所得獲得の経路と経済階層の固定化の相関関係と正義・公正の原理


id:cosmo_sophy:20050302において示したのは、現代社会の経済活動において所得を獲得する方法には、大きく分類して以下の3種類があるという事、そして、雇用形態・職業選択・経済格差に関する世間一般の不平不満が“利益獲得の経路の選択と経済階層の固定化”の要素に還元されるという事でした。



1.勤労所得……企業・官庁・病院などに勤務したり、自分自身が実際に働く個人事業を営んだりして、“給与・ボーナス”といった形で獲得する所得のことです。
社会の大多数の人の経済的収入は、勤労所得に依拠しており、近代の学校制度が行う社会適応の為の教育や訓練は、勤労所得を得る従業員や専門家を養成する為のものです。

2.不労所得……マンション・アパート・一軒家・土地といった不動産資本を賃貸することによって、実際に働かずに獲得する所得のことです。特許権の所有による使用料、著作、音楽、創作物、芸術作品など知的財産権の行使によって継続的に得られる印税のようなものも不労所得に含まれます。

3.ポートフォリオ所得……株式・債券・投資信託など有価証券の配当金や売却による差額利益による所得をポートフォリオ所得と言います。一時期、日本でも採用するか否かが議論された401k型年金は、このポートフォリオ所得による利益を老後の生活資金にしようというものですが、市場の動向によって配当や売却益が大きく上下するので、現在の機能している段階での公的年金よりも安定感において劣るとは言えるでしょう。


自由市場における競争によって経済格差が拡大し、持つ者と持たざる者に大きく二極分化していくという社会現象に対して、大多数の社会人(勤務者)の反応は一般的に反発的であり否定的であります。
しかし、数学、論理学の普遍的規則を根底におく“事実命題”の真偽を万人が承認せざるを得ないとしても、善悪・正邪、正義と悪、公正や不公正といった個人的価値観や社会的立場が大きく関与する“価値命題”についてジョン・ロールズ(John Rawls 1921-2002 アメリカ)が提示した『公正としての正義(justice as fairness)』の概念を大きく超越する事は至難なのではないでしょうか。


ジョン・ロールズが、彼の代表的著作『正義論』を上梓する事で、政治哲学史倫理学に与えた最大の衝撃そして功績は、19世紀にジェレミーベンサムJeremy Bentham 1748〜1832 イギリス)やジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill 1806〜1873 イギリス)の思想の流れを通して確立された功利主義(utilitarianism)の倫理的正当性』へ厳しく懐疑的な批判のまなざしを向けた事です。

功利主義が、個人の行為規範や共同体の倫理判断として重視するのは、『行為の結果として、幸福感に直結する快楽・利益が得られるか否か=帰結主義という事であり、『自分の好きな行為を選び、嫌いな行為を回避する事が出来るか否か=選好功利主義という事です。

倫理学としての功利主義を明快平易に説明すれば、『快と効用こそ善悪の判断基準であり、あなたの自由な行為の選択の結果として“利益・快楽・幸福”が得られるならばその行為は正しい』という正しさの尺度として説明でき、功利主義を国家・社会の政治運営に応用した場合には、ベンサム『最大多数の最大幸福』が民主主義との整合性の良さもあって勢力と説得力を増してきます。
実際問題として、民主主義国家における財政政策(再分配政策)や社会政策の意志決定には、最大多数の最大幸福のロジックが非常に強い影響力を持ち、大多数の市民の利便性を高め、豊かさを増進するような政治判断は公益性や公正性が高いと評価されることとなります。

功利主義が、人間社会の善悪や良否の倫理的判断基準として圧倒的に優勢であるのは、生物全体に普遍的に見られる生存欲求やフロイトの語る快楽原則に適っている事と、自由民主主義社会の政治的意志決定においては、多数決という原理故に、マジョリティの利益を中心として判断や決定が為されていきやすいからです。
民主国家における個人的利益と公共の福祉(集合的利益)の対立を止揚して統合するのは、非常に困難な政治判断を伴いますが、その困難な判断に付随する苦悩や迷いが、量的功利主義の倫理思想によって緩和されるという風に言い換える事も出来るかもしれません。

ジョン・ロールズは、功利主義批判の前提として、“中国語の部屋”(id:cosmo_sophy:20041229)の例示によるチューリング・テスト批判で有名なジョン・サールの言語行為論の成果を継承した立場をとり、“原初的位置”と“無知のヴェール”という概念装置を用いて、正義の第一原理を定立しようと企てます。
言語行為論の前提を踏まえて功利主義の妥当性を考えると、個別的な行為の結果の利益や損失で善悪を判断するような“帰結主義(行為功利主義)”よりも、一般的に妥当する規則・規範の受容段階において善悪を判断する“義務論(規則功利主義)”のほうが、より正当性や正義性について本質的な説明を与えるものであるとしました。


国民国家及び市民社会は、それを構成する個人が自分の自然権(自己保存の権利)を保護する為に、自由意志に基づく契約を結ぶ事によって成立するという社会の起源に関する言説を『社会契約説』と呼ぶが、ジョン・ロールズの主著『正義論』(1971)は、そのような社会契約説の伝統を汲んで社会正義を考察する書である。

社会契約とは、個人の権利(主権・権力)を一旦、国家や政府といった主権者に委譲若しくは信託するという契約であり、その契約を結ぶ事によって国家権力の正当性が確立され、諸個人の権利は強力な国家主権によって保護されます。
その一方で、大多数の権利侵害というような正当な理由なく国家権力を否定する行動は反逆罪として処罰され、社会秩序を揺籃する行為は犯罪として規制されるようになります。
一度、社会契約が成立して国家・政府が誕生すると、原則として、社会構成員である個人は、選挙による政権交代や議会における法改正といった正規の手続きを踏まない限りは、政府による政治的決定や法的規制に対して抵抗することが不可能になります。

社会正義の実現にとって最も優先すべき事項は、『公正かつ公平な社会運営のルール(規範)の制定』に関する討議であり交渉であるとロールズは言います。
公正な社会運営のルールの制定に関する議論が行われる場所は、自分がどのような能力・資質・健康・容姿・気質を持つ人間か分からず、どのような経済階層・社会的地位・生活水準に所属しているかも明らかにされていない無知のヴェール(the weil of ignorance)に覆われた場所です。
全ての人が無知のヴェールによって個人情報を隠蔽されている原初状態(original position)で、どのような社会正義や社会運営の基本ルールを採択すべきなのかが話し合われると想定すると、その話し合いは必然的な論理的帰結として『正義の二つの原理』へと辿り着きます。

