精神病理学のデファクトスタンダードとしてのアメリカ発DSM―Ⅳ


id:cosmo_sophy:20041101の記述で、フロイト精神分析理論における精神病(統合失調症)の位置付けを大まかに略述した。
伝統的な精神分析では、精神病と神経症の区別を『現実検討能力・現実吟味能力』の有無と『主訴である症状の苦悩や内容について健常者が共通理解できるか、また、共感可能であるか否か』に置いている。

この区別方法は、現代の精神医学でも利用可能なものではあるが、やや古典的で正常・異常の区別において恣意的な主観判断が伴うという欠点がある為、現在ではアメリカ精神医学会APA編集による『DSM−Ⅳ』*1と呼ばれる分類と診断の統計マニュアルが使用されている。

このDSM−Ⅳは、『Diagnostic and Statistical Manual of MentalDisorder』の略で、その第4版である事を意味していますが、不思議な事に医学書院という医学関連書籍の専門出版社がこの英語を『精神“疾患”の診断・統計マニュアル』と誤訳してしまっている。
正しくは、その英単語の示す通り『精神障害の診断・統計マニュアル』と訳すべきであり、障害を疾患と訳してしまったのでは、DSMの注目すべき特徴と言っていい『疾患(disease)=病気』から『障害(disorder)=機能不全』への概念移行がスポイルされてしまう。

DSMは、パソコン界のウィンドウズの様に、瞬く間に世界中の精神医療界に普及し、大きな影響力と信頼性を誇るようになったという意味で、精神医学会のデファクトスタンダードと言える。
DSMが従来の精神分析を主体とする古典的な精神医学や心理学と異なる最大のポイントは、精神医学分野からの『哲学性や主観性の排除』であり、その『科学性と客観性の強化』である。


DSMでは、現象学的な分類・診断方法(目に見える症状や行動のみを観察してマニュアルに基づき分類・診断する)を用いて多軸評定システムを採用し、それまで精神科医やカウンセラーそれぞれの理論や経験に基づいて行われていた診断的面接を主観的で恣意的な為に信用出来ないとして、誰もが同じ質問項目を決められた文面通りに質問して行う形の『構造化面接』のシステムを作りました。特に、DSM−Ⅳの診断基準に基づいて決められた形通りに行うマニュアル化された面接で、『SCID(Structured Clinical Interview for DSM)』と呼ばれるものがあります。

精神分析や一般的なカウンセリングなどの面接は、形式的には『非構造化面接』と呼ばれる自由裁量の余地の大きい、臨床家やカウンセラーの個性や理論・技術への習熟度が顕著に反映される面接です。
非構造化面接では、自由に質問や会話内容、各種技法を設定できますので、主観的な要素は強くなりますが、『診断的面接ではない治療的面接』の場合には、クライエント(患者)個人の性格や症状・病態、療法への適性に木目細かく合わせながら面接を進めていけるという利点があります。
科学的な精神医学では、治療的面接よりも客観的で的確な診断的面接に重点が置かれ、治療はその診断に基づいた抗鬱薬メジャートランキライザーマイナートランキライザー睡眠導入剤などの処方による薬物療法が主体となります。

更に、従来の難解な哲学的概念を創始して駆使するようなフロイト的な病因論や発達論・性格論を無視して、それまで絶大な権威をもっていた精神分析の象徴的な疾病概念である『神経症』の病名を精神医学の病理学から排除しました。
その為、現在の医学教育を受けた人たちは、神経症概念を診断名に用いることは通常ありません。*2
力動的精神医学の意識領域と無意識領域の区分や対立葛藤を現在の精神医学は病因論として採用することはまずありません。また、自我の心的構造論であるエスの欲望・自我の理性・超自我道徳心のせめぎ合いや無意識的願望の夢や空想、失錯行為への現れなどの理論も、医学教育の中では触れられないでしょう。
何故なら、それらは、自然科学的な方法論によって生み出されたというよりもフロイトフロイト以後の精神分析家たちが、幾多の臨床経験を積み重ねていく中で、論理的な思考を用いたり、内観的方法や因果関係の推察によって組み立てられた哲学的な趣きの強い仮説だからです。

目に見えない内的な心の動きは扱わない客観的な現象学的分類、あらゆる精神障害をカバーする為の包括的な多軸診断システム*3、そして、それを効率的かつ機械的に臨床に運用する為のマニュアル化された構造化面接を特徴とする精神病理学の統計的な分類・診断基準DSM―Ⅳは正に精神医学界のデファクト・スタンダードです。
その最大の特徴は、同じ質問内容と診断基準を用いて面接を行うので、誰がやっても、原理的には同じ結果を導くことが出来ると言う事でしょう。
面接や診察をする医師や臨床家によって、意見の相違や矛盾が生じる余地が少ないという意味でも客観性が高いとは言えるでしょう。ただ、現代の精神医学の診断が抱える問題として、安直かつ迅速な病名診断が為されやすく、それほど重篤な病態・状態でない人にも『病人アイデンティティー』*4を持たせてしまうという事が指摘されます。


また、心理学的アセスメントには、質問紙法と投影法があり、質問紙法には経験や訓練はそれほど必要ではありませんが、投影法*5、はその解釈が構造化されているとはいえ、相手の反応や答えを無意識レベルにわたって正確に解釈するには相応の時間と技術的習熟を要します。

私は、真に精神内界の機序や心的過程に精通し、精神の障害を把握して診断を下し、治療的なアプローチを図る為には、科学的でシステマティックな客観性と同時に、哲学的でシンセティック(総合的)な応用性と技法への通暁が必要だと考えています。

*1:米国の精神科医スピッツアーによって、初版が作成され科学的な精神医学の嚆矢を告げる客観性と信頼性の高い診断基準とされています。

*2:フロイトやその後の精神分析学派である対象関係論などに私淑している人や一定以上の年齢の医学者であれば、不安神経症抑うつ神経症といった病名を使用するかもしれませんが。

*3:多軸診断あるいは多軸評定システムとは、精神障害を第Ⅰ軸(axisⅠ)から第Ⅴ軸(axisⅤ)までに分類することで、内因性・外因性・心因性精神障害から広汎性発達障害や物質嗜癖人格障害精神遅滞ADHDなどに至るまで包括的かつ網羅的に精神障害を分類配置するもので、DSMの優れた特徴とされています。

*4:私は○○という病気であると診断されたから、私は○○という病気の為に苦しみ悩んでいて不幸なのだという自己同一性・アイデンティティーを持つ事で、本来、感じる異常の心理的負担や絶望感・無気力を感じてしまう。

*5:投影法には、ロールシャッハ(多義的に解釈できる不規則なインクのしみを見せて、何に見えるか答えさせるテスト)やTAT(主題統覚検査:曖昧な場面の絵を見せて、書かれている人物の言葉や内面を推察させるテスト)などがあります。