日本美術の幽遠性

源 豊宗著『日本美術の流れ』思索社 ISBN:4783510288 を世界の美の特長に思いを馳せて読んだ。
この書物の中では、日本美術は『秋草の情緒性』に象徴されるもので、西洋美術は『ヴィーナスの官能性』、中国美術は『龍の精神性』によって象徴的に示される。

ヨーロッパの美術の源流はギリシアの芸術にあり、その基本精神はイデア的な理想的な造形の追求である。それは、理性的であり、合理的でもある。
合理的に計算され尽くした理想状態としてのコスモス(調和・統一・均衡)を、彫刻や絵画あるいはオブジェで具象化していくのが西洋美術の最大の特徴である。
それは、永遠不滅だとか完全無欠といったイデアの持つ属性を物質を素材にしてこの世界に実現しようとする衝動、あるいは、美のイデアを追求して止まないエロスの営みともいえる。

西洋思想は『有』の思想で、東洋思想は『無』の思想であると一般的な哲学の歴史の文脈では大雑把に区分けされることが多いが、西洋美術は『物質』の美術で、東洋美術は『精神』の美術であるとアレゴリカル(類似的)に表記することも出来るだろう。

ミロのヴィーナスやダビデ像アポロン像は、確かに一目見て『完璧なまでに美しく、完全なまでに整っている』という感想を抱かせるのだが、その美の追求は飽くまで物質的な造形の完全性に限局されている。
西洋文明の顕著な性格である人間中心主義や物質主義が、ギリシア時代やローマ時代の美術には典型的に現れているのである。
西洋美術は、物質的な造形の美において究極的な調和や均整を実現しようとしていて、それが、冷厳とした大理石の材質ともぴったり合っているのである。
唯一、中世のキリスト教の教会権力が強大で教義が忠実に守られていた時代には、裸体像や裸婦画があまりないが、西洋の美術のエッセンスが最も凝縮されているのは裸体像であり、裸婦画ではないか。
それは、身体的な強靭性や官能性を讃美する人間中心主義に通底するものであり、生命を育む女性の裸体の美しさと魅惑を永遠のイデアとして像に刻もうとするものである。


中国美術を代表する作品といえば、水墨画で描かれた鮮やかな色合いの少ない『山水画』と『龍絵図』といっていいだろう。
龍は元々、古代王朝の王家の紋章として使用された伝説的な巨大な蛇に似た動物だが、威厳や孤高の精神性を象徴しているという。また、伝説上の龍は深遠な叡智を持っていて、神秘的な動物であるともされている。
龍とは、支配者階級の中でも特に上位の孤高・威厳・深遠・幽玄などを理想の徳とするような王や王族の象徴とも言える。

山水画というのは、脱世俗的なこの世ならぬ神仙の世界、神秘的で幽遠な利害得失と無縁な世界を描いたものである。
西洋美術の物質性や世俗性が、山水画には全く無く極めて精神的なものであり、物質性を否定した道教の道(タオ)の思想に通じる神仙の世界を表現しようとしている。

長年月をかけて高い教養や真理を見る精神性を修得し、俗世間での成功や名誉も既に手に入れた高雅の士大夫が、俗塵や俗世間を嫌って人里離れた深山幽谷の地に隠棲するといった境涯を日本人の多くは何となく察する事が出来る。また、そういった隠棲や隠遁する人たちを、特別な能力や適性、宗教性をもった人物として高く評価してきた歴史もある。反対に、西洋の歴史には、教会や修道院に籠って神に仕える聖職者以外には好き好んで隠遁する人間はいないといった考えがある。
戦争の敗北者や人生の脱落者でも無い限り、俗世間を完全に捨てて山奥にこもったりしないだろうという価値観と、学識豊かな知識人や世界の真理や不思議な秘術を体得した仙人が俗世を避けて、悠々自適の生活を深山幽谷でしているといった世界観はなかなか交わらないものなのかもしれない。

