芥川龍之介 『杜子春』

ここ数日、空いている時間を見つけて芥川龍之介の短篇を懐かしく読み返している。
29歳という若さで自らの意志によりこの世を去った芥川の考えた人間世界の縮図が彼の文学世界にコンパクトに織り込まれていると私は中学生の時分に漠然と考えていた。
更に穿った見方をすれば、芥川は現実世界を穢土と捉え、煩悩に塗れた苦悩多き場所として認識しながらも、何とかこの俗世に蜘蛛の糸の救いを求めようとしていたのかもしれない。
現代でうつ病神経症を患う若者が多くなっていて、厭世的な気分でこの世を離れて浄土や楽園に辿り着きたいという非現実的な切望を詩や文章に託す人たちも多いが、それは芥川の抱えた『純粋なる世界への憧憬』に一脈通じるものがあるのかもしれない。

さて、この『杜子春(とししゅん)』という作品だが、この話を貫く主題は『人間の幸福とは何か?』という人類普遍の問いである。
際限無き貪欲と不忠不孝の果てには、空虚な悲しい結末があるだけだといった道徳的な教えのようなものも読み取れるが、むしろ、そういった遵守すべき道徳規範よりも世俗の人々の心の在り方を的確に示しているところに注意を傾けたほうが面白い。

舞台は、玄宗皇帝治世下の唐の都洛陽、昔は資産家の息子で贅沢な生活をしていたが、今は財産を浪費して貧しい生活を余儀なくされている怠惰で欲張りなところもある青年・杜子春
その日の食事や宿にも困る困窮した生活の中で、杜子春はぼんやりと日の落ちた空を見上げてふと愚痴を漏らす。
『日は暮れるし、腹は減るし、その上もうどこへ行っても、泊(ト)めてくれる所はなさそうだし――こんな思いをして生きている位なら、いっそ川へでも身を投げて、死んでしまった方がましかも知れない。』
すると何処からか片目眇(すがめ)の不思議な老人が現れて、『お前は何を考えているのだ。』と、横柄に言葉をかけました。
『私ですか。私は今寝る所もないので、どうしたものかと考えているのです。』と力なく答える杜子春

その哀れな落ちぶれた姿を見た老人は、次のような予言めいた言葉を与えて杜子春は、大量の黄金を手に入れ一夜にして大富豪となる。
『ではおれが好いことを一つ教えてやろう。今この夕日の中に立って、お前の影が地に映ったら、その頭に当る所を夜中に掘って見るが好い。きっと車に一ぱいの黄金が埋まっている筈だから。』
洛陽で一番の大金持ちになるほどの黄金を手中にして、普通なら一生涯の計画をたててその黄金を使っていきそうなものだが、杜子春はそういった質素倹約や節約による堅実な生活などでは我慢が出来ず、次々に高価な調度や食糧を購入し、美しい女性や美味なる名酒を集めて贅の限りを尽くす。

その華美豪奢な贅沢な生活について、以下のように芥川は筆を進める。
『大金持になった杜子春は、すぐに立派な家を買って、玄宗皇帝にも負けない位、贅沢な暮しをし始めました。蘭陵(らんりょう)の酒を買わせるやら、桂州の龍眼肉(りゅうがんにく)をとりよせるやら、日に四度色の変る牡丹(ぼたん)を庭に植えさせるやら、白孔雀を何羽も放し飼いにするやら、玉を集めるやら、錦を縫わせるやら、香木の車を造らせるやら、象牙の椅子を誂(あつら)えるやら、その贅沢を一々書いていては、いつになってもこの話がおしまいにならない位です。』

そして、杜子春が大金持ちになったという噂は瞬く間に周囲を駆け巡り、それまで寄り付きもしなかった友人知人が次々に杜子春の元に集まり、その裕福で豪奢な生活の恩恵やおこぼれを得ようとしてくる。
連日連夜、酒宴を開いて高価で芳醇な酒を飲み、舌のとろけるような絶品の料理を食べながら友人や美女と大騒ぎして盛り上がり、美女の奏でる美しく妖艶な音楽で耳を楽しませるといった酒池肉林の豪華で贅沢な生活が続きました。

しかし、苦労し労働して金銭を稼ぐといった発想がまるでない杜子春ですから、如何に莫大な黄金の財産があろうともこんなに豪華で奢侈な生活をして無駄遣いを続けていればお金は底をついてしまいます。
ふと気付けば、今までご機嫌を取ってお世辞をいい、ご追従に精を出していた友人知人は『金の切れ目が縁の切れ目』とばかりに姿をくらまし、美しい女性も影も形もありません。
労働を嫌う怠惰な性格と贅沢趣味の浪費癖の為に杜子春はまた元通りの一文無しに身を落とし、悄然として空を見上げながら途方に暮れていました。

