ネグリ=ハート『』の雑感:現代世界のグローバリズムと関係性のネットワークとしての



<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性
著作:『<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』
著者:アントニオ・ネグリ,マイケル・ハート
訳者:水嶋 一憲,酒井 隆史,浜 邦彦,吉田俊実
出版社:以文社


1989年に、資本主義と社会主義イデオロギー対立の象徴であった東西ドイツを隔てていたベルリンの壁が崩落し、1991年には共産主義圏を統率していたソ連が連邦を解体して、事実上、世界の冷戦構造は消滅しました。
イタリアの革命的思想家であるアントニオ・ネグリが上梓した恐ろしく長大で難解なポストモダン的レトリックに満ちた反資本主義的な思想と運動の書籍『<帝国>』は、現代社会の不可避なグローバリゼーションの仕組みを読み解き、社会支配の論理・構造を明らかにしようとします。
ネグリを革命的思想家と表現しましたが、正確に言えば、彼はイタリアの法律である反テロ特別措置法を適用された革命家であり、反体制活動家という意味ではテロリストと呼ぶ事もできるかもしれません。
暴力や破壊活動を伴う革命や暴動をネグリ自身が実践指導したのか否かは詳細に知りませんが、直接的暴力による弾圧以前に暴力を用いて体制を変革しようと企て実行したのならばテロリストとされても仕方ないでしょう。
とりあえず、ネグリ本人の人物評価は置いて、現代社会の政治経済を思想史を横断しながら豊穣かつ濃厚な文体で語る『<帝国>』本論の内容についての概略や雑感を述べてみたいと思います。

私自身は、ラディカルな保守主義*1共産主義*2も支持しませんが、この書籍の内容に準拠して、現代世界の理論的把握として興味深く感じられた部分について色々と備忘録的に記述を進めていきます。

しかし、この『<帝国>』という書籍の文体は難解な概念や複雑な表現が多く、抽象的なポストモダンのレトリックが縦横に駆使されていて、スラスラと読み進めることが難しく感じました。
マルクスの政治思想や近代の啓蒙主義哲学などの基礎知識もある程度必要とされるため、マルチチュードの可能性と銘打っている事に鑑みると、現代世界を把握する政治思想を読みたいという一般読者を門前払いするような観がないではありません。


現代のグローバルな国際社会では、世界規模でボーダーレスに商品・貨幣・人・情報が飛び交い、一見、世界は価値相対主義と文化多元主義に覆われる無秩序な様相を呈していますが、ネグリはそこにグローバリゼーションの世界秩序を維持し構築する政治的主体を指摘し、単一国家の一極的支配ではないネットワーク的な主権的権力としての『帝国』を見いだします。
ネグリが革命主体・変革主体と信じる『マルチチュード*3が、具体的にどういった人たちを指示し意味するのかを一義的に語る事は困難ですが、マルチチュードとはグローバリズム世界における多数派の絶対矛盾的存在であるととりあえず定義してみます。

絶対矛盾的存在というものは、分かるようで分からないような概念かもしれませんが、簡潔に述べれば、ネットワーク化されたグローバルな世界の支配構造・機能・権力である『帝国』によって支配され規制されながらも、その『帝国』を自発的かつ積極的に構築し支持している群衆と言えるでしょう。
しかし、<帝国>は否定的な価値付けや抑圧的な権力システムといった側面ばかりがクローズアップされやすいですが、実際には、マルクスが『それ以前の権力構造よりもマシな政治体制』を志向したように、<帝国>はそれ以前の政治体制や搾取的な経済システムよりもマシであるとネグリは述べます。

『帝国(empire)』という言葉には独特な威厳と威圧感に満ちた響きがあり、社会的な優勢者には支配願望を連想させ、劣勢者には従属・搾取・圧政を連想させる傾向があります。
しかし、ネグリが<帝国>と呼び慣わすものは、こういった歴史的に実在したローマ帝国マケドニア中華帝国などの具体的な国家機構ではなく、皇帝や諸侯などの独裁者が支配する実体的な身分制度を持つ政治システムや社会構造でもありません。
それらの事を考慮した上で<帝国>を理解すべきであり、帝国という言葉から直接的に世界の超大国であるアメリカの覇権主義帝国主義を想起するのは妥当ではないという事になります。


