QOL概念が近代西洋医学に与えた影響とルネサンスの科学精神


医療行政、社会福祉、カウンセリング等の臨床心理学アプローチの目的は、20世紀半ば頃まで『量化可能な生活・健康の物質的水準の向上』に置かれていた。
その物質文明的価値観を変革する流れとして、功利主義に基づく“quantity of life”から全人的アプローチや全人的医療に基づく“quality of life”を重視するようになったのだが、その端緒となったのは、リベラリズム社会保障政策を重視した内政改革をしたアメリカ大統領ジョンソン(Johnson, L.B.)の演説だったと言われる。
現在では医療、介護、社会福祉、心理臨床といったものの目的は、精神的な豊かさや人生全体の実存的意義の質的な向上を意味する『QOL(quality of life)の向上』に置かれている。

QOLは、“生活の質”や“生命の質”という日本語に訳されるが、自我意識や理性・感情に特徴づけられる生命を持つ人間が、どれだけ自分の心身の健康状態に違和感を感じずに快適な生活を送れているか、そして、生き方、生活様式、人間関係に満足し、精神的な安定と豊かさを実感できているかを包括する概念である。
QOLは、外部の医学的検査や健康診断から観察できる健康状態や物理的な生活水準の高低を計測する経済環境のみに留まらず、その本人の人生哲学や生命観、世界観にまで踏み込んで総合的な人生の充実感を表現しようとした概念だと考える事が出来る。

近代の合理主義と経験主義によって駆動されてきた科学的世界観に基づく医学・心理学・福祉政策のみでは、人間の精神的側面における質的な充足が軽視され、なおざりにされる可能性がある事を示唆するQOLは、『人生の包括的な豊かさを客観的に科学で把握しようとする事の困難』を反省的に自覚する事でもあった。
自然科学は、客観性と実証性を高めて、普遍的に通用する一般法則を導き出す思考法によって成り立つ体系的な学問である為に、出来うる限り主観的な指標や思惑を切り捨て、感情的な訴えや思弁的な理屈の影響に惑わされないようにする。
近代以降、飛躍的な進歩を遂げて、数々の困難な身体疾患の原因を究明し、疾患や障害をキュア(治癒的医療アプローチ)してきたのは西洋医学であり、西洋医学の発展をその根幹において支えたのは自然科学の方法論である。

医学領域に自然科学的な方法論が本格的に流入し始めたのは、宗教的教義による諸学問・諸芸術の束縛統制を離脱しようとするルネサンス期を起点としていると考える事が出来る。
勿論、機械論的自然観(機械論的生命観)に基づくシステムとしての生命を措定したルネ・デカルトの医学研究に与えた影響も相当に大きなものがある。
ルネサンス初期において、神秘主義と未だ未分離であった科学精神・科学主義を怜悧に切り分けて、動物の身体構造には特別な神秘性や霊性などないという方向付けをプリミティブな形ではあれデカルトは与えた。

ルネサンス(文芸復興)とは、キリスト教文明圏の神の最高権威に基づく実証的検証を無視したドグマの拘束から、芸術活動や自然研究を通して人間精神を自由に解放しようとする試み、世界や自然をより明晰かつ確実な方法で把握する為の科学精神の土台を築いた時代であり運動である。
ルネサンスと並行する時代に大航海時代というものがあり、コロンブスヴァスコ・ダ・ガマ、マゼランなどの冒険的な航海の断行と活躍によって、それまでヨーロッパ世界に閉じていた世界が地球規模に拡大する契機となった。
大航海時代とは、現代グローバリズムへの流れを必然的なものとした『閉鎖的に点在する世界の結合』を試みた時代であると同時に、近代の悲劇である植民地争奪戦を直接的に生み出す欲望に点火する過程でもあった。

ルネサンス期におけるレオナルド・ダ・ヴィンチを頂点とする画家、彫刻家、建築家といった芸術家達
の営為を単なる絵画や彫刻や建築物の創作及び製造と解釈するのは表層的に過ぎるのであって、このルネサンス期の芸術活動は、『現実世界をありのままに絵画・彫刻に写像する具象化作業』としての意味合いを持ち、現実世界をより客観的に理解する為の科学に少なからぬ貢献をしている。
絵画法の基本である線遠近法(パースペクティブ)を考案した建築家ブルネリスキは、それまで二次元的に平板な絵によるしかなかった絵画芸術を三次元的な立体感を持って描けるようにし、ブルネリスキが設計し創造した芸術は、フィレンツェ大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)に最大の成果が示されている様に、計算し尽くされた幾何学的な空間表現において比類なき異彩を放っている。

