ネグリ=ハート『<帝国>』の雑感3:差異化の欲望に駆動された近代化プロセスが実現したものと疎外したもの



<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性
著作:『<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』
著者:アントニオ・ネグリ,マイケル・ハート
訳者:水嶋 一憲,酒井 隆史,浜 邦彦,吉田俊実
出版社:以文社



ネットワーク化された政治的主体性であり、無数の変数によって規定される権力の諸関係である<帝国>システムは、古典的な帝国主義反帝国主義に関する理論を無効化し、形骸化させた。
植民地やサバルタン(従属者)の解放闘争は、アメリカとソ連という二極分化した冷戦構造の中で、自動的な生産機械としての規律的社会システムへと取り込まれていった。
アメリカが世界の舞台で振るう軍事的制裁や警察保安活動の正統性の失墜は、ヴェトナム戦争において頂点に達したかに見えたが、更にJ・W・ブッシュ大統領の政権下におけるアフガン戦争やイラク戦争、そして、つい先日の教書演説で明かした新世界秩序構想によって再びアメリカの対外的軍事活動に対する疑念や警戒の国際世論が高まっているように感じられる。

植民地の解放や個人の自由は、近代的主権の確立による帝国主義の超克のプロセスによって理論的には実現されるはずであったが、現実に推移した近代化プロセスは、順調に解放と自由化を促進しなかった。
マルチチュード(群衆)の発動する様々な主体性は大多数の市民・国民の自由な見解と欲望の発露によるものであり、解放闘争によって独立と自由を勝ち得たかつての被抑圧者階級の人々の現在の不満や苦難は、確かに手に入れた幸福の条件である独立と自由がそれまで抱いていたような幻想的な力をもたらしてくれるものではなかったことへの失望である。

世界の大多数を占めるマルチチュードマルチチュードの一翼を担うサバルタン(被抑圧者階級としての従属者)は、資本主義的経済制度と自由主義社会を獲得する近代化のプロセスを無事に乗り切ろうとしているが、近代化された瞬間に、今度は近代性(modernity)の外部へと突き抜けたい衝動に駆られている。
しかし、日本やアメリカ、欧州のような経済的に豊かな第一世界(先進文明国)においても、未だ近代性の外部への超克の具体的な姿は見えていないし、漠然とした閉塞感やアンニュイな空虚感に捉えられてアパシー状態に陥る若年層が後を絶たないといった解決困難な社会現象が起こっている。

アパシー・シンドローム(意欲減退症候群)(id:cosmo_sophy:20041017)の問題は、精神病理学や臨床心理学の問題であると同時に、実存主義的な苦悩や懊悩に類する問題であり、社会構造や経済システムの歪曲や抑圧の問題でもある。
そういった問題事象を見据えて考察や分析を加える際には、単一の学問基盤だけに依拠するのでは非常に足下が脆弱で一義的な固定した思考や対処法に帰結しがちである。
その固定観念や単純思考の弊害を回避する為には、人間の心理の問題を狭義の個人の気質や性格あるいは病理に還元し、環境への不適応を問題にするだけではなく、私たちが今生きて生活を営んでいる社会システムの問題点や政治経済の構造の歪みを考察し改善する試みもしなければならない。
更に、未来の世界を担う子ども達の可能性と心身の能力を拡大する方向性をもった教育制度の確立を目指し、その教育制度を基盤においた『学習と仕事と遊びの機会の増大』に邁進する事も必要となってくると思う。

グローバルなネットワークの構築が可能にするものとは、世界各地に点在する開発途上国の生産拠点と先進諸国の研究開発拠点との結合であり、そうした生産体制によって製造された商品群を迅速に世界全体に流通させるグローバル化された“需給調整のシステム”である。
需給調整のシステムとは、即ち生産・流通・販売・消費の一連の総合的システムを意味し、建前としては経済活動への参加は自由で平等なものであり、社会制度や身分制度のような固定的階層システムは採用しないという事になっているが、実際には完全な経済競争の機会均等は原理的に実現できないという、ある種の経済階層の区分けが発生することもまた自明である。

