知識(knowledge)と知恵(wisdom)の相補性とユングのコンステレーション(constellation)


知識(knowledge)と知恵(wisdom)は異なるが、それらは相互補完的な関係にある。
膨大な知識も深遠な知恵もそれ単独では、世界を十全に把握し、人生の価値を思う存分満喫する事は出来ない。
私は、精神性と身体性のアナロジーとして、よく知識と知恵の対比対照や相補性を想起するのだが、個別的な知識は、必要に応じて経験的側面においてコンステレート(constellate)されなければ意味を為さない。
コンステレート、コンステレーション(constellation)とは、ユング心理学で頻繁に用いられる説明概念で、『星座のような全体的布置』のことであり、個別的な事項や部分的な要素に注目していたのでは気付く事のできない、『全体的な精神的配置の洞察』のことである。
これが、何故、知識と知恵の関係の話へとつながるのかは、やや回りくどい晦渋な説明を通しながら語っていきたいと思う。

ユング心理学の本質である精神の柔軟な可能性の洞察としてのコンステレーションは、知性にも感情にも生活状況にもあらゆる人間の営為に当て嵌めることの出来る概念であり、心理学の要素還元主義へのアンチテーゼでもある。
精神機能や心的過程をバラバラの個別的な要素として分析することよりも、私の精神が全体的にどういった配置を形成しようとしているかの流れや意味付けに注目する事によって、苦悩や絶望の精神状態にも新たな希望や回復の変容の予兆を感じることが出来るというのがユングの思想である。
個別的な寸断された心的過程や分析的に整理された精神機能への細かなこだわりや注目による執念に苦しめられることを離脱して、『自己実現的なコンステレーションを静かに待つ事』を推奨したユングの心理学や夢分析は、明らかに言語に依拠して夢の象徴化や置き換え、圧縮の幻想を打ち破ろうとするフロイト精神分析夢分析とはその手法を異にしている。


知識の欠如した知恵は、言語によって把握される合理性や一般法則化された科学知から導かれる予測性を排除した習慣あるいは行動に繋がりやすい。
知恵の欠如した知識は、行動によって実現される生活適応や動的な社会環境で要請される常識的振る舞いを排除した思弁あるいは論理に耽りやすい。
知識は、精神的な位相にあり、その基本は言語によって世界の写像を描く事にあるが、知恵は、身体的な位相にあり、その基本は実践によって生活を構築する事にある。

知恵は、知識よりも環境適応的であり、社会順応的である為に、プラグマティストが考える実利実益に結びつきやすい特長を持つが、知恵そのものには“知に基づく解釈といった遊び”が少ない。
知恵とは、適応的な行動であり、経験の蓄積や先人の伝承から得られる“実践的な振る舞い”だが、言語や記号の観念的操作(記憶・推測・結合・計算・思考)という“知識としての把握”と相互作用する事で、生活次元の営為に新鮮な認識や解釈の息吹を吹き込むことが出来る。

エクリチュール(文章)を自分の理性や感性によって読み解く読書の面白さや世界観や人生観を様々な言語的記憶や実践的経験から組み立てる興奮、それらの知識と知恵そして感情をアウフヘーベン止揚*1する人生の過程での苦悩や葛藤にこそ、人間精神の本質が開示されるのかもしれない。

知識は、言語の発生と共に自然生起し、個別の経験的事項に一般性を付与する名付け(命名)を基礎において始まったと推察される。
もやもやと心の中に像を描いて浮かび上がる表象(イメージ)を、その微妙な個別差を無視して共通理解が可能な形で言葉で定義することこそが、知識の始原であり本質である。
『私にとっては、これは橙色のオレンジだが、あなたにとっては緑色のリンゴである』というのでは、言語によって支えられる知識の体系は崩壊する。


