閉鎖的環境における性的虐待の隠蔽と歪曲:社会的弱者としての子どもの安全と幸福を願って


人間の性にまつわる尊厳を侵犯する性的虐待(sexual abuse)には、大きく分類して二つの加害者−被害者関係が想定できます。
一つは、全く見知らぬ他人が加害者となり、性行為(セックス)や猥褻行為(性に関連するあらゆる行為)などの性的被害を受ける『外部からの性的虐待であり、もう一つは、両親・祖父母・兄弟姉妹・叔父叔母などの家族や近親者・顔見知りの人物から性的虐待を受ける『内部からの性的虐待です。

社会生活を営む大部分の人達は、外部からの性的虐待に対しては極めて敏感であり、見知らぬ子どもに対する性的な接触や誘惑、猥褻な発言を明確に性犯罪と認識して、その場で取り押さえたり、警察に通報するなどそれに相応しい対応を取ります。
社会的弱者である子どもや暴力への抵抗力の弱い女性を一方的な欲望充足の道具とする性犯罪者に対する怒りや憤慨というものは、人間の性の尊厳を認識する市民にとっておよそ普遍的に共有されるものです。

しかし、残念なことに、子どもに向けられる性的虐待や性暴力の過半は、生活環境の外部からではなく生活環境の内部において行われている現状があります。
家庭環境の内部において、親・祖父母・兄弟姉妹・叔父叔母などの親類・親の友人知人・離婚後の親の恋人・再婚後の親などから性的虐待が行われるケースの場合、その殆どが問題の性質上、表面に出て語られることがありません。
その為に、家庭環境における性的虐待は、社会的に隔離され隠蔽されていき、時間の経過と共にその事実がなかったものとされていきます。

ごく普通の家庭に育った人にとって、家庭は『安心・安定・癒し・安らぎの象徴的な生活空間』であり、苦しい時や悲しい時には両親が味方になって守ってくれたとても落ち着ける場所ですから、『家庭内で暴力・セックス・虐待・ドラッグが蔓延していて、子どもが極限的な絶望と恐怖に晒されている』という情報を聞いても、認知的不協和によって感じる違和感と抵抗感によって情報が過小評価されます。
『そういう不幸な家庭も確かにあるだろうけど、無視してよいほどの極少数の例外に過ぎないし、私達には関係ないことだ』という認知へと転換された時、社会環境において性的虐待を安心して語れる相手を見いだす可能性が減り、心的外傷を克服する為の場は急速に縮小していきます。

人間の精神の救いのない暗黒面や人間の行為が織り成す社会の現実の悲惨さや冷酷さを覗き込む行為は、人の心を暴力的に掻き乱し、自らの人間としての尊厳や自信を揺籃します。
しかし、社会や個人の鬱屈した暗闇に対して無関心な傍観者が増大すると、人間としての尊厳を理不尽に蹂躙する加害者の跳梁跋扈を許す事につながっていく恐れがあります。
家庭という閉鎖的環境における種々の虐待という不法行為への意識や関心を高めていくことで、普段気付かないような子どもからの小さなメッセージに気付けたり、“意図的ではない加害者”自身の性的虐待に対する甘い認識が変化する可能性もあります。

周囲の人間や加害者がその事実を忘却したとしても、被害者である子どもに残った深く暗い心の傷や裏切られたという憤慨は、多くの人が思っている以上に難治性のもので、悲痛な胸の内を語る機会さえ得られないままに、一人でやり場のない悲しみや怒りを抱え込み続けることが多いのです。
性犯罪や性的虐待の過去を語るという行為には、無関係な人が予想する以上の恐怖と不安や危険性が伴います。
不用意に性的虐待の過去を語ることによって、相手から予想だにしていなかった長期間の苦悩を軽視する発言や批判的な解釈がなされる可能性もあります。

例えば、『犬に噛まれたと思えばよい的な無関心さや愛情表現を性的行為と曲解しているだけではないかといった批判的解釈、あなたが誘惑したりスキがあり過ぎるからそんな事になるのだという見当違いの糾弾』によって、『他人に話す事の無意味さや徒労感』を学習してしまい、一生自分一人で痛みや悲しみを背負っていくしかないといった孤絶感に陥ることもあります。
また、家族や親類による性的虐待の場合に、その事実を他の家族や親類に訴えても、多くの場合、信じて貰えずに黙殺されるか、家族の恥であるとして隠蔽されるかします。悪くすると、逆に子どもが嘘を言って親類を陥れようとしているとか、淫らな妄想をしているだけだとか言われて叱り付けられたりします。