競争原理と価格競争に基づく市場経済グローバル化によってもたらされる伝統工芸・固有文化・風俗慣習の衰退と消滅の問題は、グローバリズムの暴力性や侵食性を直接的に意味しているのではない。
固有文化や伝統工芸は、グローバルなネットワークの構築が完成する以前には、世界の各地域や未開文明地帯に存在していた民族・部族・地域固有の社会的生産体制によって存続させられていた。
しかし、グローバリゼーションの世界情勢の中では、市場経済原理にそぐわない多種多様な労働形態や生産方法の共存が許されない事により、グローバル経済の中で次第に伝統的技芸や固有文化、習俗慣習は衰退していく流れへと飲み込まれていく恐れが高くなる。

しかし、グローバリゼーションは伝統的価値観や民族固有文化を弱体化させる一方で、世界市場のルールの普遍化を推し進めながらも、その世界市場の中で無数の膨大な商品とサービスを取り扱い、私たち個人の趣味嗜好や価値観を急速な勢いで多様化させ複雑化させる。
その結果として、十分に市場経済のルールが適用された国家や地域においては、個性が最大限に尊重されることになるのだが、その個性を実現させる為に準備される商品群、サービス群は正に多種多様であり絢爛豪華なラインナップをどんな時にも取り揃えている。
貨幣によって購入できないモノはないと思えるような壮大な都市環境は、絶えず農村環境や未開文明にある若者たちの都市への憧れを掻き立て、自分をもっと魅力ある存在にする為の商品・サービスへの欲求即ち“他者との差異化の欲求”を増大させるのである。

私たちは市場経済システムの内部からは基本的に逃れ出られないし、公的領域においては“互換性のある確定記述の存在”である。
故に、物欲や名声欲といった世俗的な欲求の誘惑を弱めることは出来ても、完全に退けることは出来ない。
それは、生理的な本能的欲動である“リビドー”が異性からの愛情や好意を求めて、他者とは異なる自己の魅力を顕示するのと同様に、意識的にそれに抵抗するのが困難な拘泥であり虚栄である。
社会的な関係性のコンテキストにおける固有名(私は私以外の何者でもない存在)への欲動である“差異化の欲求”が、他者からの承認と羨望を求めて、内在化する他者のまなざしを絶えず捏造し続ける。
そして、その現実には存在しない他者のまなざしを意識した振る舞いを無意識的に選択してしまう事によって、私たちは商品経済の文脈において絶えず差異化の欲動を充足させるような商品選択の誘惑に駆られるのである。

メルセデス・ベンツBMWジャガーセルシオなどの高級車やルイ・ヴィトンアルマーニ、グッチ、イブサンローランなどの需要も、バブル時代にステイタス・シンボルと言われたように、基本的には商品そのものの使用価値や交換価値とは無関係なものである。
商標、ブランドという記号に付与された差異化の刻印、他者よりも優位な経済的地位や幸福な生活状況にあることの明示的な記号としてそれらは生産され、流通し、消費される。
近年、テレビや雑誌でよく取り沙汰されるセレブという富裕階層の女性も一つの記号であり、庶民階層とは隔絶した経済力を有し、高額消費生活を満喫できるライフスタイルを明示的に示して差異化の欲望を充足させるものだと考える事が出来る。

そういった差異化のこだわりは特別な高額商品の消費活動のみに現れるわけではなく、古着の趣味だとかビンテージものだとか、高学歴や高キャリアの獲得だとか、希少性のある金属や骨董、該博な専門知の所有だとかいった付加価値全般を求める精神に内在するものであって、究極的には自意識を持つ人間である以上、その差異化の欲求への誘惑を全て捨て去ることは出来ないし、人間の幸福や喜びの源泉の幾割かは他者と自分が異なることの再確認のコミュニケーションによって得られているとも言い換えることが出来る。
文明文化の進歩発展の原動力は、温故知新による微細な差異化の認識であり、旧態依然とした秩序や体制の改革改善による差異の創出であり、私たちはどのようにして差異化の欲望と向き合い満たして行くべきなのかという問題に、人生の様々な場面で遭遇し苦悩していると解釈することが出来る。



