グローバリゼーションの光景:ポストコロニアリズム・生産の脱中心化・経済社会の規律性


アントニオ・ネグリマイケル・ハートの『帝国』において描かれるグローバル化された世界の光景とは、アメリカの軍事的ヘゲモニーを始点として進行する経済的・社会的なスタンダード化によって眼前に開かれてくる。
それによって、軍事力による世界秩序である“帝国主義”からマルチチュードの際限ない欲望によって賦活化される“帝国”システムへと脱皮するのだが、20世紀の帝国主義からの変容は以下の3点に収斂していくように思われる。



  • 軍国主義覇権主義の否定と人権思想の普及による脱植民地化のプロセスによって形成されてくる、国家権力に代わる欲望が創発する世界市場のシステム。
  • 生産設備・生産手段の中心が先進経済国から開発途上国へと移転し、生産拠点が漸進的に脱中心化していくことによって、『多様な需要に対応できる創造的な知・他者との“権利関係の競合”から勝利を導く法律にまつわる知』が利潤の源泉となる。
  • グローバリゼーションとは、経済取引や競争関係に関する地球規模の規律的な経済体制であって、貨幣への欲望に基づく規律型社会の条件を準備する。国際関係の枠組みは、20世紀半ばのような政治力によってではなく、経済力によって構築され、軍事力による制裁や侵略の背景にも必ず広義の意味での経済的利得の獲得動因が内在している。



本格的な脱植民地化のプロセスの開始は、第二次世界大戦後に始まり加速したが、植民地の解体の契機は日独伊・連盟軍の領有していた植民地においてであった。
しかし、戦勝国アメリカ・ソ連・イギリス・フランス・ベルギー・オランダ・オーストラリアなど)主導の植民地の解体は、同時にアメリカとソ連の政治イデオロギーへの再吸収の過程でもあり、世界の二極的分割である冷戦構造へとつながっていく。
冷戦構造と利権獲得競争の元では、戦争国が唱える人権思想や自由主義に基づく植民地解放・帝国主義の終焉の美辞麗句をそのまま受け止めることは出来なかった。

戦後数十年間、共産主義思想が開発途上国に非常に強い影響を与え、国家の政治体制として採用されることが多かった原因は、ソ連の赤化政策が第一の原因であるが、共産主義の背景に万民の幸福を実現するユートピア思想があり、欧州列強の植民地からの独立運動を指導したからである。
当然、全国民の自由と幸福が実現されるユートピア建設は幻想的なイデオロギーに過ぎず、共産主義開発途上国の独立国家としての地位を保証するものではないことは歴史が証明するところであり、その内実はソビエト連邦という巨大な権力機械の歯車への取り込みでしかなかった。

ポストコロニアリズムと冷戦構造を象徴する国際秩序にまつわるハリー・S・トルーマン大統領の発言が、第二次世界大戦後間もない1947年ギリシア共産化の危機に際してなされた。
『世界史の現時点においては、ほぼ全ての国民が、どちらかの生活様式を選択しなければならない』
純粋な脱植民地化や解放運動の高まりは、資本主義か共産主義かというグローバルな規模での冷たい対立構造によって歪曲され変質させられたが、アメリカ合衆国は資本主義・人権思想の守護者として、世界秩序を維持する保安官として国際社会の中で確固たる主導的な立場を担うようになった。

ヨーロッパ列強の植民地からの独立運動と米ソの冷戦構造による二極化の矛盾は、キューバ危機(1962)*1朝鮮戦争(1950-1953)*2といった形態をとって現れ、独立と冷戦の矛盾が極限化したものがヴェトナム戦争(1960-1975)*3という悲惨な地獄絵図を地上に描いた代理戦争であった。


