協力的ネットワークの拡大と共同体成立を可能とするインセスト・タブー:ウェスターマーク効果


id:cosmo_sophy:20050312において近親者による性的虐待近親姦禁忌(インセスト・タブー)に抵触するという事を少し書きましたが、もう少し人間社会の禁忌について敷衍して考えてみます。


一定以上の普遍的コンセンサスを持つ社会通念や倫理規範である近親姦禁忌(インセスト・タブー)の本質は、『家族的人間関係から社会的人間関係への開放的拡大』と『家族を最小構成単位とする共同体の成立』にあり、その本質を個人的快楽や恣意的理論によって論駁し否定するのは相当に困難であると思います。
インセスト・タブーは、先進文明社会(近代国家)にある西欧中心主義的世界観に基づいて生まれたものではなく、キリスト教イスラム教などの一神教的宗教観のみに見られるものでもありません。文明的生活から遠く離れた原始的風習や伝統が残存する未開社会の人達にも、インセスト・タブーは厳然として存在します。
民族、宗教、地域、共同体によってインセスト・タブーの対象となる血縁集団の範囲は異なってきますが、どのような社会集団であっても、必ず『結婚(生殖)する事の不可能な血縁者の範囲』が存在します。そして、結婚する事の不可能な血縁者の範囲は、文明の発達度や先進性とは全く無関係であり、狩猟採集によって生活を営むような未開社会の原住民であっても文明社会以上のインセスト・タブーの広範な範囲を持っている事があります。

閉鎖された血縁集団内部でのセックスによる妊娠出産が、子どもに先天性奇形やダウン症など染色体異常、遺伝子疾患などの遺伝的不利益を与えるという通俗的な根拠の提示があります。
『血縁の濃い相手との子どもは遺伝的脆弱性を持ち、健康な種の存続の妨害となる』というインセスト・タブーの根拠に関する一般的な説明のことですが、この仮説が科学的に正当な理論として実験的に確認されているわけではありません。
そもそも、そういった人間を対象とした近親交配の遺伝的影響に関する実験は、基本的人権を侵害する恐れが強く大きな倫理的問題があるので、今後も実施されることはないでしょう。

しかし、人間という種で近親相姦の遺伝的影響が分からないといっても、牛、馬、豚などを用いた畜産業などの育種実験(品種改良)では、近親交配を繰り返す事によって生殖能力が低下したり、致死性の疾患発現遺伝子の保有率が高まるという『近交退化』の現象が見られます。
この事から、近交係数の高い(血縁の近い)相手との生殖が重積する場合には、子の生存率や初期の心身の発達に何らかのマイナスの影響を与える可能性を考慮する必要性はあるでしょうし、単純に考えても、近親相姦の常態化は遺伝子プールの多様性を縮減し、致死性・疾患性の劣性遺伝子がホモ接合する危険性を高めることで種の繁殖可能性を低下させるという事が推察できるかもしれません。

しかし、そういった遺伝的な悪影響を実験的・論理的に導いたとしても、それが決定的な近親相姦禁忌の理由なのかどうかを確認する事は難しいでしょう。
私の個人的見解では、人間社会に普遍的に見られるインセスト・タブーは、遺伝子に規定される本能的な回避行動が原因なのでも、誕生以後の学習経験によって獲得する道徳規範が原因なのでもないのではないかと考えています。
では、インセスト・タブーの究極的根拠は何なのだという声もあるかと思いますが、それは先天的要因と後天的要因のマージナル(中間的)な領域にあるもので、私達の生存可能性を高め、生活水準維持を可能としてくれる『社会(共同体)と家族(構成単位)』を成立させる『協調行動の拡大ネットワーク』を生み出すものだという機能主義的な答えを返す事くらいしか出来ません。
インセスト・タブーは、血縁という閉鎖集団から外部へと人間関係を切り開き、『協力・連帯・出産を前提とした密接な他者との出会いである外婚』を可能にするものであり、複数の血縁集団を結びつけることで協調行動のネットワークの範囲を段階的に拡大していき、遺伝子の多様性、技術能力の多面性を集団が獲得していき、『強大で機能的な共同体成立の基礎条件』を整備します。