家庭内における性的虐待の加害者の多くは、精神医学上の人格障害者(性格異常者)や重篤精神障害者という形で認知されているわけではなく、極普通の社会人としての信用を得ていて、職業活動にも従事していますので、子どもが『親戚の叔父さんが身体や性器に触れてきたり、自分の身体を触らせようとする』などと訴えてもまともに取り合ってもらえないことが多いのです。
人間の認識や判断は、今までに獲得した知識や情報の集積であるスキーマ(知的枠組み)にその多くを依拠しますから、『優しくて良い叔父さん・信頼できる厳格な父親』といった認識が、一旦、人物像として確立してしまうと、それに反する新たな情報や事実を無意識的に排除して今までの人物像を維持しようとします。
凶悪な殺人事件や卑劣な性犯罪を起こした犯人の友人知人が、『あんなに正義感が強くて、真面目な人が…、あんなに大人しそうで控えめな人が…、学問一筋の真面目だった大学教授の彼があんな事をするなんて…』といった感想を漏らすのも、事件発覚以前に確立していた人物像を裏切る行動を起こした意外性への驚愕反応です。

人間関係から為される人物評価は、尊敬・好意・信頼・正常といった肯定的な評価の度合いが強いほどに、真偽判断に対するバイアス(歪み)を強めます。
親類縁者による性的虐待の場合には、世間体や外聞体裁といった家庭外部から寄せられる批判や好奇の眼差しに対する心理的抵抗がありますから、ますます真実を見ようとする客観的な視線が曇り、バイアスが強まるということになります。

性的虐待による心的外傷が根本原因となって、PTSDや解離性障害、身体表現化障害、統合失調症うつ病など種々の精神症状に苦しめられることも多く、性格の形成過程になされる性的虐待は、他者に対する不信感や敵対感、反社会的な価値観や自己破壊的な性的逸脱を生み出す危険性もあります。




大人から子どもへの性的虐待は、直接的なものとして『大人が性的な行為をする・子どもにさせる』『(正当な性教育のレベルを逸脱して)大人が性的興奮や快楽を目的として、性的な話題を話す・子どもに話させる』『(子どもが拒否しているのに)一緒に風呂に入る・(子どもが一人で入浴できる年齢なのに)一緒に風呂に入る』『大人が性的部位や性的行為を見せる・子どもの性的部位を見る、覗く』というものがあり、間接的なものとして『(成長記録や記念写真の程度を逸脱して)子どもの裸体や下着姿の写真を自分の性的趣味を目的として撮影する』『アダルトビデオやポルノ雑誌を子どもに見せる』『(発達年齢に相応しくない)過度のスキンシップやキスなどを子どもに行う』というものがあります。

性的虐待の加害者に成り得る人は、およそ全ての大人ですが、その中でも加害者になる可能性のある人を具体的な社会的属性で考えると、『親(血縁上の親)・保護者(義父義母)・祖父母・叔父叔母など親戚・兄姉・友人知人・母親の交際相手・習い事の先生・児童福祉施設の職員・教師・医師・見知らぬ大人』など子どもと接触する可能性のあるあらゆる大人が含まれます。
日本国内での性的虐待はここ十年ほどでその存在がクローズアップされてきましたが、これは最近急に性的虐待を行う卑劣な大人が増えてきたわけではなく、それ以前には性的虐待の定義が曖昧であり、家族や社会がその事実を黙認あるいは隠蔽してきたからに過ぎないと見ています。

日本ではかつて(あるいは今でも)、明白な児童に対する性犯罪(レイプ及び強制猥褻)を、“いたずら”という軽薄浮兆な言葉で報道し記述してきました。
これは児童に対する性犯罪についての公式の裁判記録や判決文においても使用されてきた慣例的表現ですが、『いたずら』などという何だか子どもがふざけて落書きでもしたかのような曖昧かつ不適当な表現で児童の性の搾取を語ることには、多くの弊害や錯誤があると思います。性犯罪をいたずらという語で表象する事によって、児童には、自己の性にまつわる権利や尊厳が欠落しているというような誤った印象を与える恐れがあります。