ヴェトナム戦争後には、軍事力を前面に押し出した世界秩序は次第に影を潜めて、市場経済による秩序や競合が軍事力に代わる支配と優越のメカニズムを生み出した。
この国際的な経済競争は、ソ連を中核にする共産主義勢力にとって軍事競争よりも勝てる見込みが少ない競争の舞台であり、次第に世界覇権は基軸通貨ドルを発行するアメリカへと移行していく。自由市場のメカニズムを政治権力によって強引に抑圧したソ連ルーブルの価値は、漸次的に低下していき紙屑同然の無価値な通貨となっていく。
私的所有権を厳しく制限し、利潤獲得の企業活動を抑制するソ連の生産活動は、大きな需要や価値につながるイノベーションを引き起こすことが出来ず、単純な機械製品の大量生産以上の高度な生産活動を実現できなかったし、国民の積極的な労働意欲を引き出すことにも失敗したのである。
何より、末期症状を呈したソ連では、非効率的で非生産的な官僚機構が異常に肥大して、世界情勢や経済状況に対する迅速な身動きが取れなくなっていたし、何も生み出さない巨大な官僚機構の維持にまつわる費用が莫大なものとなっていた。

軍事力…即ち、核兵器、生物化学兵器などの大量破壊兵器の所有と膨大な人員によって構成される大規模な軍隊よりも経済競争に打ち勝つ情報、知識、それらを元にした商品・サービスの研究開発、通貨価値の維持のほうが現代社会では有効性の高い武器となっている。
勿論、軍事的優位によって、不法な恫喝外交や侵略行為から自国を防衛することは出来るが、現代の国際社会では軍事力や暴力によってかつての植民地のような国々から堂々と搾取したり略奪したりすることは最早不可能であり、アメリカのような軍事的超大国であっても軍事と暴力を前面に出せば大義名分を有していても国内外の世論によって叩かれる運命にある。

つまり、旧来の帝国主義の列強が軍事的優位性によって得ていた(非倫理的・非人道的・人種差別的な)禁断の経済的果実を、現代では摘み取ることが出来ない。若しくは、大英帝国が、植民地運営の莫大なコストに懊悩して斜陽を迎えたように、植民地や保護国を所有することそのものが、利得ではなく負担にさえなる無駄なステイタスになってしまったという事でもある。

私たちが、経済活動において不公正であり、不平等であると本能的に感じるものは何であるのかと問い掛ける時、半ば自動的に返ってくる答えは『私が差し出したモノ・労働に対する報酬・見返りが適切、妥当なものではない』という不等価交換の取引きである。
植民地主義に基づくヨーロッパの白人によるプランテーション経営に対して倫理的な問題が生じるのは、現地の住民の流す汗に対して十分な報酬が支払われていないという不等価交換の事実があるからである。そして、不等価交換によってプランテーション経営者や関連業者が不労所得に近い労働状況で莫大な利益を上げ続けるシステムが構築されていて、そのシステムが原理的に変更不可能な時にはシステムとしての搾取や略奪が合法化されていることを意味する。

ネグリが<帝国>と呼ぶネットワーク化された権力のシステムあるいは主体性とは、id:cosmo_sophy:20050129で言及した以下のようなシステムである。


<帝国>とは、グローバル経済に端的に表象されるように、既存の国民国家的枠組みの規制・制約から離れたいと志向し、政治的・経済的・個人的自由の解放を欲望するマルチチュードによって呼び出された単一的権力者に還元されない、無数の変数によって規定される権力の諸関係であり、ネットワーク化された政治的主体性なのです。

科学的社会主義の古典として知られるレーニンの『帝国主義論』にあるような、自由競争から生産手段を集積して生まれる独占資本を背景にした帝国主義や世界を分割統治するような帝国主義列強と、ネグリの説く<帝国>とは全く質的に異なるものであるといえる。

ヴェトナム戦争終結後に、軍事力の優劣よりも経済力の強弱のほうがより高い支配力と有効性をもたらすようになり、経済的・政治的な変革を国民国家が政治権力によって力技で主導する時代は終焉を迎えた。
ポストコロニアル(脱植民地化)の時代にあっては、規制や命令によって秩序を付与する国民国家よりも巨額の資本を自由に投資できる多国籍企業が政治的・経済的変革を引き起こす主体となる。
多国籍企業は、生産拠点を政治力を有する先進諸国から安価な労働力を利用できる途上国へと移転させ、生産拠点・生産手段の脱中心化を促進する役割も果たす事になる。
かつての帝国主義列強から見れば、“生産拠点の脱中心化”である経済現象も、開発途上国の観点からすれば、それまでバラバラに自給自足的な経済活動を行っていた個人の労働力を結集させる中心化の現象であり、先進国から持ち込んだ生産技術・科学技術を現地の労働力と結びつける“生産能力の集中化”の経済現象という解釈が成り立ってくる。

