子どもの沈黙の理由を語るグッドウィンのBLIND理論


性的虐待を受けた子どもの大半は、その行為に嫌悪や不快を感じていても、それをはっきりと言葉で表現して拒絶することが出来ない。
子どもが何故、性的虐待に対して沈黙を守るのか、拒否の意思表示が出来ないのかという理由について、グッドウィン(J.M.Goodwin)は、父−娘間の性的虐待を調査して、子どもが沈黙を守る5つの心理的特徴の頭文字をとって『BLIND(目隠し)』理論を提示した。

  • Brainwash(洗脳)……繰り返し一般常識や正しい性知識とは異なる言葉を、子どもに囁きかけて、知識や判断力の乏しい子どもを間違った方向へと洗脳しようとする。『お父さんがこういった性行為を行うのは、愛情表現なんだよ。友達のお父さん達も家ではこういう事をしているんだよ』『この行為は、二人だけの秘密にすべきもので、誰にも話してはいけないことなんだよ』といった恣意的な性知識を与え続けることで、子どもを思い通りに支配し操作しようとする。
  • Loss(喪失)……性的虐待の事実が皆に知られれば、お前の周囲から大切な人達がいなくなり、お前は愛情や友情を喪失することになるのだといった内容の脅しを明示的あるいは暗示的にかけて、二人だけの秘密の保全を図る。『お母さんがこの事を知ったら、とても悲しんで、家を出て行くことになるぞ』『お母さんがこの事を知ったら、ショックで自殺してしまうぞ』『友達にこの事を話したりすれば、友達は気持ち悪がってお前の元から離れていくぞ』といった子どもの喪失感にまつわる恐怖や一人ぼっちになる不安を煽り立てる形で脅しをかける。
  • Isolation(隔離)……自分が性的虐待をしているなどという事実を信じる大人は、この世界のどこにもいないという自己保身の為の嘘をついて、子どもを外部の社会環境から家庭環境へと隔離し囲い込もうとする。子どもが他の大人や友人から正しい性に関する情報を得たり、テレビ・書物・雑誌などから虐待に関する知識を得たりすることがないように、外部情報を出来うる限り隔離して隠蔽しようとする。
  • Not awake(未覚醒)……睡眠中、就寝直前、早朝の覚醒時など意識水準が低下している時間帯を狙って、加害者は性的虐待を行い、子どもの記憶の曖昧化を図ったり、性的行為をエスカレートさせたりしようとする。性的虐待の前に、殴る・蹴る・叩くなどの身体的虐待を加えて、精神的に萎縮させたり、判断力を低下させ、その隙に乗じて性的行為を行うこともある。いずれも、意識の覚醒水準の低下と記憶の曖昧化、証言の根拠不十分を意図した狡猾な計算高さの現れた行為である。
  • Death fears(死の恐怖)……直接的な恫喝であり脅迫として、『この事を他の大人に喋ったら、お前を絶対に殺す』といった究極的なメッセージを与えて、子どもを恐怖心や不安感で凍りつかせ常識的な現実検討能力を麻痺させることで完全に心身を支配しようとする。


発達の極早期から性的虐待が行われ、性行為を純粋な愛情の表れだという情報操作(洗脳)を念入りに施されている場合には、子どもは真剣に『愛情を獲得する為には、性的行為を有効に用いればよい』という愛情に対する認知を獲得してしまうことがあり、二次的な性被害を自ら誘発してしまう危険性もある。

親の性犯罪に対する考え方や潔癖な性倫理観によって、親以外の大人から受けた性的虐待を子どもが親に話せないといったケースも考えられる。
親が、性的な被害を受けることそのものが、人に言えない恥ずかしい事と考えていたり、性に関連する事柄を表立って語ってはいけないという倫理観を顕著に示している場合には、子どもは自分が被害者であっても罪悪感や後ろめたさを感じてしまい親に話すことが出来ないことがある。
その場合には、子どもの側に、性的虐待を話した場合の親の反応に対して悲観的な予期が働いていて、『どうせ親に話しても信じてもらえないだろうし、加害者を糾弾するのではなく、自分の落ち度を責めたり、性被害が外部に漏れる事は恥ずかしい事であるといった世間体ばかりを気にするだろう』と考えていたりする。
また、愛する両親を、嘆き悲しませたり、落胆させパニックに陥らせたくないという子どもの精一杯の配慮や思いやりが働いて、沈黙を守っている事も多い。

加害者が、自分が信頼と愛情を寄せている存在である親や顔見知りの大人である場合には、子どもは、性的虐待という行為とその行為を行う人格を無意識的に分離して、事態を好意的に認識しようとする。
自分は、加害者自身を憎悪したり嫌悪しているわけではなく、加害者の虐待行為のみが憎くて嫌いなのであり、それさえやめてくれればいつでも加害者と以前のような親密な愛情あふれる関係に戻れると健気に考えているのだ。
もし、自分が性的虐待を暴露したりすれば、加害者が警察に逮捕されたり、皆から責められて攻撃されたりすることが分かっていれば、子どもは愛している加害者を守る為に自ら進んで『虐待の事実はなかった』という嘘をつくだろう。

子どもであっても、性的な愛撫や接触に対して本人の意志とは無関係に、物理的刺激に対する反射的な性的快楽を感じてしまうことがあるが、子どもは自分の身体の仕組みに関する知識が乏しく、物事の因果関係を適切に把握することが出来ない。
その為に、『身体的な快楽を感じて気持ち良くなってしまったのだから、自分は加害者の行為に同意したことになるのだ』という間違った因果関係の認知が起こり、本当はしていない同意の確認をしてしまう恐れが出てくる。
加害者から『お前も本当は、こういう風にされて気持ちいいんだろう?』といった質問をされて、反射的な快感を感じてしまっている自分に嫌悪感や罪悪感を抱いてしまい、それが根深い自己否定感や無価値感につながってしまうこともある。
しかし、こういった加害者の自己正当化のための身体的快感の確認は、悪質なレイプ犯と同一の明らかな悪意に基づく責任転嫁の錯誤に過ぎない。
相手が加害者の行為によって快感を感じているかどうかは、加害者の行為の犯罪性や卑劣性とは無関係であり、まして、生理学的なメカニズムによって反射的な快楽を得た事に対して被害者が罪悪感や責任感を感じる必要は微塵もない。
身体的な快楽と精神的な意味づけによる快楽は必ずしも同一のものではないところに、人間の性にまつわる尊厳が内在しているのである。

閉鎖的環境における性的虐待の隠蔽と歪曲:社会的弱者としての子どもの安全と幸福を願って


人間の性にまつわる尊厳を侵犯する性的虐待(sexual abuse)には、大きく分類して二つの加害者−被害者関係が想定できます。
一つは、全く見知らぬ他人が加害者となり、性行為(セックス)や猥褻行為(性に関連するあらゆる行為)などの性的被害を受ける『外部からの性的虐待であり、もう一つは、両親・祖父母・兄弟姉妹・叔父叔母などの家族や近親者・顔見知りの人物から性的虐待を受ける『内部からの性的虐待です。