19世紀が英国の世紀であったとすると、20世紀はアメリカの世紀であったわけだし、近代性(モダニティ)がヨーロッパ的であったとすると、ポスト近代性はアメリカ的であるというわけだ。そして、そのような仮定が共有されているからこそ、一方で合衆国の誹謗者の側は、かつてのヨーロッパによる帝国主義の諸実践を合衆国はたんに繰り返しているだけだという、辛辣極まりない批判を浴びせることが出来るのだし、他方で合衆国の擁護者の側は、ヨーロッパを褒め称えることができるのである。しかしながら、私たちの見解はそれらとは反する。

すなわち、新たな<帝国>の主導形態が出現している、というのが私たちの基本的な前提なのである。じっさいいかなる国民国家も、今日帝国主義的プロジェクトの中心を形成することは出来ないのであって、合衆国もまた中心とはなりえないのだ。帝国主義は終わった。今後、いかなる国家も、近代のヨーロッパ諸国がかつてそうであったようなあり方で世界の指導者になることはないだろう。

(中略)<帝国>という概念は、基本的に境界を欠くものとして特徴づけられる。<帝国>の支配には限界というものが存在しないのだ。だからこそまず第一に、<帝国>という概念は、空間的な全体性を包み込む体制、あるいは『文明化された』世界全体を実際に支配する体制を措定しているのである。
いかなる領土上の境界も、この体制の君臨を制限するものではない。第二に<帝国>の概念は、征服に起源をもつ歴史上の一体制として自らを呈示するのではなく、歴史を実際上宙吊りにし、今ある様々な状況を恒久的に固定化する秩序として自らを呈示する。<帝国>の視座からすると、この状況はこれからもずっとそうありつづけるはずのものであり、また常にそうであったはずのものである。言い換えれば<帝国>は、歴史の流れの中で一時的にその支配力を行使するのではなく、時間的な境界を持たず、その意味で、歴史の外部ないしは終わりに位置するような体制なのである。
第三に、<帝国>の支配はあらゆる社会生活の深部にまでその力を行き渡らせながら、社会秩序の全域にその作用を及ぼす。<帝国>は領土と住民を管理運営するばかりでなく、自らが住まう世界そのものを創り出すのである。<帝国>は、人々の相互行為を規制するばかりではなく、人間的自然(人間本性)を直接的に支配することをも求める。<帝国>の支配は、社会的な生をまるごと対象としているのであり、したがって、<帝国>は生権力(バイオパワー)の範例的な形態を呈示しているのだ。最後に、<帝国>の実践がいつも血にまみれているのに対して、<帝国>の概念のほうは、つねに平和―歴史の外部にある恒久的かつ普遍的な平和―に捧げられている。

<帝国>とは、グローバル経済に端的に表象されるように、既存の国民国家的枠組みの規制・制約から離れたいと志向し、政治的・経済的・個人的自由の解放を欲望するマルチチュードによって呼び出された単一的権力者に還元されない、無数の変数によって規定される権力の諸関係であり、ネットワーク化された政治的主体性なのです。

科学的社会主義の古典として知られるレーニンの『帝国主義論』にあるような、自由競争から生産手段を集積して生まれる独占資本を背景にした帝国主義や世界を分割統治するような帝国主義列強と、ネグリの説く<帝国>とは全く質的に異なるものであるといえる。

また、近い内に、恒久的かつ普遍的な平和という理想的観念が、<帝国>が現実化する世界秩序維持の警察的活動とどうつながってくるのかなどを記したいと思います。

*1:ナショナリズム民族主義国粋主義・伝統的原理主義などの一群を指す。

*2:社会主義マルキシズム・革命思想・アナーキズムなどの一群を指す。

*3:マルチチュードとは、群衆・多数者を意味する政治学用語であり、社会的・経済的な支配構造の従属者として世界人口の大部分を構成するとされる。