自由意志と理性的判断力を有する人間の場合には、本能的な遺伝子保存欲求によって、近親相姦を回避するような行動を取るように遺伝的にプログラムされていると言えるかどうかは分からないという事になるのではないかと思います。
心理学的に、人間の性的欲求や性的関心を元にしてインセスト・タブーについて考えるならば、問題はもっと簡単明瞭に理解することが出来ます。

実際の兄弟姉妹がいる人に対して『あなたは、血のつながった兄弟姉妹に対して性的欲求を感じたことがありますか?』『あなたは、道徳規範や社会通念によって近親相姦が禁止されていなければ、近親相姦をしたいと思いますか?』という質問紙法のアンケートを取ったならば、およそほぼ全員が本心から、『兄弟姉妹に対して近親相姦願望をもったことなどはない。家族との性行為など想像さえしたことない』と回答することが予測されます。
それと対照的なのは、実際に兄弟姉妹がおらず、実際の経験として兄弟姉妹との日常生活を経験したことがない人のほうが、近親相姦願望を持つ人が有意に多いという事でしょう。
確かに、人間全員の趣味嗜好までカバーすることは出来ませんので、極少数の近親相姦者は存在し、血縁関係にある異性に性的欲求を抱く人はいると思いますが、大多数の人は、倫理道徳の束縛や遺伝的不利益の恐怖によって、無理矢理に血縁者への性欲を押さえ込んでいるわけではなく、自然な状態で血縁者には性的関心が起きないような心理機制が働いているのです。

厳密には、高等類人猿やヒトの場合には、先天的な本能や感覚によって血縁関係にある近親者を識別する一部の哺乳類や鳥類、両生類のような能力はなく、生後の社会的経験から近親者への性的欲求を喪失していきます。つまり、幼少期の生育環境を同じくする親密な関係にある相手に対して性的関心や欲求が起きにくくなっているのです。
この幼少期からの生活環境を同じくする親密な相手には性衝動が起きにくいという言説は、『人類婚姻史』(1891)という人類の結婚関係の歴史的発展を扱った書物の中でウェスターマークが指摘しています。

幼少期から一緒の生活環境で育った相手に対して、次第に性的興味や性的欲求を失っていく効果を、ウェスターマーク効果』といいます。
これは、血縁の有無に依存せず、一緒の生活環境で長期間を共にしたか否かに依存する効果であり、実の兄弟姉妹であっても、お互いを知らず、全く異なる生活環境で育てばウェスターマーク効果は弱くなり、実の兄弟姉妹であっても性的関心や恋愛感情の対象となる可能性はあります。
ウェスターマーク効果は殆どの人に現れますし、実際の兄弟姉妹がいる人たちには極自然に受け入れられる可能性の高いものではないかと思います。

実際の社会環境で実証的に確認されたウェスターマーク効果としては、子どもが幼い頃にお互いの結婚相手を決めてしまう中国のシンプア(幼児婚)やユダヤ人共同体のキブツという家族関係を解体した公共の共同保育施設の例があります。ユダヤ共同体では、血縁関係にある親が子を育てるのではなく、子どもをユダヤ民族の子として取り扱い、共同保育施設(キブツ)で育てる伝統・慣習があります。
幼少期に結婚相手を決めて、小さな頃から生活環境を共にした幼児婚(シンプア)によるカップルでは配偶者に対する性的欲求や出産率が低く、離婚率が有意に高かったという調査結果があります。
イスラエルキブツにおいても、同じ共同保育施設で育った異性と結婚する確率は低く、『キブツで一緒に生活してきた異性は、兄弟姉妹といった意味合いや仲間意識が強く、性的対象や配偶者として見ることが難しい』という意見を持つものが多かったといいます。

それが、先天的な遺伝要因に基づく無関心なのか、後天的な学習要因に基づく無関心なのかを特定することは難しいですが、少なくともウェスターマーク効果は、倫理道徳や良心のようなもので無理矢理に抑え難い衝動を押さえ込んでいるような強制力ではないことは確かです。

近親相姦(近親姦)を、禁忌や穢れとして規制することには、“家族を単位とする人間社会”の存続維持と発展可能性が密接に関与していると考えていますが、家族血縁の歴史と共同体の構築についてはまたレヴィ・ストロース、シグムンド・フロイトマリノフスキー、モルガンとエンゲルスなどを参照しながらいつか詳述したいとは思っています。