社会生活を営む大部分の人達は、外部からの性的虐待に対しては極めて敏感であり、見知らぬ子どもに対する性的な接触や誘惑、猥褻な発言を明確に性犯罪と認識して、その場で取り押さえたり、警察に通報するなどそれに相応しい対応を取ります。
社会的弱者である子どもや暴力への抵抗力の弱い女性を一方的な欲望充足の道具とする性犯罪者に対する怒りや憤慨というものは、人間の性の尊厳を認識する市民にとっておよそ普遍的に共有されるものです。

しかし、残念なことに、子どもに向けられる性的虐待や性暴力の過半は、生活環境の外部からではなく生活環境の内部において行われている現状があります。
家庭環境の内部において、親・祖父母・兄弟姉妹・叔父叔母などの親類・親の友人知人・離婚後の親の恋人・再婚後の親などから性的虐待が行われるケースの場合、その殆どが問題の性質上、表面に出て語られることがありません。
その為に、家庭環境における性的虐待は、社会的に隔離され隠蔽されていき、時間の経過と共にその事実がなかったものとされていきます。

ごく普通の家庭に育った人にとって、家庭は『安心・安定・癒し・安らぎの象徴的な生活空間』であり、苦しい時や悲しい時には両親が味方になって守ってくれたとても落ち着ける場所ですから、『家庭内で暴力・セックス・虐待・ドラッグが蔓延していて、子どもが極限的な絶望と恐怖に晒されている』という情報を聞いても、認知的不協和によって感じる違和感と抵抗感によって情報が過小評価されます。
『そういう不幸な家庭も確かにあるだろうけど、無視してよいほどの極少数の例外に過ぎないし、私達には関係ないことだ』という認知へと転換された時、社会環境において性的虐待を安心して語れる相手を見いだす可能性が減り、心的外傷を克服する為の場は急速に縮小していきます。

人間の精神の救いのない暗黒面や人間の行為が織り成す社会の現実の悲惨さや冷酷さを覗き込む行為は、人の心を暴力的に掻き乱し、自らの人間としての尊厳や自信を揺籃します。
しかし、社会や個人の鬱屈した暗闇に対して無関心な傍観者が増大すると、人間としての尊厳を理不尽に蹂躙する加害者の跳梁跋扈を許す事につながっていく恐れがあります。
家庭という閉鎖的環境における種々の虐待という不法行為への意識や関心を高めていくことで、普段気付かないような子どもからの小さなメッセージに気付けたり、“意図的ではない加害者”自身の性的虐待に対する甘い認識が変化する可能性もあります。

周囲の人間や加害者がその事実を忘却したとしても、被害者である子どもに残った深く暗い心の傷や裏切られたという憤慨は、多くの人が思っている以上に難治性のもので、悲痛な胸の内を語る機会さえ得られないままに、一人でやり場のない悲しみや怒りを抱え込み続けることが多いのです。
性犯罪や性的虐待の過去を語るという行為には、無関係な人が予想する以上の恐怖と不安や危険性が伴います。
不用意に性的虐待の過去を語ることによって、相手から予想だにしていなかった長期間の苦悩を軽視する発言や批判的な解釈がなされる可能性もあります。

例えば、『犬に噛まれたと思えばよい的な無関心さや愛情表現を性的行為と曲解しているだけではないかといった批判的解釈、あなたが誘惑したりスキがあり過ぎるからそんな事になるのだという見当違いの糾弾』によって、『他人に話す事の無意味さや徒労感』を学習してしまい、一生自分一人で痛みや悲しみを背負っていくしかないといった孤絶感に陥ることもあります。
また、家族や親類による性的虐待の場合に、その事実を他の家族や親類に訴えても、多くの場合、信じて貰えずに黙殺されるか、家族の恥であるとして隠蔽されるかします。悪くすると、逆に子どもが嘘を言って親類を陥れようとしているとか、淫らな妄想をしているだけだとか言われて叱り付けられたりします。

家庭内における性的虐待の加害者の多くは、精神医学上の人格障害者(性格異常者)や重篤精神障害者という形で認知されているわけではなく、極普通の社会人としての信用を得ていて、職業活動にも従事していますので、子どもが『親戚の叔父さんが身体や性器に触れてきたり、自分の身体を触らせようとする』などと訴えてもまともに取り合ってもらえないことが多いのです。
人間の認識や判断は、今までに獲得した知識や情報の集積であるスキーマ(知的枠組み)にその多くを依拠しますから、『優しくて良い叔父さん・信頼できる厳格な父親』といった認識が、一旦、人物像として確立してしまうと、それに反する新たな情報や事実を無意識的に排除して今までの人物像を維持しようとします。
凶悪な殺人事件や卑劣な性犯罪を起こした犯人の友人知人が、『あんなに正義感が強くて、真面目な人が…、あんなに大人しそうで控えめな人が…、学問一筋の真面目だった大学教授の彼があんな事をするなんて…』といった感想を漏らすのも、事件発覚以前に確立していた人物像を裏切る行動を起こした意外性への驚愕反応です。

人間関係から為される人物評価は、尊敬・好意・信頼・正常といった肯定的な評価の度合いが強いほどに、真偽判断に対するバイアス(歪み)を強めます。
親類縁者による性的虐待の場合には、世間体や外聞体裁といった家庭外部から寄せられる批判や好奇の眼差しに対する心理的抵抗がありますから、ますます真実を見ようとする客観的な視線が曇り、バイアスが強まるということになります。

性的虐待による心的外傷が根本原因となって、PTSDや解離性障害、身体表現化障害、統合失調症うつ病など種々の精神症状に苦しめられることも多く、性格の形成過程になされる性的虐待は、他者に対する不信感や敵対感、反社会的な価値観や自己破壊的な性的逸脱を生み出す危険性もあります。




大人から子どもへの性的虐待は、直接的なものとして『大人が性的な行為をする・子どもにさせる』『(正当な性教育のレベルを逸脱して)大人が性的興奮や快楽を目的として、性的な話題を話す・子どもに話させる』『(子どもが拒否しているのに)一緒に風呂に入る・(子どもが一人で入浴できる年齢なのに)一緒に風呂に入る』『大人が性的部位や性的行為を見せる・子どもの性的部位を見る、覗く』というものがあり、間接的なものとして『(成長記録や記念写真の程度を逸脱して)子どもの裸体や下着姿の写真を自分の性的趣味を目的として撮影する』『アダルトビデオやポルノ雑誌を子どもに見せる』『(発達年齢に相応しくない)過度のスキンシップやキスなどを子どもに行う』というものがあります。

性的虐待の加害者に成り得る人は、およそ全ての大人ですが、その中でも加害者になる可能性のある人を具体的な社会的属性で考えると、『親(血縁上の親)・保護者(義父義母)・祖父母・叔父叔母など親戚・兄姉・友人知人・母親の交際相手・習い事の先生・児童福祉施設の職員・教師・医師・見知らぬ大人』など子どもと接触する可能性のあるあらゆる大人が含まれます。
日本国内での性的虐待はここ十年ほどでその存在がクローズアップされてきましたが、これは最近急に性的虐待を行う卑劣な大人が増えてきたわけではなく、それ以前には性的虐待の定義が曖昧であり、家族や社会がその事実を黙認あるいは隠蔽してきたからに過ぎないと見ています。