近代化はこういった差異化のプロセスが最大の原動力となって実現されたが、アントニオ・ネグリ開発途上国の近代化プロセスの問題点を以下のように指摘している。




世界市場の統一化へと向かうこの傾向の結果、いくつかの重要な効果がもたらされることになる。まず一方において、支配的諸地域から発して広く普及するようになった労働と社会の組織化の規律的モデルは、世界のその他の諸地域において奇妙な近接性の効果を産み出した。すなわち、より近くまで引き寄せると同時に、ゲットーの中に隔離するという効果のことである。
言い換えれば、様々な解放闘争がついに自分達は『勝利した』と確信したまさにそのとき、すでにそれらは世界市場のゲットー――不確定な境界や、バラック地区とスラム街(ファベラス)を備えた広大なゲットー――の中に閉じ込められていたのである。

また他方、これらのプロセスの結果として、膨大な人口が、賃金による解放と呼べるかもしれない試練を経験することになった。賃金による解放とは、莫大な数の労働者たちが近代的な資本主義的生産の規律的体制――それが工場であれ、田畑であれ、他の何らかの社会的生産の現場であれ――のなかへ入り、その結果それらの人口が、帝国主義によって温存されてきた半隷属状態から解放されるようになった、という事態を意味している。
賃金制度への参入は流血を伴うものであるかもしれない(また、実際、その通りであった)。またそれは残忍な抑圧システムを再生産するものであるかもしれない(また、実際、その通りであった)。
けれども新たに作られたバラック地区とスラム街の掘っ立て小屋のなかでも、賃金関係は必ずや新しい欲求・欲望・要求を確定する。

たとえば、賃金労働者となり、新たな労働の組織化をもたらす規律に従属させられるようになった農民たちは、多くの場合、生活状態の一層の悪化に苦しめられることになる。そして、土地に縛り付けられた伝統的労働者よりも彼らのほうが自由だなどとはとてもいえないにしても、それでも彼らは解放を求める新たな欲望を確実に吹き込まれる事だろう。新たな規律的体制がグローバルな労働力市場へと向かう趨勢を打ち立てる時、同時にその体制は、それとは正反対の事態の可能性をも打ち立てているのだ。
つまり、その時それは規律的体制から逃れたいという欲望を打ち立てているのであり、また、同じく自由でありたいと望む労働者たちからなる規律化されていないマルチチュードを趨勢として打ち立てているのである。


ネグリ=ハート『<帝国>』第三部 生産の移行より引用


バラック地区やスラム街の問題が最も深刻化しているのは、メキシコ、コロンビア、ボリビアなど中南米諸国や貧困と飢餓、内戦に喘ぐアフリカ諸国であり、そういった第三世界のグローバルな市場経済化は第一世界である先進国への大量の人口移動を引き起こす可能性があります。
第三世界では若年層が占める人口比率は概ね高く、教育水準や医療水準は低いものの単純労働力は十分に確保されています。
そうした国々の人々には、本国では生活がままならないので仕事や富を求めて豊かな先進国に行きたいと考えている人が数多くいます。

少子高齢化問題や将来の労働力不足の深刻な問題を抱える日本ですが、基本的に移民や単純労働者の受け入れには否定的な意見が多く、将来的にも大規模な移民の受け入れは行われない可能性が高いのではないかと思います。
国内の治安維持や自国民の雇用の確保、伝統文化や歴史・言語・慣習・民族の保護存続といったナショナリズムの観点から移民難民の受け入れや帰化には慎重な判断が必要だという考えにも顧慮する意義がありますが、グローバル化する世界状況の中では政治的地理と経済的地理が不安定化し、先進国と途上国の境界線は曖昧になっていく傾向があることを意識する必要はあるかもしれません。
世界一の経済大国であり軍事大国であるアメリカ合衆国内において、マイノリティによって構成されるバラック地区やスラム街が少なからず存在する事実を、煌びやかで洗練された多国籍企業や政府機関、大手銀行の超高層ビルやインテリジェンスビルと比較すると、第一世界の内部に食い入っている第三世界の実情を垣間見るような気がします。