芸術論へと傾斜したが、ルネサンスの中心的価値観として掲げるべきは3つの柱であると私は考えている。

  • 宗教・迷信のドグマに対する『科学主義』
  • 個別的な世界観を尊重する『個人主義
  • 実証により客観的な自然・世界の理解を目指す『現実主義』

の3つである。


近代西洋医学へのルネサンスの最大の貢献は、それまで思弁的に想像していた人体構造を、実際に解剖する事によって把握できるようになったことである。
古代世界では、エジプトの死者復活信仰に基づくミイラ造りに象徴されるように、死体は神聖なもの、畏怖すべきものとして認識されており、死体解剖などの発想・実行は極めて困難な状況にあったと考えられる。
キリスト教権威に覆われた中世期にも、死体を人体構造解明の目的で解剖することは、神への冒涜と考えられタブー視されていたが、死体に特別な精神的意味付けを与えず、機械的な構造と認識する生命観が発達するにつれて、死体を解剖する事による人体構造に関する知識の蓄積と医療の発達のメリットが重視されるようになった。

『古典的な想像的人体構造』を実証的に反駁する解剖学の先駆けとして知られるのが、ルネサンス期の医師で『人間の身体の構造』という画期的な科学的な解剖学書を著したアンドレアス・ヴェザリウス(Andreas Vesalius,1514-1564)である。
ヴェザリウスの果たした医学上の役割を総括すれば、古代〜中世の医学の最高権威であったヒポクラテスの医学理論の系譜を継承するガレノスの医学理論の科学的反証であったと言う事が出来るだろう。
自然科学の研究者の基本的性格傾向としてある分析的な徹底的検証を好む傾向の例に漏れず、ヴェザリウスは実に細かくガレノスの著書を分析して、その間違いや誤謬を逐次的に指摘し、実験・観察に基づき修正していくのである。

かつて、大宇宙の構造や自然の摂理と呼応すると考えられ、生命エネルギー(生気)や息(プネウマ)によって特権的な霊性を持つ生命であった人間(人体)は、ヴェザリウスの解剖学の成果によって科学的次元でその神聖性や神秘性のヴェールを剥ぎ取られてしまったとも言い換えることが出来る。
無論、私は精神や心理や意識といったものに関して、解剖学や生理学が解明できる範囲は極めて限定されたものであると考えているが、医学の連綿たる解剖学の歴史によって解き明かされた人体構造の物理的次元における正確さは疑い得ないものだとも考えている。
解剖学は、古くて新しい学問であると呼ばれる事もあるように、現代最新医療の発達には、遺伝学と照応するような解剖学の更に精細な研究が必要である。

ルネサンスの外科理論の充実に大きな貢献をしたフランスの医師アムボラズ・パレ(Ambroise Pare,1510-1590)は、江戸期の日本に基礎的外科理論と技術をバトゥスを介して伝達したが、彼の記述した『大外科学全集』は、近代外科医療の古典として高い価値を有している。

ルネサンス期にガレノス医学を転覆する働きをしたイギリスの医師にウィリアム・ハーヴェイ(William Harvey, 1578-1657)という人物もいるが、ハーヴェイの果たした最大の役割は、実証に基づいた正しい循環器構造と血液の流れる経路の解明である。
この成果によって、近代循環器科学が確立され、それまで理解困難であった様々な心臓疾患の解明や治療への先鞭がつけられた。

アリストテレスの自然学やヒポクラテスの4大体液説の流れを汲み、中世医学の絶対権威として君臨したガレノスの医学理論体系は、ハーヴェイによって、その最も致命的な誤謬『血液は肝臓で製造されて、循環せずに末梢系において単純に消費される』が暴かれ否定された。
ハーヴェイは、大静脈や大動脈を結紮する実験を通して、人間の血液は心臓を中心にして身体各部を巡ってから、再び心臓に戻ってくる循環構造を持っている事を明らかにして、ガレノスの血液の流れと消費に関する理論を否定したのである。

神の奇跡によって創造された精密で複雑な神秘的人体が、科学のメスによって、体系的に把握する事が可能な機械論的人体となり、具体的に有効な外科・内科的施療が可能な生理学的人体となった事が、解剖学の医療現場に還元される具体的な成果である。
しかし、それは医療発展に対する具体的な成果であると同時に、その取り扱い方を間違えば、旧ナチスの良心的と自認する医師や旧日本軍の実直で権力に忠実な医師が、人体実験を行ったような猟奇的で悲劇的な事件を生むことになる。
生命の尊厳や生命に対する畏怖や畏敬の念を忘却した先には人類の破滅的な結末しかないのであり、その点において古代の医聖ヒポクラテスの医療倫理『医は仁術なり』は普遍的な妥当性を有するものである。