中国は、古代〜近代に至る迄、貴族と民衆の階級意識の強い民族、身分の違いを明確化して異なる待遇をしてきた民族でもある。
学問を修得し、高い教養を有する為政者階級である士大夫はもっとも高い身分である事が多く、同じ支配者階級の武将軍人たちよりも平時においては高い身分として扱われてきた。
絵画や彫刻を行う庶民の美術家や技術者いわゆる職人たちは、どれだけ素晴らしい作品を制作しても、士大夫たちと同じ集まりや酒宴に参加することは許されないことが多かったようだ。

日本の万葉集古今和歌集などでは、天皇・皇族の歌と一般庶民の防人や遊女の歌などが一緒に収録されているが、こういった事は身分階級の区別が厳しい中国ではなかなか考えられない事であった。

中国美術の底流には、非物質的な高尚な精神主義というべきものがあり、それは作品を通して
『孤高性・威厳・幽玄性・為政者階級の自負・世俗の否定』といった特性として伝わってくる事になる。
中国美術の表現技法には、『枯淡・枯れ』という技法があるが、これも極めて精神性の強い技法であり、漂う香の煙のように心を無にして書くべきものとされる。
そういった技法を通して、生命の躍動が感じられず、鮮やかな色や香りも伝わってこない枯れた山水画のような風趣のある作品が作られたのである。


日本美術の特長を最も強く濃厚に伝えるのは、『源氏物語絵巻』や『鳥獣戯画』などに代表される大和絵であり、それらの絵の重要な欠かす事の出来ない要素は『背景に描かれた秋草』であるという。
秋草にこだわらなくてもいいのだが、日本の美意識を象徴的に表現する為には、背景に何らかの『草・植物』が描かれていなければならないようなのだ。

日本近代美術の偉大な改革者達である本阿弥光悦俵屋宗達尾形光琳らは、秋草を描くのではなく、シダ植物や蕨などの春の植物を背景や主題として描くことで日本独特の趣きある美を創作しようとした。
背景に描かれていた植物は、何時の頃からか尾形光琳の『かきつばた図』のように、作品の中心的な主題を彩るようにまでなっていった。

日本の美術が西洋や中国と決定的に異なっているのは、『道端でとりたてて目立つわけでもない雑草といってもいいような野草を主題や背景にもってくる』ことなのである。
日本人が伝統的に好んで描いてきた植物は薔薇や胡蝶蘭のような一目見て豪華で奢侈な花ではないことが多かった。
道端で誰にも振り返られることもなく見逃されてしまうようなポツンと自然の野辺に茂る草木や花を描く事を好んだ事に、日本人の美意識の最大の特徴があるのではないだろうか。

格別に美しく色鮮やかな花をつけるわけでもなく、見栄えがして立派なわけでもない植物を柔軟な筆致でしなやかに味わい深く、更に優美にたおやかに描く日本人の心性が日本美術の基底にはある。
そこには、小さくて儚いものや弱くて力無きものへの慈しみや懐かしさがあるのかもしれない、そういった小さくて弱きものへの共感性や情緒性は現代の日本人にもある程度継承されているものでもある。
悲しい事に、勝ち組み・負け組みといった短絡的な二項対立と経済的価値でしか人間や自然を見れない感受性や感動の乏しい人たちも現代日本には若干増えてきているようではあるが、基本的に自然界の何の意味も無い事柄に日本人は風流や典雅を感じ続けてきた民族なのである。

日本固有の深い情緒性や共感性あるいは感応性というのは、官能性や物質性に代表される西洋の美意識とは異なるし、俗世を避けて孤高や威厳によって幽遠さを表現しようとする中国の枯れた美意識でもないのである。
それは、人情や情緒に近い温かさや優しさをもち、そして、優雅で風流な世界を感受性豊かに表現しようとする美意識なのだ。
小さな草木を愛する繊細な感受性、更に世界でも稀な鈴虫やコオロギの鳴き声にあわれや風趣を感じる心情を日本人は持っているのだから。

日本人の美とは、自然界と人間の融合一体化の境地にあるといわれ、生命への慈愛や共感に情趣を見いだすところにあるとも言われる。

大理石の美の西洋美術、青銅器の美の中国美術、そして、私達日本の美は白木に象徴されると源氏は述べている。