日本ではかつて(あるいは今でも)、明白な児童に対する性犯罪(レイプ及び強制猥褻)を、“いたずら”という軽薄浮兆な言葉で報道し記述してきました。
これは児童に対する性犯罪についての公式の裁判記録や判決文においても使用されてきた慣例的表現ですが、『いたずら』などという何だか子どもがふざけて落書きでもしたかのような曖昧かつ不適当な表現で児童の性の搾取を語ることには、多くの弊害や錯誤があると思います。性犯罪をいたずらという語で表象する事によって、児童には、自己の性にまつわる権利や尊厳が欠落しているというような誤った印象を与える恐れがあります。

大人の愛情表現としてのスキンシップと子どもの権利の侵害行為である性的虐待の境界線は何処にあるのかという最低ラインの基準は、子どもの発達年齢に照らして常識的なスキンシップであるかどうかという事と、子どもに不快感や抵抗感を抱かせていないかどうかという事にあります。
子どもは、言語能力が十分に発達しておらず、性的行為の意味内容も十分に理解しているとは言い難いですから、自分の意志や感情を明確に表現することが難しいこともありますが、ある行為によって生じた『不自然な沈黙や表情の硬直化などの非言語的コミュニケーション』によって、子どもの内面的心理の変化を窺い知ることが出来ます。
その事から、言葉によって明示的に拒絶の意思表示をしていない場合でも、不適切な性的意味合いを持つ行動を自分がしている場合には、それを知ろうとする意志があれば知ることが出来るはずです。

性的虐待の本質を摘出して包括的定義を試みるならば、性的虐待とは、大人側の欲求・意図・猥褻認識の有無に関わらず、子どもの心身の発達に被害・悪影響を及ぼす性に関連した言動や態度の総体』と定義することが出来るのではないかと思います。
私は、性犯罪に関して猥褻性の有無に拘泥する基準を採用することには、主観的な猥褻認識の差異が存在するため、適切ではないという思いが強くあります。
どんなに過激な性的表現や一般に卑猥とされる性行為などであっても、その個人にとってそれが日常的な性行為や性情報への暴露の一部に過ぎないのであれば、主観的な感覚や認知に左右される猥褻性の程度は低下していきます。
特に、扇情的かつ誘惑的な性関連情報が、現実世界やネット世界に飽和し氾濫している現代の日本のような環境では、『猥褻な行為や表現とは何なのか?何処からが問題のある猥褻性になってくるのか?』という問いに対して社会的コンセンサスを得るのが非常に困難となってきます。

大人と子どもは、社会的・経済的・身体的な能力に圧倒的な格差があり、大人は子どもに対して絶えず優位な強者の立場にあり、子どもは大人に対して劣位な弱者の立場にあります。
家庭内の大人(親・養育者)は、子どもを保護養育する義務を負いますが、その義務には子どもを権力的に自分勝手に支配したり、暴力的に性や労働を搾取して子どもを傷つける権利は包含されていません。

社会内の大人は、子どもに対する直接的な保護養育の義務を負うわけではありませんが、大多数の良識ある大人は、他人の子どもであっても不当な取り扱いを受けて不幸な境遇に置かれる事や種々の虐待や愛情の剥奪によって子どもが傷つけられることを望んでいません。
育児に対する経済的な負担といった側面でも、直接的な経済負担をするわけではありませんが、社会保障費に充当される税金の納付といった形で、子どもの教育環境整備・育児の経済的支援・児童医療施設の整備・児童福祉環境の充実などに貢献しています。
個々の社会保障制度や社会福祉政策には、それぞれの価値観や立場によって賛否両論があるでしょうが、親の有無に関わらず、子どもに最低限度の文化的生活を保障することや子どもが安心して楽しく生活できる家庭・学校・医療・社会の環境整備、子どもの可能性を伸ばす教育制度の確立の為に税負担することを完全に否定する人はそう多くないでしょう。

子どもは、親にとっての唯一無二の子であると同時に、社会にとっての世界にとっての大切な子であり、未来への希望と人類の可能性を内在した存在でもあります。
また、子は親の所有物でも、社会の労働資源でもなく、一人の独立した人格として、大人と同一の基本的人権を生まれながらにして有しています。
社会に子どもと共に生きる親を始めとする大人達が、小さくて無力な大人の保護を要する子どもであっても、自分と寸分変わらぬ基本的人権を所有していて、最大限の尊重と配慮を要するという自覚を持たなければならないと思います。
子どもの性や身体は当然に子ども自身のものであり、知識経験の不足による自己決定権の未成熟につけこんで、それを大人の欲求や都合によって不当に支配したり使用することは許されざる虐待行為という事になります。


ここでは、非日常的な強烈なショック体験や通常の生活で経験しないような心理的苦痛や恐怖によって生じるPTSD(心的外傷後ストレス障害)や解離性障害、あるいは自らの性的同一性への拒絶反応として生じる形の摂食障害(神経性食思不振症や神経性大食症)の詳細に踏み込んで説明する余裕がありませんので、家庭という閉鎖環境で加えられる性的虐待心理的影響と特性について簡潔にまとめてみたいと思います。

  • 秘密の共有……性的虐待は、多くの場合、二人だけの状況で行われ、性的行為の意味を十分に理解しない子どもに対して加害者は、『これはお前を愛しているからしている行為なんだよ。このことが他の人にばれたら大変な事になるから、二人だけの秘密にしておこう。絶対に誰にも言ってはダメだよ』といった言葉を囁きます。性的行為がどのような意味を持つのかの知識が不足している子どもは、信頼している親や大人から秘密の約束を持ちかけられると、その約束を守らなければならないと考えてしまいます。また、加害者からの暗示的なメッセージに誘導されて、性的な行為が二人以外の人にばれてしまうと、何だか途轍もない不幸な出来事が起こるといった不安に襲われる為、自分から他の大人に相談することが難しくなっていきます。更に悪辣な加害者の場合には、『このことを話したら、お前を殺す。家族がバラバラになってお前は捨て子になってしまう。他の大人は、お前の言うことなど絶対に信じないぞ』というような明示的に愚劣な脅迫が行われて、口止めが為されていることもあります。
  • 虐待の日常化と学習性無力感……家庭という閉鎖環境では、加害者はいつでも弱者である子どもに対して性的に搾取するチャンスがあるため、虐待は日常化し、あるいは長期化します。子どもにとって家庭環境の外部は未知の世界であり、幼少期から虐待を受け続けている子どもにとって大人は信用ならない怖い存在ですから、家庭から自発的に逃げ出す行為を選択することはまず不可能です。誰からも救い出してもらう事は出来ないといった絶望感が、次第に感覚や感情を麻痺させ、『私はこの行為に対して何も感じないし、苦しくもつらくもない』といった自己暗示状態へと入っていきます。どんなに抵抗しても、どんなに助けを求めても、状況は良い方向に変わりはしないという認知は、人生全体に対する否定観や自己の学習性無力感『私には状況を切り開いて、自分を幸せにする力などない』に行き着きます。
  • 家族ぐるみの問題の隠蔽と記憶の歪曲……家族内部で性的虐待が行われていたという事実は家族の恥辱であり汚点であるとして、当事者も配偶者や親類もなかなか認めようとしません。友人知人、教師、医師などの第三者が虐待の事実に気付き、それを親に問い質しても、逆に親は激昂したり興奮したりして『事実無根の誹謗中傷であり、子どもを愛している私達に対する名誉毀損である。これ以上、私達を不当に侮辱し中傷するならば訴えるぞ』といった反応を示すことが多く見られます。父親が性的虐待をしていても、母親はその事実を知らない場合も多くありますので、その場合には母親は父親が加害者であるということを微塵も疑わない事が殆どでしょう。虐待発覚後もその事実が明確に立証されて保護されない限りは、子どもは、両親と生活を共にしなければなりませんし、子どもは虐待をされてもなお親が完全に嫌いなわけではありませんから、自分の記憶を無意識的に歪曲して書き換え『私に対する性的虐待などは行われなかった』という方向への改竄が行われます。家族ぐるみで虐待の事実は隠蔽され、子どもの記憶は次第に歪曲されていきます。
  • 性的虐待の影響の遷延……性的虐待の影響が遷延する場合には、自己効力感の低下による対人関係の不安定性によって恋愛関係や夫婦関係が混乱したり、性暴力やDV(ドメスティック・バイオレンス)などの再被害に遭遇する可能性が高くなる可能性もありますが、調査によっては子ども時代の性的虐待と成人以後の性暴力やDVは有意な相関関係はないとするものもあり明確に被害の継続を指摘することは出来ません。性的虐待が性格形成に及ぼす最大の影響は、他者に対する基本的信頼感の欠如と社会に対する怒りや破壊欲求、性に対する嫌悪や抵抗感に基づく完全回避(異性関係構築の不全)あるいは反対に性への強迫神経症的な耽溺や逸脱などがあります。自分の過去の屈辱感や無力感を弱める為に、人間関係を、『支配−従属といった相補的な二項対立的な図式』でしか眺められなくなったり、自己評価の低下が進んで、人間の愛情や関心を獲得する為には性的行為や誘惑を行う以外に手段がないという考えに陥ってしまうと、様々な人間関係において暴力的な被害を蒙ったり、相手を傷つけたりしてしまう事もあります。