言語体系・論理規則・因果関係・一般妥当性などによって構築される知識は、“encyclopedia(百科事典)”にインデックスとして収載されるような種類の知のあり方である。
つまり、基本的に事象と概念を照応させるインデックス型の知識なのだが、百科事典をまるごと丸暗記する事は特異な脳の構造やサヴァン症候群*2の様な驚異的な記憶能力がなければ不可能であるし、何より機械的な暗記作業は苦痛であり、モチベーションが掻きたてられない。
経験知である知恵によってコンステレートされない部分的・断片的な知識のデータベースはそのままでは無意味ではないものの、実用性や知的興奮の喚起が皆無である。

百科事典的な無機質な知識は、発展や展開のないクリシェ(定型的言語)であり、混乱や試行錯誤のない事象の定義に過ぎない。
『使用目的や価値認識のない断片的知識』は、どれだけ膨大なものになろうとも、それ単独では意味を有さない。
そこに意味や価値を吹き込むのは精神を有する主体であり、そこに新機軸を打ち出すのは、概念相互を結合させる事によって新たな知を創出する思考なのである。

しかし、それでも、まだ雑然と散らばる知識は、無秩序なまま、バラバラなままでコンステレートされない。

何をもってコンステレートの契機を見いだすか、それは経験的叡智(知恵)であり、外的環境であり、自己と異なる位相から世界を認識し概念を結合させ、価値を生み出す『他者の精神』との交錯=対話・コミュニケーションであると考える事が出来る。
河合隼雄などに代表されるユング派のカウンセリングの治療機序は、この『他者(カウンセラー)の精神とのコミュニケーションによる病める精神のコンステレーション』にあると考えてよいだろう。

全体的な心的体制・心的過程の洞察=コンステレーションが、何故、困難であり、時に苦痛に満ちたものになるのかについての問いに応えるのは容易ではないが、私の経験から述べさせて貰うならば、個別の経験的要素や断片的な精神的過程によって見失われている全体的な意味付けを洞察する為には、一度、それなりにまとまっている精神要素や固定観念をバラさなくてはいけないからだと考えている。
クリシェとは、その原義は、活版印刷術時代に用いられていた“特定の単語を印刷する為の棒”である。
日本語の氏名を刻んだ印鑑のように、それそのものはある単語を素早く機械的に印刷する用途に適しているが、違う単語や新しい概念を表記する為にはクリシェを一旦バラバラにして組みなおさなくてはならない。
これは、臨床心理学でよく言われる『死からの再生のメタファー』でもあるのではないだろうか。

固定的で変更不可な融通の利かないクリシェをとりあえずバラバラに解体して、他者(自らの精神に関心を向ける者)と共に、もう一度新しい形に組み直してみようというのがユング心理療法の機序であると同時に、人間精神の知的好奇心と知的営為のあり方の精髄ではないだろうか。
建設的な議論や対話とは、必ず『クリシェの解体と再構築』の過程を含むものであり、真剣なディスクールの読み解きと知の吸収という行為も『ある種の他者との語らい』であり、『クリシェの解体と再構築』の過程を必然的に含むこととなる。

完成されたエンサイクロペディアには、対等な視点で事象を語り合う他者が存在しない為に、知識は片付かない雑然とした部屋に散らばる衣服のようにコンステレートされることがないのかもしれない。

美しき冬の夜空を見上げる時に、瞬時にコンステレートされるカシオペア座やオリオン座のように、私たちの精神に瞬時に飛来するある意味や着想や感情、認知を生み出す全体的な配置こそが、人間固有の感動や驚愕即ち『生きる意義』を象徴するものであり、それは『私』一人では実現できない精神現象だと言う他はない。

*1:ここでは、対立する複数の精神要素や行動要素の高次元での統合・発展といった程度の意味に用いている。

*2:自閉症者の一部に見られる傑出した驚異的な記憶機能を特徴とする症候群で、サヴァン症候群の人は、世界を言語的概念で把握するのではなく、絵画的イメージの直観像で写真のように世界を切り取って把握しているとされる。その為、言語発達の遅滞や社会的コミュケーションの障害といった自閉症による知的障害が生じる場合が多く、言語機能が発達してくるとサヴァン症候群による圧倒的な記憶能力、完全な情報の再現能力は喪失されることが多い。