『医学に限らず、人間の生命や健康や尊厳に直結する諸学問は、誰の為にあるのか、何の為に研究するのかという原点を絶えず確認する必要がある』のではないだろうか。
『知識の拡大・技術の発達・経済の繁栄』は確かに諸学問の目的とするに足る素晴らしい人間精神の成果の結実であるが、『生命の尊厳・人間の幸福・精神の豊かさ』はそれに劣らない価値を有する目的であり、知的営為の内実を志向するものである。

ここまで、ルネサンス期における近代医学の黎明の歴史を振り返ってきたが、現代の先端医療の基礎理論や基本概念、そして、私たちが受ける病院・医院・診療所で行われる一般医療も、基本的にはルネサンス以降の近代西洋医学に忠実に依拠した診療が行われている。
近代西洋医学の方向性を更に先鋭化させたものが、EBM(Evidence Based Medicine:科学的実証に基づく医療)であり、EBMの行き過ぎた機械論的人間観を緩和する形態の医療が全人的医療(Comprehensive Medeicine)であるが、全人的医療の理念には、西洋医学の弱点をカバーする東洋医学や伝統医学、民間療法の見直しも含まれている。
そのどちらが優れているかといったオルタナティブな議論には意味はなく、患者の主訴に徹底的に耳を傾け、問診だけでなく画像診断法を含む丁寧な医学的検査を必要に応じて行い、病態や症状を吟味し、急性か慢性か、身体疾患や精神疾患か、身体の疼痛・苦痛か心理の苦悩・葛藤か実存的な人生全般の価値を巡る懊悩かといった実に詳細で精緻な人間観察を行った結果として、最適の医療理論や治療方法、基本的方針を決定しなければならないだろう。


そういった医学に人間的な温かみを取り戻す試みとしてQOLを考えていく事にも大きな意義があるように思える。
心身相関の把握と全人的な理解という観点に立って、疾患・障害のみに部分的分析的に注目するのではなく、人間・人格性そのものに全体的総合的に関わっていく必要性が、『cure(治癒的アプローチ)とcare(支援的アプローチ)の相補的関係』の概念に集約されている。

cureとcareの両面的アプローチを基点としてQOLを考えると、その定義は自ずから総合的かつ包括的な人間の生命の質を規定するものになってくる事となる。
QOLとは、『主観的次元である身体的・精神的・社会的・哲学的(実存的)な人生の諸側面の質であり充足』と定義することが出来る。
QOLとは、近代西洋医学にともすれば欠如しがちであった主観性の復古・主訴への共感といった側面をもっていると考えると分かりやすいかもしれない。
その為、科学的な統計や測定にはなじみにくく、あなたのQOLは、何十点であるとか何%であるとかいった形で数量化して把握することが難しい。

しかし、個人個人バラバラで極めて主観的なものだから、他人にQOLを把握することは出来ないとする不可知論に陥ってしまっては実用性が全く無くなってしまう。
その為、厳密性は多少信頼できない部分があっても、大まかなQOLを知る為に必要な項目や要素が幾つか考えられている。