大人の愛情表現としてのスキンシップと子どもの権利の侵害行為である性的虐待の境界線は何処にあるのかという最低ラインの基準は、子どもの発達年齢に照らして常識的なスキンシップであるかどうかという事と、子どもに不快感や抵抗感を抱かせていないかどうかという事にあります。
子どもは、言語能力が十分に発達しておらず、性的行為の意味内容も十分に理解しているとは言い難いですから、自分の意志や感情を明確に表現することが難しいこともありますが、ある行為によって生じた『不自然な沈黙や表情の硬直化などの非言語的コミュニケーション』によって、子どもの内面的心理の変化を窺い知ることが出来ます。
その事から、言葉によって明示的に拒絶の意思表示をしていない場合でも、不適切な性的意味合いを持つ行動を自分がしている場合には、それを知ろうとする意志があれば知ることが出来るはずです。

性的虐待の本質を摘出して包括的定義を試みるならば、性的虐待とは、大人側の欲求・意図・猥褻認識の有無に関わらず、子どもの心身の発達に被害・悪影響を及ぼす性に関連した言動や態度の総体』と定義することが出来るのではないかと思います。
私は、性犯罪に関して猥褻性の有無に拘泥する基準を採用することには、主観的な猥褻認識の差異が存在するため、適切ではないという思いが強くあります。
どんなに過激な性的表現や一般に卑猥とされる性行為などであっても、その個人にとってそれが日常的な性行為や性情報への暴露の一部に過ぎないのであれば、主観的な感覚や認知に左右される猥褻性の程度は低下していきます。
特に、扇情的かつ誘惑的な性関連情報が、現実世界やネット世界に飽和し氾濫している現代の日本のような環境では、『猥褻な行為や表現とは何なのか?何処からが問題のある猥褻性になってくるのか?』という問いに対して社会的コンセンサスを得るのが非常に困難となってきます。

大人と子どもは、社会的・経済的・身体的な能力に圧倒的な格差があり、大人は子どもに対して絶えず優位な強者の立場にあり、子どもは大人に対して劣位な弱者の立場にあります。
家庭内の大人(親・養育者)は、子どもを保護養育する義務を負いますが、その義務には子どもを権力的に自分勝手に支配したり、暴力的に性や労働を搾取して子どもを傷つける権利は包含されていません。

社会内の大人は、子どもに対する直接的な保護養育の義務を負うわけではありませんが、大多数の良識ある大人は、他人の子どもであっても不当な取り扱いを受けて不幸な境遇に置かれる事や種々の虐待や愛情の剥奪によって子どもが傷つけられることを望んでいません。
育児に対する経済的な負担といった側面でも、直接的な経済負担をするわけではありませんが、社会保障費に充当される税金の納付といった形で、子どもの教育環境整備・育児の経済的支援・児童医療施設の整備・児童福祉環境の充実などに貢献しています。
個々の社会保障制度や社会福祉政策には、それぞれの価値観や立場によって賛否両論があるでしょうが、親の有無に関わらず、子どもに最低限度の文化的生活を保障することや子どもが安心して楽しく生活できる家庭・学校・医療・社会の環境整備、子どもの可能性を伸ばす教育制度の確立の為に税負担することを完全に否定する人はそう多くないでしょう。

子どもは、親にとっての唯一無二の子であると同時に、社会にとっての世界にとっての大切な子であり、未来への希望と人類の可能性を内在した存在でもあります。
また、子は親の所有物でも、社会の労働資源でもなく、一人の独立した人格として、大人と同一の基本的人権を生まれながらにして有しています。
社会に子どもと共に生きる親を始めとする大人達が、小さくて無力な大人の保護を要する子どもであっても、自分と寸分変わらぬ基本的人権を所有していて、最大限の尊重と配慮を要するという自覚を持たなければならないと思います。
子どもの性や身体は当然に子ども自身のものであり、知識経験の不足による自己決定権の未成熟につけこんで、それを大人の欲求や都合によって不当に支配したり使用することは許されざる虐待行為という事になります。


ここでは、非日常的な強烈なショック体験や通常の生活で経験しないような心理的苦痛や恐怖によって生じるPTSD(心的外傷後ストレス障害)や解離性障害、あるいは自らの性的同一性への拒絶反応として生じる形の摂食障害(神経性食思不振症や神経性大食症)の詳細に踏み込んで説明する余裕がありませんので、家庭という閉鎖環境で加えられる性的虐待心理的影響と特性について簡潔にまとめてみたいと思います。