脱植民地化の原動力となった現地の人々の希望と意志は、民族自決による独立国家樹立”に向けた意志であり、その目的的な解放のスローガンの為に大規模な民衆が動員された。しかし、ポストコロニアルの時代の新たなる世界秩序を形成して生産と統治の規律を周知徹底するためには、解放や独立の暴力的な衝動と熱狂を生産活動と消費活動への欲求へと変質させなければならず、生産の為の大規模な民衆の動員を実現しなければならない。
グローバリゼーションには、当然、豊かさと平和の側面を象徴する“光”の部分と苛酷さと無情の側面を象徴する“闇”の部分が両義的につきまとう。

アメリカ合衆国を中心とする優位な国家群や実力のある多国籍企業が、新たな生産と統治の規律型社会を世界の標準型とすべく普及させたイデオロギーのモデルとしてネグリは以下のようなものを明示して指摘している。




フォード主義的な賃金体制とテーラー主義的方法にもとづく労働の組織化、そして近代化・家父長的温情主義(パターナリズム)・保護主義を押し進めようとする福祉国家、これら3つの要素から成り立っていた。資本の観点からすると、このモデルが夢見ていたのは、ゆくゆくは世界中の労働者一人ひとりが十分に規律化されるようになり、グローバルな生産過程――換言すれば、グローバルな工場――社会とグローバルなフォード主義――の中で互換性のある存在となる、ということであった。フォード主義的体制の保証する高賃金とそれに随伴する国家の扶助は、労働者が規律性を受け入れ、グローバルな工場の一員となったことの報酬として呈示されたものに他ならなかったのだ。

しかしながらここで注意深く指摘しておかなければならないのは、これら独特の生産諸関係はあくまでも支配諸国において展開されたものであって、グローバルな経済の中の従属地域においては、それらは決して同じかたちでは実現されなかった、という点である。

フォード主義を特徴づける高賃金の体制と福祉国家を特徴づける広範な社会的扶助は、従属的な資本主義諸国においては単に断片的なかたちでしか、また限られた住民のためにしか実現されなかったのである。もっとも、実際にはこれは全面的に実現されるには及ばなかったのだが。何故なら、その実現を単に約束することのほうが、近代化のプロジェクトについての十分な合意を確保するためのイデオロギー的な説得手段としてはかえって功を奏したからである。
そうした努力の現実的な中身、言い換えれば、近代性へと向けた現実的な離陸――やがてこれは、現実に成し遂げられる事になるのだが――生産と再生産からなる社会的圏域の全体に規律的体制を行き渡らせることにほかならなかった。




この『<帝国>』の引用部分は挑発的なアジテーションに満ちているが、内容の本質に着眼すれば、ラディカルな左翼思想家でもない限りは、フォード主義とテーラー主義に拠るような一定の規律を有する経済社会や社会保障制度を備えた福祉国家を全否定するような安直な価値判断はしないのではないかと思う。
なぜなら、一定の規律に基づく生産活動を集団化し、効率性や合理性を重視することで、高賃金や生活水準の向上を求める事は、人間の自然な欲望の一部(自由・放縦)を犠牲にし、それとは異なる一部(物質文明より得られる豊かさや満足)を充足することであるからだ。

ネグリが批判し弾劾する人間の物象化である『工場化された社会において互換性のある存在となること』は、確かに悲しむべき空虚な事実であるかもしれないが、それは近代的な経済システムのみに限定されることではなく、人間は『公的領域=社会・市場・国家・世界・宇宙』においては誰もが互換性のある存在であり、それは大統領であっても首相であっても大企業の社長であっても同一のことなのである。
ネグリは、資本主義やグローバリゼーションのデメリットばかりに注意を集中させることで、人間の公的領域における互換性の指摘を私的領域における互換性の指摘と同様の致命的な欠陥・不良のように認知してしまっているが、工場で労働をしていようと、多国籍企業の会長であろうと、アメリカの大統領であろうと、究極的には互換性と代替可能性をもつという意味で存在論的な価値は等価ではないだろうか。
生活水準の高低や政治権力の有無といった実際的な格差は当然あるが、それは文明化された生活を望む限り一定の格差を受容する必要性が現段階ではあるということだろう。
情報化した世界においては、先進的な物質文明の便利さや華やかさを知らない自由を主張できても、主張する人はその物質文明について何らかの知識を有している前提が必要となってくる。
つまり、ある現象や事物について完全に知らない自由を知らないままに主張することは、現在の国際社会においては不可能である以上、知ってから後に自分達はどのような生活や労働を望むのかの選択の自由を確保することが重要になってくると考えられる。