自分がどのような才能・資質・健康を持っていても、どんな経済階層・社会的地位・生活水準に帰属していても、まず最初に望まれるのは、政治的・個人的・精神的な自由が社会構成員全員に認められていることであると言います。
これを『平等な自由の原理』として、正義の第一原理とします。

政治的・経済的・精神的な自由が構成員相互に保障されていれば、必然的に市場経済や生活領域における自由競争が起こり、権力・地位・所得・資産・人的資源・異性などを巡って熾烈な競い合いが見られるようになります。
自由競争は、より強い権力を持つ者、より高い社会的地位に就く者、より多くの所得を得る者、より大きな資産を所有する者、より沢山の人間を雇用する者、より多くの異性を惹きつける者を生み出し、権力・財産・所得・異性獲得の不平等が発生します。

政治的・経済的・社会的な格差の発生は、資本主義経済を採用する自由主義社会の宿命ですが、私たちは自分がどれだけの権力・所得・魅力を持っているか分からない無知のヴェールに覆われた原初状態では、『自分が社会的弱者になる可能性を考慮に入れて、大きな不平等と格差の縮小・是正を求める』ルールを採用する必要性を感じます。
これが実際の政治活動として具現化されたものが、社会保障政策であり福祉国家構想であると言えるでしょう。
これを『格差原理』として、正義の第二原理であるとロールズは考えました。

格差原理は、自由競争の結果生じる格差や不平等をありのままに承認する正義の原理ではなく、『その格差が機会の平等が保証された社会で、公正な競争の結果として発生した格差であること』『社会の中で最悪の生活水準に困窮する人たちの、生活水準を最大限改善する施策を取るべきとするマキシミン・ルールを採用していること』を前提として格差が承認される『公正としての社会正義の原理』です。

無知のヴェールの下では、あなたも私もいつ社会の中で最悪な生活状況に追いやられるか分からないし、生まれながらに絶望的な経済的社会的環境に置かれる可能性が十分にあります。
だからこそ、公正としての正義の構想を実現する為には、自分を最も受け容れ難い生活コンテキストにおいてどのような社会のルールが望ましいかを考えなければならず、その結果として最低ラインの生活環境を最大限改善するようなマキシミン・ルールが採用された社会が公正な社会であるとされます。

このマキシミン・ルールが採用された社会を現実の社会に当て嵌めて考えると、最低限度の文化的生活を保障するセーフティネットが十分に張り巡らされた社会、即ち、何度、自由市場経済の競争で打ち負かされても復活することが可能な社会であるという事になります。


持つ者を勝ち組と呼んで理想化し、記号的印象付けによる付加価値を与え、持たざる者を負け組と呼んで劣等感を煽り、記号的な印象操作を行う目的が、国際的規模における政治的な意図なのか経済的な趨勢なのか、あるいは単に、著作者の印税利得の為なのかは定かではありませんが、人間の存在や精神を認識解釈するフレームワークとして勝ち組・負け組という語を選択することは、カール・マルクス階級闘争の亡霊を召喚するようなアナクロニズム(時代錯誤)を感じます。

哲学史上において二項対立図式によって、世界の根本原理を効率的かつ説得的に展開する理論は、もっともありふれたものである。
アリストテレスの形相と質量、デカルトの延長と精神、カントの現象と実在、仮象と実体、キリスト教神学など宗教が説く聖性と俗性、善と悪、光と闇、近代精神が反目させる理性と感情、東洋思想の根幹にある陰と陽の対立などの二元論(dualism)を用いる最大の理由は、世界の成り立ちや構成を単純化して把握しやすくする為であり、対照的・対極的な概念を配置する事によって直感的に世界像や社会像をイメージする事が私たちの認知フレームに非常に適合しているからです。

所得獲得の経済活動を巡る倫理的パラドックス:スキーマを介在した価値命題の視線を通して


世界の本質に目を向ける時、私たちは自然世界に対して壮大や優美を感じその摂理に驚嘆するが、一度、本質探究のまなざしをゲゼルシャフト功利主義的な利益社会)としての人間社会へと向けると、閉塞感や不平等感を感じその秩序に何らかの不満や問題を感じる事が多いものです。

誰が考えても同じ結果に至る論理学的な真偽判断や論理的必然の推測に基づく数学の定理証明などには、人間の主観的感情が介在する余地がない為、論理学の真理表に憤慨したり、ピタゴラスの定理ユークリッド幾何学に不平等感に基づく怒りを表明する人はいません。
実証主義に基づいて一般理論を導出する自然科学領域の研究そのものの成果に対しても、不満や憤りを露わにする人はまずいないでしょう。
原理的に人間の主観的な感情や意見の干渉を受け付けず、民主的な数の圧力(政治的意志決定)をもってその成果を覆すことは不可能です。
自然科学の場合に問題となるのは、新たに構築された理論や発見された法則を技術利用する場合の倫理的問題であり、経済的な利害に対する権利獲得の競争でしょう。

世界の本質や経済社会の構造、精神機能のメカニズムに怜悧で精緻な考察のメスを切り込ませる時に、私たちの認知は、真偽に関する事実命題については偏向が少なく、善悪・良否に関する価値命題については歪曲が大きくなります。
社会生活を営む私たちが、『ある現象・制度・行為を正しいものであり、ある現象・制度・行為を間違っていると考える時』には、必然的にスキーマ(知的枠組み)*1を介在して受け取られた現実認識と付帯情報が価値判断を規定していくこととなります。

スキーマは、過去から現在に至るまでの人生の中で集積された情報の集積であり、その情報の集積によって学習された認知傾向そして価値判断の基本枠組みです。
どのように、客観公正な事実認識を自認して、普遍的な価値判断であるカントの定言命法*2に限りなく近い判断や評価を下す事が出来ると確信する自然科学者や論理学者であっても、現実社会に存在する無数の価値判断や利害対立を公正無私の精神で正確・公正に行うことは不可能です。
故に、人間社会における最終的な公的善悪の裁きとして、強制力をもって機能する司法判断は、宿命的に不完全なものであり、一方で判決の正当性に歓喜し感謝する者あれば、他方に判決の不条理に悲嘆し憤慨する者があるのです。