  • 秘密の共有……性的虐待は、多くの場合、二人だけの状況で行われ、性的行為の意味を十分に理解しない子どもに対して加害者は、『これはお前を愛しているからしている行為なんだよ。このことが他の人にばれたら大変な事になるから、二人だけの秘密にしておこう。絶対に誰にも言ってはダメだよ』といった言葉を囁きます。性的行為がどのような意味を持つのかの知識が不足している子どもは、信頼している親や大人から秘密の約束を持ちかけられると、その約束を守らなければならないと考えてしまいます。また、加害者からの暗示的なメッセージに誘導されて、性的な行為が二人以外の人にばれてしまうと、何だか途轍もない不幸な出来事が起こるといった不安に襲われる為、自分から他の大人に相談することが難しくなっていきます。更に悪辣な加害者の場合には、『このことを話したら、お前を殺す。家族がバラバラになってお前は捨て子になってしまう。他の大人は、お前の言うことなど絶対に信じないぞ』というような明示的に愚劣な脅迫が行われて、口止めが為されていることもあります。
  • 虐待の日常化と学習性無力感……家庭という閉鎖環境では、加害者はいつでも弱者である子どもに対して性的に搾取するチャンスがあるため、虐待は日常化し、あるいは長期化します。子どもにとって家庭環境の外部は未知の世界であり、幼少期から虐待を受け続けている子どもにとって大人は信用ならない怖い存在ですから、家庭から自発的に逃げ出す行為を選択することはまず不可能です。誰からも救い出してもらう事は出来ないといった絶望感が、次第に感覚や感情を麻痺させ、『私はこの行為に対して何も感じないし、苦しくもつらくもない』といった自己暗示状態へと入っていきます。どんなに抵抗しても、どんなに助けを求めても、状況は良い方向に変わりはしないという認知は、人生全体に対する否定観や自己の学習性無力感『私には状況を切り開いて、自分を幸せにする力などない』に行き着きます。
  • 家族ぐるみの問題の隠蔽と記憶の歪曲……家族内部で性的虐待が行われていたという事実は家族の恥辱であり汚点であるとして、当事者も配偶者や親類もなかなか認めようとしません。友人知人、教師、医師などの第三者が虐待の事実に気付き、それを親に問い質しても、逆に親は激昂したり興奮したりして『事実無根の誹謗中傷であり、子どもを愛している私達に対する名誉毀損である。これ以上、私達を不当に侮辱し中傷するならば訴えるぞ』といった反応を示すことが多く見られます。父親が性的虐待をしていても、母親はその事実を知らない場合も多くありますので、その場合には母親は父親が加害者であるということを微塵も疑わない事が殆どでしょう。虐待発覚後もその事実が明確に立証されて保護されない限りは、子どもは、両親と生活を共にしなければなりませんし、子どもは虐待をされてもなお親が完全に嫌いなわけではありませんから、自分の記憶を無意識的に歪曲して書き換え『私に対する性的虐待などは行われなかった』という方向への改竄が行われます。家族ぐるみで虐待の事実は隠蔽され、子どもの記憶は次第に歪曲されていきます。
  • 性的虐待の影響の遷延……性的虐待の影響が遷延する場合には、自己効力感の低下による対人関係の不安定性によって恋愛関係や夫婦関係が混乱したり、性暴力やDV(ドメスティック・バイオレンス)などの再被害に遭遇する可能性が高くなる可能性もありますが、調査によっては子ども時代の性的虐待と成人以後の性暴力やDVは有意な相関関係はないとするものもあり明確に被害の継続を指摘することは出来ません。性的虐待が性格形成に及ぼす最大の影響は、他者に対する基本的信頼感の欠如と社会に対する怒りや破壊欲求、性に対する嫌悪や抵抗感に基づく完全回避(異性関係構築の不全)あるいは反対に性への強迫神経症的な耽溺や逸脱などがあります。自分の過去の屈辱感や無力感を弱める為に、人間関係を、『支配−従属といった相補的な二項対立的な図式』でしか眺められなくなったり、自己評価の低下が進んで、人間の愛情や関心を獲得する為には性的行為や誘惑を行う以外に手段がないという考えに陥ってしまうと、様々な人間関係において暴力的な被害を蒙ったり、相手を傷つけたりしてしまう事もあります。