協力的ネットワークの拡大と共同体成立を可能とするインセスト・タブー:ウェスターマーク効果


id:cosmo_sophy:20050312において近親者による性的虐待近親姦禁忌(インセスト・タブー)に抵触するという事を少し書きましたが、もう少し人間社会の禁忌について敷衍して考えてみます。


一定以上の普遍的コンセンサスを持つ社会通念や倫理規範である近親姦禁忌(インセスト・タブー)の本質は、『家族的人間関係から社会的人間関係への開放的拡大』と『家族を最小構成単位とする共同体の成立』にあり、その本質を個人的快楽や恣意的理論によって論駁し否定するのは相当に困難であると思います。
インセスト・タブーは、先進文明社会(近代国家)にある西欧中心主義的世界観に基づいて生まれたものではなく、キリスト教イスラム教などの一神教的宗教観のみに見られるものでもありません。文明的生活から遠く離れた原始的風習や伝統が残存する未開社会の人達にも、インセスト・タブーは厳然として存在します。
民族、宗教、地域、共同体によってインセスト・タブーの対象となる血縁集団の範囲は異なってきますが、どのような社会集団であっても、必ず『結婚(生殖)する事の不可能な血縁者の範囲』が存在します。そして、結婚する事の不可能な血縁者の範囲は、文明の発達度や先進性とは全く無関係であり、狩猟採集によって生活を営むような未開社会の原住民であっても文明社会以上のインセスト・タブーの広範な範囲を持っている事があります。

閉鎖された血縁集団内部でのセックスによる妊娠出産が、子どもに先天性奇形やダウン症など染色体異常、遺伝子疾患などの遺伝的不利益を与えるという通俗的な根拠の提示があります。
『血縁の濃い相手との子どもは遺伝的脆弱性を持ち、健康な種の存続の妨害となる』というインセスト・タブーの根拠に関する一般的な説明のことですが、この仮説が科学的に正当な理論として実験的に確認されているわけではありません。
そもそも、そういった人間を対象とした近親交配の遺伝的影響に関する実験は、基本的人権を侵害する恐れが強く大きな倫理的問題があるので、今後も実施されることはないでしょう。

しかし、人間という種で近親相姦の遺伝的影響が分からないといっても、牛、馬、豚などを用いた畜産業などの育種実験(品種改良)では、近親交配を繰り返す事によって生殖能力が低下したり、致死性の疾患発現遺伝子の保有率が高まるという『近交退化』の現象が見られます。
この事から、近交係数の高い(血縁の近い)相手との生殖が重積する場合には、子の生存率や初期の心身の発達に何らかのマイナスの影響を与える可能性を考慮する必要性はあるでしょうし、単純に考えても、近親相姦の常態化は遺伝子プールの多様性を縮減し、致死性・疾患性の劣性遺伝子がホモ接合する危険性を高めることで種の繁殖可能性を低下させるという事が推察できるかもしれません。

しかし、そういった遺伝的な悪影響を実験的・論理的に導いたとしても、それが決定的な近親相姦禁忌の理由なのかどうかを確認する事は難しいでしょう。
私の個人的見解では、人間社会に普遍的に見られるインセスト・タブーは、遺伝子に規定される本能的な回避行動が原因なのでも、誕生以後の学習経験によって獲得する道徳規範が原因なのでもないのではないかと考えています。
では、インセスト・タブーの究極的根拠は何なのだという声もあるかと思いますが、それは先天的要因と後天的要因のマージナル(中間的)な領域にあるもので、私達の生存可能性を高め、生活水準維持を可能としてくれる『社会(共同体)と家族(構成単位)』を成立させる『協調行動の拡大ネットワーク』を生み出すものだという機能主義的な答えを返す事くらいしか出来ません。
インセスト・タブーは、血縁という閉鎖集団から外部へと人間関係を切り開き、『協力・連帯・出産を前提とした密接な他者との出会いである外婚』を可能にするものであり、複数の血縁集団を結びつけることで協調行動のネットワークの範囲を段階的に拡大していき、遺伝子の多様性、技術能力の多面性を集団が獲得していき、『強大で機能的な共同体成立の基礎条件』を整備します。

自由意志と理性的判断力を有する人間の場合には、本能的な遺伝子保存欲求によって、近親相姦を回避するような行動を取るように遺伝的にプログラムされていると言えるかどうかは分からないという事になるのではないかと思います。
心理学的に、人間の性的欲求や性的関心を元にしてインセスト・タブーについて考えるならば、問題はもっと簡単明瞭に理解することが出来ます。

実際の兄弟姉妹がいる人に対して『あなたは、血のつながった兄弟姉妹に対して性的欲求を感じたことがありますか?』『あなたは、道徳規範や社会通念によって近親相姦が禁止されていなければ、近親相姦をしたいと思いますか?』という質問紙法のアンケートを取ったならば、およそほぼ全員が本心から、『兄弟姉妹に対して近親相姦願望をもったことなどはない。家族との性行為など想像さえしたことない』と回答することが予測されます。
それと対照的なのは、実際に兄弟姉妹がおらず、実際の経験として兄弟姉妹との日常生活を経験したことがない人のほうが、近親相姦願望を持つ人が有意に多いという事でしょう。
確かに、人間全員の趣味嗜好までカバーすることは出来ませんので、極少数の近親相姦者は存在し、血縁関係にある異性に性的欲求を抱く人はいると思いますが、大多数の人は、倫理道徳の束縛や遺伝的不利益の恐怖によって、無理矢理に血縁者への性欲を押さえ込んでいるわけではなく、自然な状態で血縁者には性的関心が起きないような心理機制が働いているのです。