また、自然科学の成果である自然界に関する事実命題を、人間社会の価値判断や倫理規範にそのまま対応させることは自然主義的誤謬』に過ぎず、人間社会の善悪・倫理は、自然界の動物社会や食物連鎖をモデルとして成り立つわけではないことは誰にでも自明の前提であるはずです。

稀に、自然界の自然選択(自然選択)における適者生存を弱肉強食というセンセーショナルな言葉に置き換え、人間の文化文明を進歩発展させる為には弱肉強食の競争原理に従うべきだというラディカルな社会ダーウィニズムナチスばりの大量虐殺を是とする優生思想を主張する人もいるかもしれません。
しかし、人間社会と自然世界を全く同一の道徳律の支配の下に置こうとするのは、人間理性や共感感情を無視した暴挙であり、自然淘汰による進歩以外の相互扶助や社会保障といった別経路を辿って発展することが可能である以上、社会ダーウィニズムや優生思想による進歩史観は端的に間違っていることは明らかです。

現代社会の基本形は機能性と効率性の高いゲゼルシャフトであり、市場原理に基づく経済的諸関係によってライフスタイルの規定される社会ですから、市民の不公正感や不平等感が鬱積して倫理的批判や政治的問題の矛先が向かう大部分は“お金にまつわる問題”です。
特にここ最近、勝ち組や負け組といった皮相的な二項対立図式ばかりがクローズアップされてきたことを受けて、雇用形態による所得格差に拍車を掛ける若年世代のフリーター・NEETの増加現象が指摘され、それを助長する企業運営のあり方(合理性と効率性を最優先にして、人件費を極限まで削るようなダウンサイジングなど)の問題や長時間労働や単純労働を厭う若者の就労意識がしきりに取り沙汰されてきました。そういった雇用環境や若者のライフスタイルと就労意識、経済格差がマスメディアにおける公開議論や経済関連の教養書のテーマとされることも多くなってきました。
公的年金制度や社会保険制度の存続維持が困難であるとの予測もかなり前から指摘されてきており、将来不安の高まりや治安環境の悪化も問題になってきています。

雇用形態や職業選択、経済格差に関する世間一般の憂慮や不満は、“利益獲得の経路の選択と経済階層の固定化”といった要素に還元できるように思います。
利益獲得の経路とは簡潔に言ってしまえば、所得を獲得する手段や方法のことを意味します。

現代社会の経済活動において所得を獲得する方法には、大きく分類して以下の3種類があるのではないかと思います。



1.勤労所得……企業・官庁・病院などに勤務したり、自分自身が実際に働く個人事業を営んだりして、“給与・ボーナス”といった形で獲得する所得のことです。
社会の大多数の人の経済的収入は、勤労所得に依拠しており、近代の学校制度が行う社会適応の為の教育や訓練は、勤労所得を得る従業員や専門家を養成する為のものです。

2.不労所得……マンション・アパート・一軒家・土地といった不動産資本を賃貸することによって、実際に働かずに獲得する所得のことです。特許権の所有による使用料、著作、音楽、創作物、芸術作品など知的財産権の行使によって継続的に得られる印税のようなものも不労所得に含まれます。

3.ポートフォリオ所得……株式・債券・投資信託など有価証券の配当金や売却による差額利益による所得をポートフォリオ所得と言います。一時期、日本でも採用するか否かが議論された401k型年金は、このポートフォリオ所得による利益を老後の生活資金にしようというものですが、市場の動向によって配当や売却益が大きく上下するので、現在の機能している段階での公的年金よりも安定感において劣るとは言えるでしょう。

人間の経済活動に関する価値判断の類型はおおよそ上記3種類の所得に対してどのようなイメージを持ち、どの所得を公正で善良なものであると思い、どの所得を不公正で不快なものであると感じるかによって規定されてきます。
そして、その基本的価値判断の前段階にあるスキーマは、自分の置かれている社会的・政治的・経済的状況や立場によって大きく変容し、認知的不協和を回避する為の種々の心理機制が発動してくることとなります。
誤解のないように断っておきますが、上記3種類の所得獲得の経路についてどれが正しく、どれが間違っているかという事は、共産主義や自由市場主義など極端なイデオロギーに盲目的に依拠しない限りは、客観的・絶対的に判断することは出来ません。
しかし、どのような経済活動による所得を公正なものと考えるのかの個人差は、そのままその人の理想的社会観や世界観、人間としてあるべき姿を描くイデアや道徳規範に繋がってくるとは言うことが出来ると思います。

*1:現在に至るまでの経験と学習によって形成された認知傾向

*2:カントが『判断力批判』で示した定言命法とは、『汝の意志の格率が、常に同時に、普遍的立法の原理として妥当しうるように、行為せよ』という理性の命令のことを意味します。

快楽と利益を求める功利主義の強靭な影響力


哲学史上には、倫理の指標を取り扱う数多くの思想的立場がありますが、現代社会で優勢というよりは最早支配的と言える『自由主義(liberalism)』『功利主義(utilitarianism)』の基礎を論述したのはJ・S・ミル(John Stuart Mill 1806〜1873 英)です。
ミルは、自由主義者の代表であると共に、倫理学の領域では、功利主義の始祖として知られるジェレミーベンサムJeremy Bentham 1748〜1832 英)の後継者としても知られます。

皆さんは、功利という言葉からどのような事柄をイメージするでしょうか?哲学や倫理学に興味のある人であれば、功利というのは聞き慣れた言葉かもしれませんが、一般社会では功利という言葉はあまり使用されません。また、取り立てて意識しなくても、私達は極めて当たり前に功利的に行動していることが多いものです。特に、現代社会の行動基準として、あるいは国家・企業の運営目的として功利主義は絶対的と言っても良いほどに浸透し、実際にその功利性に基づいて判断し行動するシステムが作られています。

ベンサム功利主義について詳しく触れる前に、功利の概念について簡単に説明すると、功利とは『行為の結果として得られる利益や名誉。あるいは、行為の結果としての幸福につながる利益や快楽』と言う事が出来ます。
倫理学としての功利主義を端的に表現すれば、『功利と効用こそ善悪の判断基準であり、あなたの行為の結果として利益・快楽・幸福が得られるならばその行為は正しい』という様に表現できます。

