としての人工網膜が制作されています。