厳密には、高等類人猿やヒトの場合には、先天的な本能や感覚によって血縁関係にある近親者を識別する一部の哺乳類や鳥類、両生類のような能力はなく、生後の社会的経験から近親者への性的欲求を喪失していきます。つまり、幼少期の生育環境を同じくする親密な関係にある相手に対して性的関心や欲求が起きにくくなっているのです。
この幼少期からの生活環境を同じくする親密な相手には性衝動が起きにくいという言説は、『人類婚姻史』(1891)という人類の結婚関係の歴史的発展を扱った書物の中でウェスターマークが指摘しています。

幼少期から一緒の生活環境で育った相手に対して、次第に性的興味や性的欲求を失っていく効果を、ウェスターマーク効果』といいます。
これは、血縁の有無に依存せず、一緒の生活環境で長期間を共にしたか否かに依存する効果であり、実の兄弟姉妹であっても、お互いを知らず、全く異なる生活環境で育てばウェスターマーク効果は弱くなり、実の兄弟姉妹であっても性的関心や恋愛感情の対象となる可能性はあります。
ウェスターマーク効果は殆どの人に現れますし、実際の兄弟姉妹がいる人たちには極自然に受け入れられる可能性の高いものではないかと思います。

実際の社会環境で実証的に確認されたウェスターマーク効果としては、子どもが幼い頃にお互いの結婚相手を決めてしまう中国のシンプア(幼児婚)やユダヤ人共同体のキブツという家族関係を解体した公共の共同保育施設の例があります。ユダヤ共同体では、血縁関係にある親が子を育てるのではなく、子どもをユダヤ民族の子として取り扱い、共同保育施設(キブツ)で育てる伝統・慣習があります。
幼少期に結婚相手を決めて、小さな頃から生活環境を共にした幼児婚(シンプア)によるカップルでは配偶者に対する性的欲求や出産率が低く、離婚率が有意に高かったという調査結果があります。
イスラエルキブツにおいても、同じ共同保育施設で育った異性と結婚する確率は低く、『キブツで一緒に生活してきた異性は、兄弟姉妹といった意味合いや仲間意識が強く、性的対象や配偶者として見ることが難しい』という意見を持つものが多かったといいます。

それが、先天的な遺伝要因に基づく無関心なのか、後天的な学習要因に基づく無関心なのかを特定することは難しいですが、少なくともウェスターマーク効果は、倫理道徳や良心のようなもので無理矢理に抑え難い衝動を押さえ込んでいるような強制力ではないことは確かです。

近親相姦(近親姦)を、禁忌や穢れとして規制することには、“家族を単位とする人間社会”の存続維持と発展可能性が密接に関与していると考えていますが、家族血縁の歴史と共同体の構築についてはまたレヴィ・ストロース、シグムンド・フロイトマリノフスキー、モルガンとエンゲルスなどを参照しながらいつか詳述したいとは思っています。

性的虐待・性暴力の定義と子どもに対する性的虐待の精神的影響

家庭内における性的虐待という残酷極まりないエゴイスティックな虐待行為は、人間社会の倫理規範を二重に侵犯していると言えます。
一つは、『性暴力(sexual abuse or sexual violence)』という子どもの性的尊厳の不条理な侵害という侵犯行為で、これは強姦罪、強制わいせつ罪などに類する明白な犯罪行為といって差し支えないものです。

ここでは、家族間での性的虐待と精神的影響を中心に記述しますが、『性暴力・性的虐待という概念は本来、もっと広範な領域の性的な暴力を包括する概念です。
相手が不快感や拒否感を示しているのに、性的行為を強制する行為、性器や裸体を露出する行為、性的な揶揄や侮辱を言葉によって行う行為、相手の性的な身体部位を窃視する行為などは性的暴力・性的虐待の代表的なものです。
そして、家庭環境における親と子ども、企業環境における上司・部下、学校環境における先生・生徒などの『非対称な関係性』の中で、相手の性に関する自己決定権を事前に抑圧した状況下において性的行為を行ったり、性的発言や性的露出を行うことも同様に性暴力であり性的虐待となります。

時代錯誤な性的観念、ジェンダー理解や男尊女卑的な価値観によって、性的虐待や性暴力の定義を無意識的に歪曲して、『実際の身体的接触や公共場面での性的露出がなければ、性的虐待や性犯罪には該当しない』と考える人達もいるかもしれませんが、相手に羞恥心や嫌悪感を感じさせるような猥褻な発言や相手の性生活・性的嗜好や性的部位に対する覗き見趣味の質問は、性的な嫌がらせ(セクシャルハラスメント)に該当するものです。
明確に、二人が特別な恋愛・性愛関係にある場合の同意された刺激的な対話である場合や、不快感や抵抗感がない事を明瞭に宣言し相互的に楽しく猥談をしている場合などを除いて、何らかの外部的な強制力(物理的暴力・給与や保護養育など生活基盤の剥奪・職業や地位に関する決定権など)によって性的な行為や対話を相手の心情や価値観を無視して行うことは性的虐待であると言えるでしょう。

性的虐待や性暴力は、夫婦間・恋人間であっても特別な免罪を得られるものではなく、『性行為をしたくない・性的会話を行いたくない・性的な部位や行為を露出して欲しくない・AVビデオやポルノ雑誌など性関連情報を得たくない』と明確な拒否・不快の意思表示をしている配偶者や恋人に対してそれらの行為を無理矢理に強要すれば性的虐待となり、性交の強制などの場合には強姦罪等の性犯罪の構成要件を満たす場合も想定されます。

子どもに対する性的虐待は、端的に言えば、性の自己決定にまつわる基本的人権を子どもの知識・判断力の未成熟や社会的立場の弱さにつけこんで、蹂躙し侵害する愚弄かつ卑劣な行為であり、『子どもだから、少しくらいふざけていやらしい行為をしても分からないだろう。自分の子どもに対する愛情表現に他人が口出しするな』というような家庭環境を社会環境から意図的に切り離すセクショナリズム(分離主義)や歪曲したパターナリズム(父権的温情主義)の弁明は通用しません。
親の子どもに対する保護養育の義務は、虐待という人権侵害行為や種々の搾取行為が現実化した途端に、一方的優位性に基づく支配権力へとその容貌を変化させます。

もう一つの人倫への違背行為は、虐待者が子どもの血縁者(実の父母)である場合の、近親姦禁忌(incest taboo)』への抵触です。
近親姦は、極少数の例外を除き、人種・民族・文化・時代を問わず、人類の婚姻や性交渉にまつわる普遍的なタブーとして伝承されてきました。
近親相姦という用語が、通俗的に猥雑さや興味本位な意図の元に使用されることがありますが、親と子どもという身体的・社会的・知性的に大きな力関係の格差がある中で行われる性行為には、相互的な同意や了承を前提にすることは出来ません。
どのような形態であれ、子どもを保護養育する責任のある血縁関係(あるいは法的な親子関係)にある大人が、子どもに対して性的行為を行ったり、嫌悪を感じさせる猥褻な言動・態度を取ったりすれば、そこには表面的な同意では欺瞞し切れない『親の子に対する強制力や支配力に基づく性的搾取』が働いていることになります。