これは、精神分析学者のシグムンド・フロイトが幼児期のエス(本能的・自然的欲求)に基づく行動原理として考えた『快を求め、苦を避ける本能である快楽原則』に通底するものがあります。
この倫理基準は、宗教的信念が排除され、アニミズムを感じる感性や環境が衰えたマテリアリズム(物質主義)の現代社会において非常に強力無比な力を持ちます。

砕けた表現で言えば、『功利主義を採用すれば、その行為をやって得をしたり、気持ちよかったりするならば正しい』『功利的には、個人的な利己心を満たす行為は正しい』とするのが功利主義であり、哲学の流れで考えれば神に隷従して利己的欲求や快楽の享受を禁圧してきたキリスト教的な禁欲主義に対するアンチテーゼでもあったのです。
こうした利己的欲求を素直に肯定する思想は、18世紀あたりまではかなり異端的な思想でした。東洋世界においても、利己的欲求を抑制して、公共の秩序や社会の利益に挺身することこそが正しい生き方であるとする儒教的な倫理観は近代に入ってからも根強く残っていますし、現代でもそうした価値観が否定されているわけではありません。

西洋哲学において、私的欲求を肯定する嚆矢となったのは、デイビッド・ヒュームの『人間本性論』『道徳原理の探求』やアダム・スミスの『道徳感情の起源』『国富論』などだと言われます。特に、スミスの唱えた自由市場経済を需給バランスのとれた方向へと予定調和する『神の見えざる手』の概念などは、個人的欲求の肯定が社会全体の利益につながるとした強力な思想でした。
アダム・スミスといえば、資本主義経済の基礎理論を構築した人物として非常に有名ですが、倫理学の分野でも大きな功績を残しています。他人の為に自分を犠牲にすることもある人間の利他性の起源を求めて、利己的欲求が他者への共感感情によって抑制されたり、反対に自己犠牲的な行為になったりすることなどを考察しました。また、人間は相互的に共感できる範囲で自由気ままに利己的に振る舞っても道徳的に非難されるべきではないとする倫理観を呈して、後のミルの自由主義の考えにも影響を与えたとされています。

ベンサムは、快楽・利益を計算可能な“量的なもの”として考え、社会の倫理的な究極の目的とは、『最大多数の最大幸福の実現』であるとしました。
ベンサムにとって、快楽や利益は、食欲を満たせば5の快楽、欲しい商品を取得すれば7の快楽というように数値化して量的に把握できるものなので、ベンサムは快の総和を出来るだけ増加させ、不快・苦痛の総和を出来るだけ減少させることが倫理的な行為の目的だと考える事になったのです。

ベンサムの思想の最大の特徴は、人間が構成する社会を、『無個性で均質的な個人の寄せ集め』と考えたことです。
この思想は、自らを神のような世界を俯瞰する立場に置いたものであり、人間個々人の性格・人格や趣味・嗜好、行動傾向といった“個性”を無視するといった点に欠陥があります。
その為、実際にはベンサムが考えたような単純な快楽・苦痛の功利計算を行って、理想的な社会制度や政治行動を行うことは不可能だという事になります。人間の幸福とは、おいしいものを食べられたから幸せとか高級品を手に入れれば幸せという風に単純なものでもないし、それらの相対的な満足度を数字で比較できるようなものでもありません。

そういった人間個人の幸福や利益・快楽に対する個人差に注目して、ベンサムの量的功利主義を改良したのが、質的功利主義を提唱したのがミルでした。
ミルの質的功利主義とは、ベンサムが単純な物質的快楽を重視したのに対し、人間の快楽は物質的・精神的快楽の両面があることに注目しなければならず、ある人にとっては『自分の身を犠牲にして、愛する人を助けることが快楽や幸福になりうるし、人間には本来的にそのような道徳的幸福を感じ取る能力がある』とするものです。

ミルは、精神的快楽の理想的境地として、イエス・キリストの黄金律として知られる『自分がして貰いたいと思うように、あなたの隣人にしてあげなさい。汝自身を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい』を挙げているようです。
そうした非常に道徳的な価値観をも加味して人間の善悪の基準や快楽・利益の分量を考えると、ベンサムの量的功利主義では全く人間の幸福を計算することが不可能であることが分かってきます。

とはいえ、ベンサムの物質的快楽・利益に注目した量的功利主義と、快楽・利益の質的な差異や個人差の視点を取り入れて精神的快楽・利益を同時に考える必要性を提唱したミルの質的功利主義は『功利主義の車の両輪』です。
そして、ミルの思想が最大の光輝を放つのは、『自分自身の幸福追求の為の自由』の相互尊重を説く『自由論』における自由主義といえるでしょう。

自由主義功利主義というのは、人間の自然な本能的欲求を肯定して、社会規範や公共の福祉よりも原則として個人の自由・利益を重視する思想であり、現代社会においては圧倒的な支配力を持つ思想です。
もちろん、自由主義功利主義には、長所・利点もあれば、短所・欠点もあり、現在では行き過ぎた自由主義個人主義が社会問題の根底にあるとする見解もよく聞かれます。


この文章は、2004年10月23日において書いたものですが、id:cosmo_sophy:20041024、id:cosmo_sophy:20041025などと合わせて読む事で、倫理学的な価値判断として優勢である帰結主義功利主義の概略を知ることが出来ます。

私が、皇太子妃雅子さまとSO(スペシャルオリンピック)について前述した『過程の美学』は、功利計算の計算結果に左右されないものであり、満足した豚や満足しないソクラテスといった知性至上主義への人間主義的な反駁として解釈することも出来ます。
現代の自由主義思想の強力無比な政治的文脈において優勢な価値判断として選好功利主義がありますが、過程そのものへの没頭や忘我によるエクスタシーやカタルシスである『過程の美学』は、一度その過程の波間に巻き込まれれば選好による判断さえも前提条件として要しないかもしれません。

皇太子妃雅子さまの公務復帰延期とSO(スペシャル・オリンピック)について

皇室:雅子さま、SO冬季世界大会出席を中止 出発1時間前に−−数日体調すぐれず



宮内庁は26日午前、同日午後からの予定だった皇太子妃雅子さまの長野県訪問を取りやめると発表した。「スペシャルオリンピックス冬季世界大会」出席のため、1年3カ月ぶりの地方での公務として皇太子さまと訪れる予定だった。同庁によると雅子さまはここ数日体調がすぐれず、医師団から「長距離の移動に続く公務はまだ負担が重過ぎる」という意見も出て、出発の約1時間前に中止が決まった。皇太子さまは予定通り訪問する。

