相補的な関係性(complemental relation)と対称的な関係性(symmetric relation)


id:cosmo_sophy:20050216において示された関係性は、『相補的な関係(complemental relation)』である。
相補的な関係性は、支配と服従の関係を戯画化した『主人と奴隷のパラドックスで奴隷のいない主人は想定できないように、一方の行動パターンと他方の行動パターンが結合してフィットする事によってのみ現実化する。

人間社会の習慣体系や規範秩序の大部分は、『相補的な関係性の行動心理学的な強化』によって説明できるものである。
ある社会的場面ではAという態度や行動を取り、ある相手を前にした場合にはBという態度や行動を取るべきであるといったように、私たちは相補的な関係性を無意識的に実践し、通常、余ほど社会的関係性に敏感で注意深い人でなければそういった関係性に違和感を感じたり抵抗を感じることは少ない。
社会環境で自然な対人関係の積み重ねで形成される相補的関係や企業内の立場・地位にまつわる上下関係や集団内での微妙な力学的関係は、それが長期間にわたって継続すればするほど“私”にとって習慣化された関係となって日常の当たり前の人間関係へとなってくる。

しかし、人間社会に存在する関係性の全てが相補的な関係性に還元されるわけではない、相補的な関係が『秩序志向的で現状維持的な特徴を持つ関係』という特徴を持つならば、その対極には『秩序解体的で現状改革的な特徴を持つ関係』が存在するはずである。
これは、相補的な関係のように相手の選択した行動を支持して促進するような補完的な関係ではなく、相手の選択した行動と同じカテゴリーにある行動を自分も選択して競合する形態の『対称的な関係(symmetric relation)』である。

最も典型的な対称的関係とは、“競争関係”であり、相手と同一の目的や対象に向かって同型の行動パターンを示して、排他的にせめぎ合い競合する関係である。
相補的な関係性と対称的な関係性は、どちらが優れていてどちらが劣っているというような功利的判断は成り立たないし、どちらが正しくてどちらが間違っているというような倫理判断とも無縁である。
しかし、両関係は、根底的な意味において対照的な関係であり、異質な関係であると言うことが出来る。

『相補的な関係性』の前提としてあるのは、『非対称性に関する事前の認知』である。
つまり、相補的交流というものは、相手が自分よりも何らかの特性・位置付けにおいて弱いという認知、あるいは劣っていたり、消極的であったりするという認知を元に結ばれるもので、両者に相互補完的な恒常性のある役割意識が割り振られることになる。
ここで留意すべきは、相補的な関係性においては、強者が弱者から一方的に搾取するような構造が固定化されているわけではないという事であり、強者も弱者も相互の特質を利用し合って何らかの利益や便宜を供与しあっている関係にある事が殆どである。

それに対して、『対称的な関係性』の前提としてあるのは、『対等性と競合性に関する事前の認知』であり、相手が自分と同等以上の実力ないし権益を持っている場合に、大きなインセンティブの誘惑を感じ、意欲的な挑戦精神を漲らせて相手とぶつかり合う事となる。


私たちは個人レベルでは、その気質・性格・人格・価値観と、利害関係や生活状況などのコンテクストに応じて、相補的関係と対称的関係を微妙な匙加減と意図の元に、あるいは習慣的に使い分けている。
集団単位、共同体単位で、この二種類の関係性の類型の発生を考えると、集団主義的・統制主義的な社会環境では相補的な関係性が頻繁に見られ、個人主義的・自由主義的な社会環境では対称的関係が多く見られるようになる。

相補的な関係性が最も極端な形態となって国家に出現する場合を歴史に振り返ってみると、大日本帝国における天皇主権と軍国主義下での厳格なヒエラルキー構造や現在の北朝鮮金正日体制における封建的な階層構造、旧共産主義圏における共産党幹部と一般庶民の関係などに見ることが出来る。
卑近な例では、家父長制に見られるような固定的なジェンダーの役割を担う夫婦関係なども、相補的な関係性の典型であろうし、一般的に長期間衝突が起こらずに継続する馴れ合いのような関係は相補的な関係をベースにしたものであることが多い。

相補的な関係性は、こうした典型例を眺めると何だか威圧的で息苦しい感じを受けるが、実際、その関係の渦中にある人間にとってはそれ程苦痛や抵抗を感じるものではなく、ある種のルーティンワークの雰囲気や親密な習慣化した人間関係に漂う気楽さみたいなものも相補的な関係性には存在する。
また、相補的な関係は、原理的に秩序形成を志向し、人間関係に一定の規則的なけじめをつける為、公的領域における組織間(学校・企業)の人間関係は基本的に相補的な関係の性質を帯びている。