反社会性人格障害と被害者意識を伴う認知傾向


精神病理学の中で、心理的原因によって種々の症状や機能障害が出る神経症水準の疾患は、カウンセリングや心理療法などで比較的容易に治療でき、内因性・心因性統合失調症精神分裂病)に代表される精神病水準の疾患も、現実認識能力の著しい低下は見られるものの、抗精神病薬などの薬物療法を主軸とした有効な治療を行う事が出来ます。

外部からの治療的アプローチや援助的働きかけがなかなか顕著な効果を発揮し難いのは、個人の性格構造の歪曲や人格傾向の偏向からくる不適応の苦悩や問題行動です。
id:cosmo_sophy:20050121で概略を示した人格障害の問題によって、通常の人間関係を築くことが出来なくて周囲から孤立したり、社会生活に参加出来ない為に経済的不利益を負い、あるいは社会規範を守る意義が理解出来ない為に刑務所に収監されるといった不幸を蒙ることがありますが、本人が自分自身の性格上の問題や短所を自覚して、性格を良い方向へ変容させたいと考えない限り、有効な心理的介入を行う事は通常不可能です。
標準的人格傾向からの過度の逸脱に対して、薬物療法は有意な効果を発揮しませんし、本人が『どんな社会的不利益や対人関係上のトラブルを抱えようとも今のままでいい』と頑なに現状維持を希望する場合にはあらゆる改善的対処は無効となるでしょう。

他者に迷惑や危害を加えない性格上の偏りについて、外部が適応的な改善や友好的な変化を望むのは“マジョリティの傲慢”に過ぎません。また、人間社会の面白さは、多種多様な個性の持ち主が織り成す関係や出来事にあるのですから、少しくらい平均的な人間像からかけ離れた押し出しの強い個性の人がいたほうが社会生活や対人関係の魅力が増すとも思います。

他人に対して重篤な危害を加える恐れのある人格障害としては、クラスターB(相互的な対人関係を築けない情緒不安定や依存性を特徴とし、自己の欲求や衝動を制御する良心や規範意識の乏しい群)』に属する反社会性人格障害があります。



15歳以下の少年期に見られる反社会的行動や動物虐待や殺害などの残虐行為の場合には、発達障害・行為障害に分類されるが、18歳以降もその反社会性や虐待・殺害・窃取の嗜好が継続する場合には反社会性人格障害とされ、連続的に犯罪行為を繰り返して何ら良心の呵責や反省を感じない人たちの性格傾向に頻見される。


反社会性人格障害のような過剰に社会否定的かつ法秩序破壊的な性格傾向がどのような生育過程を経て形成されるのか、あるいは他者の苦痛や悲しみに対する無配慮や共感の欠如、生命の尊厳を蹂躙する暴力性がどのような発現機序によって生起してくるのかは、現在の精神医学や性格心理学では殆ど解明されていません。
基本的に、反社会性人格障害が想定される個人が、自らの意志によって性格を矯正しようと考える事は極めて稀であり、犯罪者の更生施設や再教育機関など以外の日常の臨床ケースとして扱う事も殆どないと思われます。
反社会性人格障害の標準的治療モデルのようなものは構造化されておらず、治療・改善すべき病理性よりも分析・解明すべき異常性のほうがクローズアップされやすいという問題もあります。
反社会性人格障害という分類名称が一般化される以前には、社会病質やサイコパスなどと呼ばれ、性格異常の側面を強調する傾向が強かった事もその傍証として挙げられます。

反社会性人格障害というものは、精神の発達障害である行為障害が、青年期以降も継続している人格形成上の欠陥である』という医学的な見方には、反社会性や道徳感情の欠如が、遺伝等の先天的要因によって事前に規定されていたというような偏った見解に繋がる懸念があります。
動物や人間に対する虐待を繰り返し、窃盗や強盗を何度も働いて不正な利益を得て何の反省もしない人物や他人を傷つけたり殺害する事に良心の呵責を感じない人物の中には、心理的原因や家庭環境の問題、幼児期のトラウマなど後天的要因が全く特定できない人もいるでしょう。
そして、それらの後天的要因と無関係に、自然に反社会性や暴力的衝動性を発現し始めた発達障害としか言いようのない内因性の人格障害者も確かにいるかもしれません。

しかし、特異的な快楽殺人者や異常性格者を除いて、通常の言語的コミュニケーションが成立する累犯者の場合には、家庭環境・生育歴・幼児記憶などを詳細に掘り下げて傾聴していくと、多くの場合、社会や他者に対する強度の防衛機制の存在や猜疑心に近い不信感に行き当たり、その根底には社会や他者から迫害され排除されているという被害者感情の認知があります。

私はその意味において、妄想性人格障害に特徴的に見られる思考特性や認知傾向である『他人は基本的に自分を騙し欺いて傷つけようとする悪意を持っているに違いない。どんな善意や親切にも、必ず裏の目的や意図が隠されているはずだから絶対に信用してはいけない』という認知は、反社会性人格障害の反社会的な暴力性や攻撃性を基底において支える根拠になっているのではないかと思います。

そのような他者への猜疑心に基づく攻撃性や社会への被害感に基づく復讐心が亢進していく背景には、性格の基盤が形作られていく幼児期〜児童期の家族関係において深刻な虐待や葛藤があったことなどを想定することが出来ます。
日本では文化的歴史的背景から、男児に対する性的虐待事件は極めて稀ですが、アメリカなどでは、反社会性人格障害に類する凶悪殺人犯や連続レイプ犯などに幼児期の性的虐待体験のトラウマを有している者が有意に多いという調査報告もあるようです。

京極夏彦『陰摩羅鬼の瑕』を読んで:生きるモノと生きるコトの哲学的思惟と現実世界



陰摩羅鬼の瑕(おんもらきのきず) (講談社ノベルス)
書籍:陰摩羅鬼の瑕
著者:京極夏彦
出版社:講談社


京極夏彦が描く日本的怪奇趣味と人間心理にまつわる自由無碍な思索に満ち溢れた京極堂シリーズを数年ぶりに読み終えた。
前作『塗仏の宴 宴の支度』『塗仏の宴 宴の始末』を読了して、既に2年以上の歳月が流れているが、作家の関口巽、古書肆(古本屋)の中禅寺秋彦、刑事の木場修太郎、探偵の榎木津礼二郎といった御馴染みの登場人物のイメージは全く薄れてはいなかった。

優れたミステリー作家の上梓するシリーズものの最大の特徴は、登場人物のキャラクターやパーソナリティの設定と描写が磐石かつ鮮烈であること、人物を特定する固有名の名辞が強固に特異的なイメージや特性と結合していることではないかと思う。
しかし、読者を力強く引き寄せ、感嘆せしめる作品を書くためには、キャラクターの設定や心理描写のみに全力を傾注すれば良いというわけではなく、ストーリーの秀逸さや感嘆すべき結末、不可能犯罪を解体するトリックの考案や表層的な物語の背景に潜む社会問題や倫理規範といったものがなければならない。
小説や文学として『読者に訴えかける力・読後に何かを物思わせる力』が存在しなければ、作家は長期間にわたって、読者の知的好奇心や感動・感嘆への嗜好、意外性への驚嘆を満足させ続ける事は出来ないだろう。