皇太子ご夫妻は、26日午後に新幹線で同県入りし、開会式には皇太子さまだけが出席。ご夫妻で27日にフロアホッケー競技を観戦して同日午後に帰京する予定だった。

雅子さまは1月2日の新年一般参賀に出席した後、東宮御所での公務を時折務め、今月中旬には長野県で静養した。22日には都内で公務として文楽公演を鑑賞していた。同庁は「体調には依然として波があり、今は悪い方の状態。静養と公務では同じ移動でも負担が大きく違う」と説明している。【竹中拓実】


皇太子妃の雅子さまは、知的発達障害者の方達への支援や教育に以前から強い興味を持っておられ、日本国内での知的障害者を含む発達障害者に対する協力支援体制の未整備、国民の正しい理解や知ろうとする意識が低いことを憂慮されていたようです。
雅子さまの1年3ヶ月ぶりの地方公務として、知的発達障害者の人たちが普段の練習の成果を発揮する場であるスペシャルオリンピックスが選ばれた事は歓迎すべき事でしたが、今回は心身の回復がまだ十全でないという事で直前のキャンセルとなりました。
遠距離の移動による身体的疲労や大勢の人の前で行う公務に伴う心理的緊張が、順調な心と体の回復過程を妨げるストレスや負担になる恐れがあるという判断であり、抑うつ気分を伴う適応障害では安心してくつろげる環境調整が第一選択の対応になりますので妥当な判断だと思います。

最近、パラリンピックを嚆矢として国際的な規模での障害者のイベントやスポーツ大会が増えていますが、障壁を低くした健常者と障害者の自然な交流の場が増えるのは良い事です。
障害者も健常者同様の生活を送れるような街づくりやバリアフリー社会の構築という理念や計画ばかりが先行して普及する中で、一般の人たちが、精神や身体の障害を持つ人たちの実際の姿や気持ちに触れられる場はそう多くありません。
現在では、デパートやコンビニ、公共施設の駐車場の多くには、障害者専用の駐車スペースが用意されており、公共のトイレにも障害者専用の使い易いトイレが設置されてきていますが、時に、健常者の人がそういったスペースや施設を、『待たずに早く車を停めたい・トイレを早く使いたい』といった個人的な都合によって利用しているケースがあります。
本当に、心身障害者の立場に立って、身体が思うように動かない不自由さの制約があって広いトイレしか利用できない事実や広いスペースでないと停める事が不可能な視覚や運動機能の障害の存在に思いを巡らすことが出来れば、その場の短絡的な利便や安楽を求めて障害者専用のスペースや施設を気楽に利用することは出来なくなるのではないかと思います。

各種の障害を有する方々のスポーツ大会や作品の展覧会、イベントなどの素晴らしさは、健常者のオリンピックや著名芸術家の展覧会における高度な技術や能力の優劣を競い合う素晴らしさとは質的に異なるものです。
障害による不自由さや能力の制限というハンディキャップと無関係に、日々の絶え間ない練習や苛酷な訓練といった努力の蓄積によって、“自分のもてる能力の限界すれすれの成果”を披露・発表することに人々の魂を揺さぶる感動があります。

オリンピックでもプロスポーツでも一流の芸術家の作品展であっても、そこには必然的に『結果の優越』が求められ、平均的能力からの卓越がなければプロスポーツ選手として承認されることはなく、凡庸な標準的創作物との明瞭な差異と評価がなければ芸術家として讃えられえることはありません。
パラリンピックやSO(スペシャル・オリンピック)の開催意義として認知されるべきことは、現実社会で大勢を占める相対的な優勝劣敗の帰結主義功利主義の呪縛を離れて、障害者の方達の自己表現の場、大勢の観衆から注目され評価されるパフォーマンスと交流・対話の場が公共圏に用意されることにあります。

そして、SO(スペシャル・オリンピック)の最大の魅力は、障害者・健常者(観客)・ボランティアが心地良い興奮と熱狂の一体感に包まれることにあります。
見られる者と見る者が織り成す熱狂的な一体感に包まれる時に生まれるものは、『演技者・競技者』と『観衆・ボランティア』が双方向的に肯定的かつ支持的な影響を与え合うダイナミズムであり、そのダイナミズムの渦中において『人間存在の尊厳を深い次元の充足感と解放感によって感得できる』ところに現実の日常生活では獲得し難い感動と勇気の高まりがあるように思えます。

誰もが子ども時代には持っていたあるいは感じていた、一心不乱に頑張って物事を成し遂げるという達成感や自分の能力の限界まで懸命に挑戦することの意義を、私は『過程の美学』と呼びたいのですが、私たちはともすれば慌しく余裕の乏しい生活環境の中で過程の美学を喪失して、『結果の力学』のメカニズムの中へと埋没してしまいます。
雅子さま適応障害の苦難や心痛にとって、SO観戦による『過程の美学』の想起と体感が起こったならば、きっと良い方向での心理的刺激が与えられる事になったのではないかとも思うのですが、未だ心の状態と体調が思わしくないという事でキャンセルとなり残念ですが仕方ありません。

元々、外務官僚として高い知的資質と実務能力を持っておられた雅子さまだけに、皇太子との結婚が現実味を帯びてきた頃から、皇室の一員、将来の皇后としての責任感や使命感を誰よりも強く自覚されておられた事と思います。
通常の生活環境や社会環境の中ではおよそ経験することが想定できない種類の責任感であり、雅子さまのように平均以上の歴史・文化に関する深い造詣があれば、国家や民族の歴史性の一部に象徴的に自らが収まるという重圧感はやはり大きな心理社会的ストレスとなり得るでしょうね。
卓越した有能さや思慮深い知性を持てばこそ、高い要求水準を課せられる外部環境や人間関係から受け取るストレスが蓄積しやすいという逆説的な事態とも言えますが、ゆったりと時間をかけて環境への適応と義務意識の低減を図っていき、周囲の宮内庁の関係者などが不必要なストレスをかけないような対応、振る舞いを注意することが望ましいですね。