いずれにしても、本質的な問題は、私的領域における非互換性であり、代替の不可能性であり、個人的人間関係に象徴される私的領域の非互換性はグローバルな工場の一員となっても覆すことは出来ない。
その一方で、確かにグローバルな経済社会において従属的な地位にある諸国家では、急速な市場経済化は劣悪な条件下での労働や余りにも不公正な不等価交換を生み出す危険性がある為、先進国側からの無償の技術援助や食糧援助、有利な条件での資金提供やODAを通して緩やかな市場への適応が求められるだろう。

近代化には、自由化や植民地の解放、経済的な豊かさという正の意味を持つメタファーと、規律性や機会化、国家間・職業間の経済格差という負の意味を持つメタファーが包含されているが、光と闇が混合する近代性全てを否定することは有意義なものではなく、自己破壊的なものである。
建設的で有用性のある近代批判とは、グローバリズムの経済格差の歪みによって、本人の努力や能力では如何ともし難い悲惨で苛酷な条件下にある人々の生活水準を正常化させる方向での批判ではないだろうか。
そして、物質文明の利便や市場経済がもたらす豊かさなどを全否定して原始時代に戻るかのような非現実的な妄想的文明批判ではなく、物質文明や市場経済の歓迎すべき良い面を伸ばしつつ、過度な唯物論的なモノ・貨幣への従属に陥らない人間性も十分に尊重できるようなバランス感覚のある近代批判によって、現代的な近代化は一層洗練させたものに熟成していくことが出来るのではないかと思う。

*1:キューバ危機(The Cuban missile crisis,1962):アメリカとソ連は、核兵器によって相互に牽制し合う“核抑止力”によって、実際の直接的な軍事衝突を回避して、冷戦構造を維持していた。しかし、フィデル・カストロの革命によって共産化したカリブの赤い島・キューバに、ソ連アメリカへの対抗手段として中距離弾道弾の核ミサイルを配備する“アナディル作戦”を開始する。キューバに中距離の核ミサイルが配備されると、アメリカ本土のほぼ全域が射程に収められる為、急速にソ連との全面的な核戦争の不安と緊張が高まった。世界全体が冷戦構造に基づく全面的核戦争の脅威と恐怖に晒された事態が『キューバ危機』である。国防省、軍部、CIAは、キューバの核ミサイル基地を、戦略爆撃機空爆する強硬策を当時のアメリカ大統領ジョン・F・ケネディに進言するが、ケネディは、海上封鎖してソ連船のキューバへの入港を阻止し、デフコン2(準戦時体制)で戦争への準備は整えながらも最後まで武力鎮圧ではなく、平和的な交渉によって核戦争の危機を回避しようとした。最終的に、ソ連フルシチョフ政権との交渉により、キューバ危機は緊張を緩和させた。アメリカのトルコにおける核兵器の撤去を交換条件として、キューバ核武装化は中断され核兵器は撤去されることとなった。

*2:朝鮮戦争(1950年6月25日-1953年7月27日):アメリカとソ連・中国の代理戦争としての趣きを強く持つ大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)の戦争である。韓国は国連軍に支援されたが、その実質は米韓軍事協定に基づくアメリカ軍の支援であり、北朝鮮は中国の大規模な支援とソ連のミグ戦闘機派遣による空軍支援を受けて戦った。朝鮮戦争は、ソウルと平壌を相互に奪い合いながら一進一退の経過を辿り、次第に膠着状態へと陥っていく。ソ連によって、一時停戦の提案がなされたが、韓国も北朝鮮もお互いの支配領土と権利利益を主張して譲らず、交渉は難航する。結局、スターリン死後の1953年7月27日に、板門店において国連軍と北朝鮮・中国の間で休戦協定が締結されて朝鮮戦争はとりあえずの終着を見せた。休戦協定以降、韓国と北朝鮮の国境は、北緯38度(厳密には若干のずれがある)の軍事境界線となる。