すると、何ということか・・・自分に黄金の在り処を教えてくれたあの飄々とした老人がまた杜子春の元を訪れてまたもや同じようなやり取りが二人の間で交わされたのです。
『そうか。それは可哀そうだな。ではおれが好いことを一つ教えてやろう。今この夕日の中へ立って、お前の影が地に映ったら、その胸に当る所を、夜中に掘って見るが好い。きっと車に一ぱいの黄金が埋まっている筈だから。』
老人はこう言ったかと思うと、今度も亦人ごみの中へ、掻き消すように隠れてしまいました。

思いも寄らない幸運の再来、何と言う驚嘆すべき奇跡。
しかし、人間の性質というのはそう簡単に変わるものではなく、杜子春はまたもややりたい放題の贅沢で華美な生活を送って、怠惰で安楽な生活を貪り、浪費を続けた為に、3年が過ぎる頃にはまたまた元の木阿弥・・・一文無しの極貧の身分へと身を落としてしまったのです。
一時的に天下一の大金持ちになる莫大な黄金を手に入れても、杜子春は決してその黄金を保持して落ち着いた堅実な生活を送ることが出来ないのです。

しかし、何という信じられない事でしょう。二度大金持ちになり、贅沢な濫費をして二度一文無しになった自制心のない杜子春の前にまたもやあの不思議な雰囲気をまとった老人が姿を現すのです。二度あることは三度あるとは言いますが、杜子春が貧しく苦しい立場にたてば、必ずその老人が姿を現すようになっているのでしょうか。

そこで、その老人が再び黄金の在り処を教えようとするのですが、今度は杜子春のほうがその黄金を得ることを自ら拒否します。

『いや、お金はもういらないのです。』
『金はもういらない? ははあ、では贅沢をするにはとうとう飽きてしまったと見え
るな。』
老人は審(いぶか)しそうな眼つきをしながら、じっと杜子春の顔を見つめました。
『何、贅沢に飽きたのじゃありません。人間というものに愛想(あいそ)がつきたのです。』
杜子春は不平そうな顔をしながら、突樫貪(つっけんどん)にこう言いました。
『それは面白いな。どうして又人間に愛想が尽きたのだ?』
『人間は皆薄情です。私が大金持になった時には、世辞も追従(ついしょう)もしますけれど、一旦貧乏になって御覧なさい。柔しい顔さえもして見せはしません。そんなことを考えると、たといもう一度大金持になった所が、なんにもならないような気がする
のです。』
老人は杜子春の言葉を聞くと、急ににやにや笑い出しました。
『そうか。いや、お前は若い者に似合わず、感心に物のわかる男だ。ではこれからは
貧乏をしても、安らかに暮らして行くつもりか。』
杜子春はちょいとためらいました。が、すぐに思い切った眼を挙げると、訴えるように老人の顔を見ながら、
『それも今の私には出来ません。ですから私はあなたの弟子になって、仙術の修業をしたいと思うのです。いいえ、隠してはいけません。あなたは道徳の高い仙人でしょう。仙人でなければ、一夜の内に私を天下第一の大金持にすることは出来ない筈です。どうか私の先生になって、不思議な仙術を教えて下さい。』

この部分は、キリスト教でいえば『パウロの回心』に相当するような部分かもしれませんが、この気付き(回心)は、杜子春にとっては『第一段階の回心』であり、『第二段階の回心』は仙術修行の果てに辿りつく境地です。
お金のある所に人が集まり、お金のある人に追従してご機嫌を取る阿諛(あゆ)なる人々が群れを為します。
これを人間の薄情さや冷淡さの表れとして、軽蔑すべき醜悪な性質と見做す人たちは多いでしょうが、こういった人間の行動傾向は世俗社会では極一般的に見られるものです。
そういった人間の冷たさや酷薄さは無論、自らが利益を得たい、快楽を得たいという欲望に根ざしています。
そういった欲望を消滅すべき煩悩として、苦しみの源泉と解釈するのが仏教的な欲望観ですが、この小説の結末では欲望を超越した浄土ではなく欲望の最中にある俗世に留まりながら自分なりの生き方を獲得しようとする杜子春の姿が描かれていて、そこに芥川が考えた目指すべき人間の平穏な生活があるのかもしれません。