国民からの期待や理想化に必死に応えなければならないという意識や一刻も早く回復して公務に復帰したいという強い意志が強度の心理的ストレスになっている事も考えられますが、国民の一部が天皇家に抱くような理想的な家族像や完璧な人格性への過度な期待・要求というのは当事者でなければ分かりえない重圧感や拘束感があることだとは思います。
かなり心身の状態が上向いてきているということですので、漸進的に回復されていくと良いなと思います。
天皇制の存廃議論や女性天皇承認の議論は、現実社会でもネット世界でも頻繁に取り交わされています。
そういった議論もとても大切で有意義だと思いますが、政治的歴史的な問題意識から離れて一人の人間としての皇室の方々を見ると、現代社会において国家・国民の象徴であり、民族の歴史性の具象である天皇家の一員となることは想像を絶する物理的・心理的束縛の環境におかれることでもあり、とても苦労と懊悩の多い公的立場だという思いがあります。





第一章 天皇

第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。 

第2条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。

第3条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。

第4条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。
2 天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。 

第5条 皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には、前条第一項の規定を準用する。

第6条 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。
2 天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。 

第7条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
1.憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
2.国会を召集すること。
3.衆議院を解散すること。
4.国会議員の総選挙の施行を公示すること。
5.国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
6.大赦、特赦、滅刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
7.栄典を授与すること。
8.批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
9.外国の大使及び公使を接受すること。
10.儀式を行ふこと。 

第8条 皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、国会の議決に基かなければならない。

適応障害気分障害について詳細に知りたい場合は、id:cosmo_sophy:20050203などをご覧になってみて下さい。

過程の美学について語る流れで功利主義について触れましたので、次項で、過去記事の中の帰結主義功利主義についての記事を再掲しておきます。

薬物に関するメモ:サメの擬似科学とマリファナの違法性の問題

  • 海洋生物に関する俗説として、サメは癌に罹患しないと言われていたが、現在のサメの生態に関する観察結果からサメも癌に罹患することが判明している。

サメが癌にならないという俗説からの類推で、サメの軟骨の抽出物には抗癌作用や癌予防作用があるという擬似科学が唱えられており、健康食品にも癌への効果があるという売り込みがなされたりしたが、その信憑性は極めて怪しくなった。
仮に、癌に対する有効成分が含まれているとしても、サメ軟骨の抽出物の経口投与によって、癌の病変部位や血管新生部位にまでその成分が到達するという保証がないことも考慮する必要があるが、効果を強く信じて飲むことによってエビデンスのない薬品や健康食品が奏効するプラセボ効果は期待できるかもしれない。

  • 日本では大麻マリファナ・ハシシ(大麻樹脂)・ガンジャ)は有毒性・害毒のある麻薬として指定され取締りの対象である。大麻取締法は、昭和23年に制定され、昭和38年に現在ある刑罰の量刑へと改訂されている。

しかし、大麻の身体・精神への毒性や社会的害毒に関する米国薬害研究所(NIDA)、メルクマニュアルや弁護士による独自調査などの研究・調査の報告結果から、大麻はアルコールや煙草と比較して著しく毒性や害悪が強いものではないため、大麻取締法違憲性を主張する動きもある。
特に、NIDAの一部の研究では、マリファナの耐性・依存性・禁断症状は、カフェインと同等であるとしているようだ。

この場合の違憲性とは、憲法13条(個人の尊重と幸福追求権)、14条(法の下の平等)、31条(処罰に関する法定手続きの保証)である。
しかし、最高裁判決では、科学的知見や科学的実証性に触れることなく、大麻は歴史的に規制されているが故に有害であり社会的な害毒になるとして大麻取締法の合憲性を認める判決を出しているようである。
諸外国の薬理作用や薬害に関する臨床研究や基礎研究のデータが信用ならないとするならば、大麻は癌やエイズの症状進行に伴う耐え難い疼痛緩和など安全性の高い医療利用も考えられることから、日本独自の調査研究を公的機関において進める意義はあるかもしれない。

しかし、大麻に対する安全性がメルクマニュアルなど医学的権威のある専門書から指摘される一方で、ドイツの若者14〜24歳を被験者とした大麻の継続使用の影響についての調査で不快な精神症状を誘発する可能性があるという結果が出されている事にも留意する必要がある。
完全に個人の嗜好品として一般に使用しても安全なのかどうか、煙草やアルコールと比較して有害性の程度が低いのかどうかは、もう少し慎重な大規模調査を行ってからのほうが良いかもしれない。
また、医療利用であるならば兎も角、煙草ではなく大麻を積極的に娯楽として使用する必然性が乏しいことからも、司法領域において前例踏襲の保守的傾向が根強い日本における合法化は難しいようにも思える。

致命的な癌発症リスクのみに着目すれば、煙草よりマリファナのほうが安全であるし、長期間大量摂取による精神荒廃から死亡のリスクに着目すれば、マリファナよりアルコールのほうが危険である。また、依存性の観点からも煙草に含まれるニコチンのほうが強いと言われるが、マリファナは作為体験を伴う幻覚や破壊的攻撃的な妄想作用こそないものの軽度の陶酔感と酩酊感によるトリップをもたらし、記憶・知覚・判断機能の低下といった精神作用を持つ為に一般的に麻薬というイメージが強い。
違法な麻薬と合法な向精神薬・合法な依存性のある嗜好品との境界線には曖昧な部分もあるが、精神状態に与える影響力の強弱によって現実認識能力に障害が起こらないか、使用による自傷他害の危険性はないか、依存性・耐性の形成によって離脱不可能になる禁断症状がでないかといった観点から考える事になるだろう。

マリファナの場合には、依存性・耐性は極弱いものであり、他人を傷つけるような類の幻覚妄想の恐れもないが、やはり、精神症状として現実検討能力の低下による陶酔感・トリップが起こる事が警戒されているのではないか。
しかし、マリファナの陶酔とアルコールの酩酊のどちらがより有害性が高いのかは微妙なところであり、酒の場合は合法的に容認されてきた歴史が長い為に問題視されない慣習が成立しているということになるだろう。仕事の報酬としての酒を楽しみにして働いている者の数が無視できないほどに多く、社交の場の親近感を促進する道具としても使われる為、今更禁止できないという政治的判断によるものだと解釈されることになりそうだ。