  • 食欲・・・毎日の食事をおいしく規則正しく食べられているか。過食や拒食による体調不良がないかどうか。基本的生理欲求の低減は、うつ状態や心因反応の初期のシグナルとなっている場合もある。
  • 睡眠・・・毎日、規則正しく十分な睡眠が取れているか。寝不足や仮眠による体調不良や心理的不満がないか。睡眠導入剤睡眠薬)を服用しているかどうか。基本的生理欲求の低減は、うつ状態や心因反応の初期のシグナルとなっている場合もある。
  • 排泄(排尿排便)・・・毎日、周期的に排泄が出来ているかどうか。胃腸障害や心因性による下痢、便秘などの症状に苦しんでいないか。排尿困難や浮腫などの潜在的な腎臓、心臓などの器質的疾患を疑わせるものがないか。
  • 運動・・・必要に応じて運動をしているか。運動不足の為の生活習慣病のリスク(肥満・高血圧・高脂血・糖尿病など)がないかどうか。心身の健康維持の為に必要なレベルで運動が出来ているか。
  • 疼痛・・・疼痛(うずきや痛み)は、著しくQOLを低下させる。うずいている部分や痛んでいる部分はないかどうか。肩凝り、首の痛み、腰痛、リュウマチなど慢性化しやすい疼痛に悩んでいないか。慢性的疼痛の対処に、西洋医学は対症療法しか出来ない場合があるので、漢方方剤など必要に応じて東洋医学や伝統医学の知見を応用してみる。
  • 心因反応・・・神経症的な身体症状への過度な執着や捉われによって、精神相互作用が起きていないかどうか。神経過敏に身体状態に反応し過ぎていないか、反対に、アレキシサイミア(失感情言語症:自分の感情に気付ず、感情を伴う話題が出来ない状態)によって心身症のリスクを高めていないかどうか。
  • 性欲と性生活・・・うつ病、ED(勃起障害・勃起不全症候群)や不感症・冷感症によって、性欲減退が見られ、性生活の満足が損なわれていないかどうか。性欲の充足は、QOLに必須な項目ではなく、個人の性格によって嫌悪や羞恥を伴うので、無理にQOLの項目として性欲を訊くことは避けなければならないが、心理的問題の語りにくい部分として遠まわしに婉曲的表現を用いて性不全の問題を語っている場合があるので、そのメッセージを聞き逃さないようにして真摯な態度で話題にのせる必要がある。男性の場合、インポテンツの問題は自己肯定感の低下や自尊心の障害などの苦悩と密接につながっている場合もあり、深刻なQOLの低下と精神的不満の原因となる場合がある。
  • 社会的役割の享受と満足・・・他者と関わって行う社会的行為(仕事・勉強・スポーツ・ボランティアなど)は、不満がないレベルで行えているか。社会環境にうまく適応して、心理的・社会的・経済的な安定感と満足感を獲得できているかどうか、あるいは反対に社会環境に過剰に適応して無理をした結果、心身の過労が出ていないかどうか。社会的活動が円滑に行えているかどうかは、本人が現在の生活状況にどの程度満足しているのかという主観的基準で測られるべきで、社会通念や常識判断で権威的に測ることにはQOL測定の上では意味がない。
  • 家庭生活の状態・・・家庭生活は円滑に営めているか、家族との関係は良好で信頼関係や支援関係がきちんと構築されているかどうか。家庭は一日のストレスや疲労を癒し回復する場であり、家族はいつも自分を支えてくれる同胞・味方として機能していることが望ましい。各個人が、社会生活で十分な仕事や働きをする為には、生活のプラットフォームとしての家庭環境を快適なものにしていく努力が必要である。家族がいない場合でも、自分の気持ちや悩みを話せるような友人や恋人、仲間が居るか否かによってもQOLは大きく変わってくる。極端な孤立や自閉の情況は、精神的な不満足感や苛立ちを募らせる為、一定のコミュニケーションが必要である。子どもの場合には、家庭環境における虐待などの情況がないかどうかを見極める面接対話技法も必要となってくる。
  • 生活全体の幸福感と充実感・・・『毎日の生活や自分の現在の状態は、全体的にどのようなものとして認識されていますか』という生活全体の包括的な充足度がQOL概念本来の意味である。個別的な活動や関係で成功していたり、満足していても、自分の人生や生活の全体として考えた場合に、不満や葛藤、苛立ちや後悔などが見られて情緒的に安定しなかったりする場合には相対的にQOLは低下してしまう。勿論、生活全体・人生全体の意義付けや価値の創出といった実に難解で複雑な『実存的な問題』も、QOLの高低と密接に関係している。生きる意味や価値を持っているかどうかといった質問ではなく、生きる意味や価値を絶えず求めようとしているかどうか、虚無的な頽廃や空虚な無為に耽溺して人生を放棄するような姿勢がないかどうかが重要となってくる。人間らしさや人間性の本質とは、『生きている事そのものに、死んでいるよりも高い意味や価値を見出す事である』ことから、実存的な苦悩は深まっていくと、『自己消滅願望や自殺につながる希死念慮』を招来することもあるので、実存的な苦悩や問題に対処する場合には、心理学的な知見や技術以上に人間的に誠実で親身な体当たりの関わり合いが必要となってくるだろう。生きる意味の否定をするような言動の深刻度によっては、重症度のうつ病も疑う必要があるし、死に至らない程度の自傷行為の繰り返しにはボーダーラインや人格障害の可能性も考えなければならないが、医学的診断そのものには回復や治癒の効果はなく、レッテル貼りに終わらない真摯で真剣なアプローチの粘り強い試みが必要となるだろう。
  • ライフスタイル・・・その相手をより良く理解し、心身の状態の生活習慣の影響を考える参考とする為に、喫煙・飲酒・サプリメントの摂取・スポーツ・性活動といったライフスタイルの側面についても考えていく。



西洋医学の伝統としての『瀉法』と東洋医学の伝統としての『補法』についても、また考えてみたいと思います。