そして、作品全体を流麗に構成するプロットの構築も、勿論、作家として欠かす事の出来ない構成能力の現れである。けれども、魅力的な人物の創造と人物相互の人間関係が生き生きと描写されてこそ、完成されたストーリーへの没頭と耽溺は深く逃れがたきものとなってゆくのではないかと思う。

ミステリー小説の一般論はこの辺にして、『陰摩羅鬼の瑕』についての感想や書評などを書いていこう。
最後に京極夏彦という作家について私見を述べるならば、昭和のミステリー界の巨星である江戸川乱歩横溝正史の作品を彷彿とさせるような状況設定を巧緻に行える作家であり、近代合理主義のメスを博覧強記の知性で砥ぎ光らせながら、怪奇現象と異常犯罪が生み出す混迷・恐怖・不可思議を手際よく論理的に脱構築する辺りは爽快である。

隠微な閉鎖的空間と複雑な人間関係を前提として展開される犯罪の場面構成、そして、時代がかってはいるが魅力的な人物の創作が出来る作家という意味で、京極夏彦現代日本のミステリー界において特異で稀有な存在感を持つ作家ではないかと思っている。




陰摩羅鬼―――


蔵経の中に
初て新なる屍の気変じて
陰摩羅鬼となると云へり
そのかたち鶴の如くして
色くろく目の光ともしびのごとく
羽をふるひて鳴声たかしと
清尊録にあり


今昔画圖續百鬼巻の中――晦


日本国憲法第14条2項『華族その他の貴族の制度は、これを認めない』の条項によって、現代の日本社会には公的に承認された身分制度や階層秩序は存在しません。
徳川将軍家から天皇家へ国家統治の大権が返還される大政奉還が行われるのと同時に、幕藩体制の解体が廃藩置県版籍奉還によって進められ、四民平等により封建的な士農工商身分制度が否定されました。
明治維新によって日本は急速に近代国家としての体裁や制度を整えていく訳ですが、四民平等は表面的な身分制度の否定に過ぎず、実質的には天皇を頂点とする階層秩序を法的にも承認する華族制度(爵位制度)』が採用されていました。

華族とは、西洋社会で言う貴族とほぼ同義の言葉であり、明治時代の爵位制度は、西洋の貴族制度の位階序列を模倣して『公爵・侯爵・伯爵・男爵・子爵』の呼称と階層序列を用いる事としました。
明治維新を境にしてそれまで長い歴史を通して世襲の支配者階層であった公家と武家を、突然、無位無官で無一文の平民に落とすといった過激な平等化政策を取ることへの政府内部での抵抗や躊躇もあって、華族令が出されたという見方も出来ますが、何より、天皇を頂点とする立憲君主制国家の身分秩序を明文化するという目的の元に華族令が公布されたと考えられます。
天皇家が他の公家・武家の名門よりも抜きん出て高貴で格式あることを示す必要があり、その格差を段階的に分かりやすく提示することが華族制度(爵位制度)成立への大きなモチベーションになったと考えられます。
天皇を最高位とする華族制度の階層序列は、日本社会が天皇主権によって統治される独立した近代国家であるという事を、国内外に対して明確に示すのに重要な制度的役割を果たしたと言えるでしょう。

1869年(明治2年)に、武家・公家の旧支配者階層を『華族』と呼称する事が決められ、1884年に、華族令が制定されて、旧摂家、旧清華家など公家貴族や旧将軍家、旧大名家など武家貴族に家格に合わせた『公爵・侯爵・伯爵・男爵・子爵』の爵位が授与されることになりました。

明治政府の叙爵は、明治維新以前の家柄・家格や身分・地位、維新への勲功を元に、混乱を避ける為、機械的情状酌量を与えずに行われたと言います。
以前の家柄・地位・家格、維新への偉功・勲功によって割り振られた爵位は以下のようになります。



1.公爵

2.侯爵

3.伯爵

  • 公家貴族では、かつての昇殿制において内裏の清涼殿に上る事を許された堂上家(どうしょうけ)の内、大納言拝命の前例のある家格。
  • 武家貴族では、徳川御三卿(田安家・一橋家・清水家)、維新後の石高5万石以上の大名家(中藩知事
  • 国家に特別の勲功ある者

4.子爵

  • 公家貴族では、堂上家ではあるが伯爵に叙爵されなかった家格の者、維新前に再興した堂上家
  • 武家貴族では、維新後の石高5万石未満の大名家(小藩知事)、維新前まで諸侯(大名)だった家柄。
  • 国家に特別の勲功ある者

5.男爵

  • 公家貴族では、上位華族の分家・庶流、明治維新後に華族に列せられた者。
  • 国家に特別の勲功ある者



華族制度の名残は、かつての旧家・名家・大家といった呼び名で僅かに地方地方に残っていますが、最盛期には約900もあった華族の家柄の殆どが、現在では経済的に零落して、政治的な威勢も無くなっています。
政治的・経済的な特権や優遇措置を失ったかつての支配者階層達は、厳しい自由市場の経済競争の中で、以前のような華やかで優雅な貴族的生活を謳歌する事が困難になり、自分自身の実力と工夫によって経済的な自立を勝ち取る必要が出てきました。また、往時の格式に相応しい威厳ある政治的地位に無条件に就く事が不可能になり、庶民の普通選挙の洗礼を受けることが必要になってきました。

第二次世界大戦に敗北した日本は、GHQの管理指導の下で、法の下の平等華族制度の撤廃を明確に謳った日本国憲法を1947年5月3日に施行して、日本の爵位を有する華族(貴族)はその姿を歴史の狭間へと消しました。


この小説の舞台は、白樺湖畔に威風堂々と聳える豪華な洋館『鳥の館』であり、鳥の館の主人はかつての爵位制度において伯爵位を授与されていた由良昂允(ゆらこういん)である。
何故、鳥の館と呼ばれているのか、それは広大な邸内の敷地一杯に無数の鳥の剥製が置かれているからだ……今は亡き昂允の父・由良行房(ゆらつらふさ)伯爵は、高名な本草学者であり博物学者であったが、特に鳥類の熱心な研究者で、研究標本として世界中の鳥の剥製をコレクションする事が趣味であった。
行房伯爵は、博物学者であると同時に儒学者であり哲学者でもあって、その知的好奇心は留まる事を知らず、昂允にとって常に尊敬と敬愛の対象であり、目指すべき理想的な紳士、学者であった。

由良家当主が治める広大な『鳥の館』の空間には、物言わぬ静寂な剥製の鳥が異常なまでに多すぎる……玄関の左右にはコウノトリ弓手にハシヒロコウ、クロスキハシコウ、灰色朱鷺、シュモクコウ、馬手にはハゲコウ、大紅鶴(フラミンゴ)、箆鷺(ヘラサギ)、朱鷺、壁にはハゲワシ、ヒゲワシ、クマタカノスリ、チュウヒ、トビ、隼などの猛禽類がいる、大広間、食堂、書斎、客室、寝室、何処にでも様々な種類の鳥達が静かに居住者や来客者たちを見つめ続けている……それは尊敬すべき父親が残した大切な可愛い鳥達であり、既に昂允にとって家族の一員でさえもあるのだ。