ただし、アルコールを基準とした有害性の強弱のみで、中枢神経系へ作用して精神状態の変化を引き起こす薬理作用のある物質を無条件に認可してよいという判断を下すのは安直かつ早計であるようにも思える。
絶対に使用しなければならない疾患や障害などの必然性がないのであれば、積極的にその使用を促進する娯楽化を進める意義は乏しいという見方も出来る。
自由主義の精神や理念からすれば、取り締まるべき具体的根拠がないならば全て解禁すべしという答えになるのであろうが……。

大麻は非常に短期間で生長する繁殖力の旺盛な植物なので、環境保護の為の安価な繊維・紙・建築材料などの生物資源としての利用のほうがこれから注目されるかもしれない。

アルコールは、大量摂取が習慣化して依存性が形成されると、虚血性脳卒中など脳血管障害のリスクを飛躍的に高めるとも言われるが、適度な飲酒は循環器系の働きを活発にし、精神を穏やかにリラックスさせる効果が期待できる。
何事も、節度ある適切な分量で自制することが肝要である。

神の恩寵から離れた優美さ・生と隣接する死と愛


神の属性が、一切の過失と欺瞞のない完全無欠さであるとすれば、神の恩寵(grace)は、人間よりも動物に多く与えられている。
人間の行動やコミュニケーションは目的志向や自己意識によって規定され、目的達成や自己意識の満足に向かう過程には幾多の過失や欺瞞がつきものであるが、種の保存という自然的本能に行動を規定される動物には意図や自我がない為に人間から失われつつある純朴さや率直さが見られ、過失や欺瞞という次元で行動やコミュニケーションが否定されることはあり得ない。
新約聖書におけるgraceは、神の恩寵を指示するが、一般的にgraceとは優美さ、しなやかさのことを意味する単語である。

優美とは、芸術が到達すべきイデア的な形象であり、私たちの精神が追求する美の理想型、即ち理知と情動の働きが統合された無垢な心地良さを計らいなしにもたらすものだと考えられる。
真に優美な動作、現象あるいは人工的な芸術、創作には、言語・文化・宗教・民族の障壁が存在しないことが前提条件になる。
サラブレッドの流線型の肢体が躍動する瞬間や猫が高いところから滑らかに音も立てずに地面に着地する姿に、自然界の優美を感得する時、そこには言語的に記述されるべき理由や原因は存在しない、更には文化固有の価値や意味に左右されない原初的なしなやかな優美さがある。
動物や自然現象が人間の認知に無条件に投げ掛けてくる優美さと人間が作為的に制作する芸術作品の優美さは明らかに異なるものだが、それでもなお真に優れた芸術とはより普遍的な妥当性や説得性を持つものとは言えるのではないか。
特定の民族や地域、文化にしか通用しない狭隘な美の表現である芸術は、そういった枠組みや制限の少ない解放された美の表現である芸術よりも、真の優美から遠い地点にある。

特定の要因に束縛されたスノッブな美の表現としての芸術の多くは、非常に簡単明瞭な物語や言語へと還元できることが多い。
簡単明瞭な物語とは、フロイトの無意識から導かれるファルス(男根主義)やリビドーの性的衝動にまつわる快楽的な物語であったり、ユングの普遍的無意識とアーキタイプ(元型)から導かれるグレートマザー(太母)、アニマ(男性の持つ女性像)、アニムス(女性の持つ男性像)などの普遍的心像から構成される神話的世界の物語であったりする。

世俗的に賞讃され消費される美の源泉には、『権力への意志・快楽への欲望・幻想への耽溺・自然の複製』を暗黙裡に指し示す要素が、メタファーとして随所に散りばめられている。
鑑賞者は、芸術のテーマ(主題)・構成・彩色・象徴・リズム・素材・技術などからそれぞれメタファーを読み取り、作者の無意識的な意図や欲望をデコード(解読)して言語的に了解し、美と快の結合に成功することとなる。

自然の美と芸術の美は異なるが、いずれも人間精神が対象を知覚して認知し意味づける過程において生起するものであり、文化的・心理的システムを介在しない美は存在しない。
あるいは、文化と心理を構築する為の言語の存在がなければ、美は成立しないのかもしれず、私たちは直感的に事物・現象から美を感じ取ったと思った瞬間に、言語が支配する意識の領野で美を咀嚼して味わい尽くしてしまう。

ポール・デルヴォーの描く深夜の街頭と女性の裸体の幻想的で倒錯的な美と精神の擾乱は、おそらく近代文明圏の文化や倫理に大きく依存して醸成される美であり、フロイトラカンの理論によって言語的に説明可能な美である。
グスタフ・クリムトの描く絵画の優美さや恍惚とした陶酔の感覚も、現代よりも19世紀後半のオーストリアという性倫理観の厳しい時代においてより一層の彩りを増す。
クリムトの絵画は、精神分析学と印象派絵画の架橋とも言われるが、エロスとタナトスという両極の欲望が表裏一体であることをシンボリックに一枚の絵で、あるいは複数の絵で示しているように思える。

現代美術がかつての芸術の黄金時代のような人を魅了する抗い難い力を失ったのは、絵画の衰退や才能の枯渇ということではなく、芸術を鑑賞する固定的な文化や情報の前提的基盤が緩やかに崩壊しているからかもしれない。
エロスとタナトスが非本来的なあり方で玩弄され嘲笑される時、人々は美への欲求や憧憬を失う。
それは、死せる宿命の自覚によって生起するファム・ファタル(運命の異性)との愛への幻想の終焉とパラレルであり、そういった炎が消えつつある時にニヒリズムの冷ややかな指先が背筋に迫り、洗練された優美な状況も遠景に退くのである。


ここまでで語ったことは、美の通俗的な言語的解釈に過ぎず、基本的に生の豊穣と官能の美の領域を逸脱できていない。
メタファーやシンボルに依拠しない美の秘密は、実際に現象や事物に美を見いだし、それを物象化する芸術家の変換規則そのものに内在しているのかもしれないが、それは無理に脳科学的に分析するよりも永遠にブラックボックスのままであるほうが良いような気もする。

人間の美は、神や動物の苦悩や逡巡無き美からは離れるべきであろう。

あびる優の窃盗行為のカミングアウトと放送倫理:ライブドア対フジテレビの経済問題


万引き告白:女性タレントを聴取 警視庁、処分検討――毎日新聞



日本テレビ系のバラエティー番組で、女性タレント(18)の窃盗行為をクイズの題材にしていた問題で、警視庁少年事件課がタレントから窃盗容疑で事情聴取していたことが分かった。調べに対し、タレントは容疑を認めているといい、警視庁は児童相談所への通告も含め検討している。