*3:ベトナム戦争(1960-1975):ベトナム戦争アメリカが軍事介入した背景には、一国の共産化を許すと周辺国家や地域までがドミノ倒しのように共産化してしまうというドミノ理論に基づく共産圏拡大の憂慮があった。ドミノ理論は、アメリカの世界各地への軍事介入を正当化する根拠としても援用され、自由主義圏と共産主義圏のパワーゲームの説明理論でもある。第二次世界大戦終結によって日本軍のベトナム占領は終わりを迎え、コミンテルンのメンバーだったホー・チ・ミンは、ハノイを首都とする社会主義国家・ベトナム民主共和国北ベトナム)の成立を宣言した。日本敗戦を受けて、ベトナムに再び強い影響力を保持しようと目論んだ旧宗主国のフランスはホー・チ・ミンによるベトナム独立宣言を承認せず、ベトナムに軍隊を派遣した。旧阮朝皇帝バオ・ダイを首班として担ぎ上げたフランスは、コーチシナ共和国という傀儡国家をサイゴン市(現ホー・チ・ミン市)に成立させた。フランスとホー・チ・ミンの対立は先鋭化していったが、フランスはビエンディエンフーの戦いにおいて名将ボー・グエン・ザップが指揮する人民軍に大敗を喫してベトナムにおける支配権を喪失する。フランスがインドシナ地域における権益を失うと、フランスを支援してきたアメリカが、反共産主義南ベトナムを軍事的経済的に援助するようになる。しかし、アメリカの後ろ楯を得た南ベトナムのゴ・ディン・ジェム政権は、国民を搾取し圧政を敷いた為、ベトナム国民の信頼や支持を得ることは出来なかった。北ベトナムベトナムの南北統一を目指して、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)を結成して、南ベトナム内でのゲリラ活動を活発化させていき、遂にベトナム戦争第二次インドシナ戦争)が勃発する。北ベトナム共産主義圏の宗主であるソ連、そして中国が支援し、南ベトナムを支援するアメリカと長期にわたる泥沼のベトナム戦争が展開された。圧倒的な軍事力と経済力、最新兵器で装備した軍隊を所有するアメリカが有利と思われたベトナム戦争だったが、大規模な絨毯爆撃による北爆が国際世論の強硬な反発によって継続できず、ベトコンに有利な密林内でのゲリラ戦と白兵戦が戦闘の中心になり、カンボジアクメール・ルージュラオスのパテート・ラーオといった共産主義軍事勢力との戦闘など戦域が拡大していく中で、アメリカ軍は次第に劣勢に追い込まれる。一時期は、ニクソン大統領によって北ベトナムに対する原爆投下も考慮に入れられたようだが、原爆による大規模な人民虐殺による歴史的な汚名と国家的な大罪の愚は犯されることはなかった。1973年にパリ協定によって、南北ベトナムの戦争に外国が参加したり支援することが禁止され、アメリカ軍も完全撤退する事になった。アメリカの軍事支援を失った南ベトナムは、苛烈な北ベトナムの攻撃に耐え切れず敗走を続け、グエン・バン・チュー大統領は国外へと亡命した。1975年には、人民軍によって首都サイゴンを陥落させられ、南ベトナムは歴史上から姿を消した。1976年にベトナムは南北統一されて、ベトナム社会主義共和国の成立が宣言された。長期間の破滅的なベトナム戦争によって生まれた人的被害は膨大な数に上り、ベトナムでの戦死者は100万人を越え、アメリカ軍の死者は約6万人と伝えられている。ジャングルで神出鬼没のゲリラ戦を仕掛けてくるベトコンの脅威に対抗する為、アメリカ軍によって高濃度のダイオキシンを含む枯葉剤が散布されたが、この枯葉剤による環境汚染は、ベトナム人の健康や遺伝子、ベトナム人の子孫に甚大かつ深刻な被害をもたらした。枯葉剤による遺伝子の変異・異常が原因とされる、ベトちゃんドクちゃんのような結合双生児(シャム双生児)が子孫への健康被害として知られるが、環境汚染をもたらすダイオキシンによって遺伝疾患や先天性奇形が多く生み出された。