相補的な関係性と対称的な関係性の概略を述べたところで、ベイトソンの国民性の比較対照の研究へと舞い戻る事にしよう。

相補的関係の弱点である『協調関係の破綻による失望や競争関係での敗北による落胆』は、同時に、対称的関係の利点である『逆境における士気昂揚と不屈の精神』となる。
理想的な対称的関係とは、機会の均等の元に展開されるフェアプレイの精神による発展志向の競争関係であり、人生の途上で立ち現れる艱難辛苦に立ち向かう不屈のチャレンジスピリットによって支えられるものである。

現在のアメリカ、大英帝国時のイギリスでは、“個人の自立性と自由性”に最高の価値が付与されていて、相補的な関係よりも対称的な関係のほうが望ましいとされていた。
『支配・服従型の相補的ヒエラルキーの固定的な上下関係の中で安住する事に抗い、常に優位な立場や高い階層を目指して熾烈な競争を勝ち抜く精神に、アメリカやイギリスでは惜しみない賞讃と評価が捧げられる傾向がある。

第二次大戦前後に、ベイトソンが行ったドイツ社会(伝統的なゲルマン民族文化)の若者に関する忠誠心・服従行動に関する意識調査がある。
その調査において、『比較的、自由で奔放な振る舞いが許される女性に対して、男性に期待される国家への忠誠と厳格な規律の遵守というのは不平等であるが、重荷に感じることはないか?』といった内容の質問をドイツの男性の若者にしたところ、返ってきた答えは非常に興味深いものであった。

それは、公的権力や身分階級に無条件に、時には生命さえ差し出して服従しなければならないという屈辱的な状況を巧みに自己の尊厳や名誉に転換する意識作用の説明として理解できるもので、『民族・国家に、忠誠心溢れる厳格な自制心を期待されない女性よりも、それを期待されている私たち男性は名誉ある存在であり、義務と服従を厳しく課せられる事こそが人間の尊厳につながるのです』といった内容の答えが返ってきた。
ベイトソンは、これを『ノブレス・オブリジェの転倒』*1と解釈した。

ノブレス・オブリジェの転倒とは、相補的ヒエラルキー構造の中で服従するしかない状況にある自分を、社会通念によって規定される男女のジェンダー意識へと結びつけることで、『私の義務は権力や支配者から強制されたものではなく、男性という特権的な地位にあるからこそ、背負わなければならない責任義務なのである』という形で、服従者であった自分を支配者の地位へと転倒する心理機制のことを指していると考えられる。

いずれにしても、この心理機制は社会生活を営む現代の私たちにも無意識的に生じているものだとは言うことが出来るだろう。
そして、大部分の特権階級に属しない一般市民は、自らの象徴界想像界で張り巡らした意味言説の集積の中から、自分の尊厳を支えてくれる『解釈によって意味を付与されたノブレス・オブリジェ』を創造する事によって、生きる意味を強化しているのである。
転倒されたノブレス・オブリジェは無価値なものでは毛頭なく、転倒を創造と読み替えることで、例えば『家族の為に、嫌な上司から不快な八つ当たりをされても、一生懸命に職場で仕事を頑張る』という意識でさえ、素晴らしいノブレス・オブリジェへと変えていけるのである。

*1:ノブレス・オブリジェ:“高貴なる義務”とは、高貴な身分階級に所属する者達には、その身分相応の社会的義務が伴うという階級社会の安定や社会格差の合理化を司る思想である。その起源は、封建体制化における貴族階級は、普段は直接的な労働から解放されて豪華な生活を楽しむ事が出来るが、いざ、外的の侵略による危機に直面した時には、真っ先に軍務に就き、生命を惜しまずに庶民を守る為に闘うという軍役義務を自主的に背負ったことにある。古代ギリシアローマ帝国においては、侵略や防衛の戦争に参加することは、忌避すべき義務などではなく、特権階級である市民の特権として認知されており、奴隷階級には(国家存亡の窮地にない限りは)軍役の義務は存在しなかった。現代社会において、ノブレス・オブリジェという場合には、経済的な富裕層や高い社会的地位にある選良(エリート)が、自主的に行う公共の福祉増進の為の慈善活動、経済的貧困層開発途上国への寄付行為や支援活動の事を指して使われる事が多い。巨大な権力や財力を所有する人間には、それを利用した公共的利益の為の積極的活動を行う責任が付随するという思想の総体を意図してノブレス・オブリジェと呼ぶことが出来る。アメリカのように極端な経済格差のある社会では、ノブレス・オブリジェに基づく学校・病院・福祉施設の建設などが頻繁に行われ、世界的な災害や飢饉への寄付や援助などが比較的良く行われる傾向があるが、日本をはじめとするアジア地域には歴史的にノブレス・オブリジェの伝統がそれほど根付いていないので、経済格差の進展との度合いで、社会から獲得した富を自己の奢侈な満足のみのために蕩尽するのではなく、幾らか社会に還元すべきという意味でのノブレス・オブリジェの自覚の強化が問題とされることもある。