タレントが窃盗行為を告白したのは15日深夜に放送された「カミングダウト」。出演者が告白した内容の真偽を当てるクイズ形式の番組で、タレントは、「本当の話」として過去に倉庫から商品を段ボールごと盗んだと告白した。視聴者から抗議が相次ぎ、所属事務所のホリプロは、タレント活動を自粛させている。


2月15日に放送された『カミングダウト』という自分の過去の重大事件やハプニングを告白するクイズ番組で、女性タレントあびる優が告白した集団窃盗の衝撃告白がインターネットの掲示板やブログ界隈で大きく取り沙汰されています。
集団強盗という表記が日本テレビのウェブサイトや各種ブログで為されていることもありますが、告白内容からするとニュース報道通り窃盗行為であるようです。
暴力行為で強引に他人の金品を奪取したり、威圧や脅迫によって盗み取る強盗罪と他人の目を盗んで財物を掠め取る窃盗罪は、その犯罪行為の内容が異なりますが、窃盗よりも強盗という言葉を使ったほうがよりセンセーショナルで世間を驚かせる衝撃性が強いという事で日本テレビ側は“強盗”という表記を選んだのでしょうか。

いずれにしても、窃盗という犯罪行為を面白おかしく笑い話として取り上げる事に対する倫理判断の欠如と一般常識の麻痺が、10代のあびる優だけではなく、30代以上の年齢的に十分な善悪の分別がついていて然るべき世代の関係者にまで見られるというのは憂慮すべき深刻な事態でしょう。
撮り直しの効かないリアルタイムの生放送ではなく、幾らでも編集や改変が出来る収録放送であるのに、何故、事前に法的・倫理的に問題のある告白部分を削除しなかったのかは芸能界やテレビ業界の外部の人間の常識感覚からは計り知れない部分があります。

日本テレビの番組制作者、ホリプロ社員、番組出演者、あびる優本人の全ての倫理判断能力や遵法精神が麻痺していたか、若しくは、(あびる優の年齢を考慮せずつい数年前の窃盗であるのに)過去の犯罪であればそれほど真剣に問題視する視聴者や警察関係者は現れないだろうと根拠皆無な楽観をしていたのか分かりませんが、数多くの関係者が協力して作り上げる番組制作の場において、正常な倫理感覚に基づく適切な判断・指示を出せる人材が一人もいなかったというのは残念であり、今後の娯楽番組制作において同じ轍を踏まないかと心配でもあります。

ライブドア堀江貴文社長が、ニッポン放送株を時間外取引きで大量取得して、フジテレビの実質的な経営権を獲得しようとしていることに対する懸念として、『新興ベンチャー企業が、マスメディアを支配する事によって放送の公共性や公益性が毀損される』といった批判がありましたが、こういった放送内容に関する不祥事が頻発することからは、現在の民放各社に確固たる公共性についての崇高な理念や報道のビジョンが存在するとは到底信じられないという事も言えると思います。

アミューズメントの要素を重視した娯楽番組はいい加減な部分もあるが、ジャーナリズムに基づいた報道ニュース番組には、崇高な理念があり、国内外の事実を視聴者に伝えようとする使命感を強く持っているという言い分にも一定の理解は示したいと思います。
しかし、若年世代の価値観や倫理観に無視できない大きな影響力を持つテレビの娯楽番組やエンターテイメントをいい加減に作ってよいというわけではなく、最低限の公共性や有害性への配慮を働かせて面白い番組を制作していく責務がテレビ局や芸能人にはあるのではないでしょうか。

ライブドアフジサンケイグループの対立の場は、ニッポン放送による新株予約権発行の対応策を受けて、市場経済から司法判断へと移されるようです。
リーマン・ブラザーズと組んだライブドアM&A(企業の合併・買収)の問題の本質は、放送の公共性や公益性といった視聴者が真実を知る権利や情報受信によって得る利益にまつわるものというよりも、TOB(株式公開買付)によらない時間外取引M&Aを主な対象にした株式市場のルール再編とコーポレイト・ガバナンスの将来像に関するものではないかと考えています。
もっと砕けて言えば、ライブドアのような新興勢力が正攻法ではない奇襲攻撃や予想外の行動によって、経済界の既成秩序を構成している旧勢力(伝統と歴史のある大企業)を買収して経営の主導権を握ろうとする事を、どう考えるのかという事です。

現在の伝統ある大企業による秩序を維持する為に経済制度を改変して予測困難な株式取引を規制するのか、それとも自由競争原理の流れの中のパラダイム・シフトと捉えて、段階的に経済取引の規制や障壁を取り除いていくのかといった事になってきますが、外資参入の障壁を低くすると、自己資本比率の低い企業が軒並み外資によるM&Aの危険に晒される恐れがあるなど難しい問題だと思います。
透明性と公平性に劣る時間外取引きが主となり頻繁に企業の合併や買収が行われ、マネーゲームとしてM&A拡大が起こるのは、日本経済にとっても大部分の個別企業にとっても余り好ましいものではないと考えられますので、透明性や公平性が確保された新たな株式取引のルール作りが求められる事になるでしょう。
法務省の見解では、現在の株主の利益を損ねる明らかに敵対的なM&Aに対しては対抗策を取れるように会社定款を変更できるようにすべきとしていますが、完全な自由競争による企業の所有権・経営権の奪い合いの弊害を考えると一定のルールに基づいた対抗策の必要はあるように思えます。

また、ニッポン放送とフジテレビ側が、ライブドアの買収に対してとった総額158億円新株予約権発行の緊急対抗措置も、商法の規定に対する違法性が指摘される際どい対抗策であり、株式会社の所有権が株主にあるという前提を覆すものでもありますね。
今後、ライブドア側の新株予約権発行の差し止めに関する提訴に対して、東京地裁がどのような司法判断を下すのか注目したいところです。


ライブドア対フジテレビの株式取引と経済問題の話に脱線して、あびる優のカミングアウトと自己顕示欲や承認欲求に関する青年期の心理について十分に述べることが出来ませんでした。また、機会があれば、あびる優の話題から離れて青年期の心理問題についても詳述したいと思います。