由良昂允元伯爵が抱えている絶望的な苦悩と恐怖は、『鳥の館』に昂允の配偶者として嫁いでくる花嫁は、全て初夜の明け方にその生命を間違いなく奪われてしまうという事であり、その陰惨な花嫁殺人事件は一度や二度ならず四度も繰り返し行われている。
由良昂允は、今度の薫子との婚礼だけは何としてでも無事平穏に済ませたいと願い、新婚初夜の惨劇を未然に防止する為に、探偵・榎木津礼二郎に花嫁の生命の保護を依頼する事にした。
高熱を出して、一時的に視力を失い失明している榎木津の介添人として、重度のうつ病と対人恐怖に陥っている作家・関口巽が同行していた。

由良昂允は、作家としての関口巽の特異な才能と独自な感性に強い魅力を感じ、その著作『目眩』を何度も再読している。
由良昂允は、自らの生きて居る事の意味を否定し、絶望的な憂うつ感と対人恐怖に打ち沈む関口巽に対して、何度も同じ質問を、実存主義哲学者マルティン・ハイデガーのように執拗に投げ掛ける。

『貴方にとって生きて居ることと云うのはどのような意味を持つのです――』




『何故――僕などに問うのです』
私は結局、返答せずに尋き返した。
伯爵はいっそうに眉を顰めた。それでも、私にはその顔が哀しそうな貌には見えない。愚問を発する馬鹿者に対して、憐憫の情を投げ掛ける尊大な賢者の顔にしか、私には見えない。
『貴方が』
識っているからですよと、伯爵は云った。
『知っている――』
『はい。貴方は、そう、慥か最初にお会いした時です。その時、私が同じように質問した際に、迷わずにこうお答えになったんです』
伯爵は大きく手を広げた。
『生きて居ることに意味は――ないと』
『覚えて――いらしたのですか』
と――云うよりも、通じていたのか。
当然ですと、伯爵は大袈裟に応えた。
『憶えていますとも!能く憶えていますよ』
『しかし伯爵、あなたは――』
『生に意味はない――貴方は何の衒いも迷いもなくいとも簡単にそう仰せになったではありませんか』
――それは。
深く考えていなかっただけだ。
――それに。
仮令通じていたのだとしても。
伯爵が私の発した胡乱な回答に一滴でも汲むべきところを見いだしたとは、私には到底思えなかった。
何故なら、私はそれから幾度も伯爵に、無配慮を窘められ、賢者の知見を説かれ、無知を知らしめられたのだから。それでも私は何一つ感得することが出来なかった。幾度同じ事を問われても――。

(中略)

『私は貴方がその結論を得るに至った過程を明白に辿り擬らんがために、貴方に、そして自分自身に問い続けていただけです。常に疑い、問う。そうして得られた結論を再び疑い、問うてみる。それを』
『それをあなたは繰り返していたと――』
それで何度も。
そうですよと伯爵は大いに首肯いた。
『貴方が齎してくれた見解は私が到ることのなかったものでした。新しい知見だったのです』

(中略)

『だからと云ってそれが真理でないとどうして云い切ることが出来るでしょう!』
伯爵は許してはくれない。
『だからこそ人は模索する。宜しいですか』
伯爵は洋卓の上の杯を手に取って掲げた。
『この洋杯は――取り分け深い思索を加えずとも見た通りの洋杯です。一目見れば判る。しかし、私達は真理に向き合う時、多く眼を閉じている。見えなければこの杯とて杯とは知れない』
伯爵は眼を閉じ、華奢な意匠の洋杯の表面を、指でつうとなぞった。
『だからこうして――触れて、考える。この形は何だろう、この硬さは何なのだろう、この滑らかな表面は硝子だろうか――と。真理も同じです。何も熟考思案の末に行き着いたものだけが真理とは限らない。真理は人が捏ね上げるものではない。真理は既にして厳然として此処にある。しかし』
伯爵は瞼を開けた。
『これが真理なのか否かは、盲いた私達には確定出来ないのです。だから』
検証しなければならない――伯爵は杯を置いた。
『貴方が吐き捨てた言の葉が、本当に真理であるのなら、それは疑う余地のないものである筈だ。何故なら、真理に綻びはないからです』
『綻びは――ない』
『ありません』
『しかし』
『生に意味なし。何という達観』
『た――達観などしていません』

由良昂允元伯爵は、儒学者であり哲学者でもあって、博識多才で思慮深く、温厚毅然とした人物である。儒学の古典に出てくるような聖人君子の如き高潔で篤実な人格と完璧な礼容を兼ね備えた気品溢れる人物だが、彼の生育歴は非常に風変わりで奇異なものである。
親族の大叔父である由良胤篤と又従兄弟の由良公滋は、昂允と正反対の価値観と気質性格の持ち主で、端的に云えば、金銭や利権、贅沢な生活、女との遊興への欲求を露わにして、その欲求を行動原理とする俗物である。
当然、禁欲的な質素な生活と厳格な儒教道徳を重んじて隠棲する昂允と世俗的で経済的利益や利権、豪華な通俗的な娯楽を求める実業家の親族とは、水と油の相容れない間柄であり、昂允は卑俗で思慮浅き親族を心底軽蔑し唾棄していた。

由良昂允は、幼少時に心臓疾患を患って以来、体質が虚弱であった為、19歳まで外部の人間と一切接触せず、成人するまで鳥の館の外部の世界を知らずに成長した。
由良昂允にとって成人するまでは、鳥の館の建物こそが全宇宙であり、建物内部での生活と関係こそが、昂允の生そのものであった。

昂允の風変わりな生育歴とは、その世界認識の方法と獲得にある。
つまり、昂允は、実際の世界にある事物や現象を経験的に知覚することなく、書斎にある無数の書物を読む事によってのみ事物と現象を知り、世界に対する認識を拡大補強していったのである。
外界から隔絶された鳥の館という『閉じた世界』で、一切の直接的経験や体感的行為を排除して、膨大な世界についての記述が為された書物からの知識によって世界認識を組み立てる作業を通して昂允は大人になったのである。

この『陰摩羅鬼の瑕』という小説は、単なる驚愕的な犯罪解明のミステリー小説として読まれるだけではなく、本来、『開かれた世界』における経験と知識によって獲得されるべき正確な“事象と概念の対応”が、『閉じた世界』における知識の獲得に現実世界の認識を頼るほかない状況では、どのように変質歪曲されるのかという思考実験の仮想的記録として読む事も出来るのではないかと思う。
現実世界を実際に感覚器官で経験する事なく、世界を理解する為のあらゆる概念や観念を、0から純粋な情報の蓄積と記録の獲得のみによって即ち読書のみによって得る試みはどのような瑕疵を私達に与えるのかというような思考実験として読む事が出来る。
由良家の連続花嫁殺害事件は、そういった哲学的思索に添えられた装飾的な題材に過ぎないのかもしれない…人間の世界認識の形成過程と概念把握の環境設定を理解することによって『陰摩羅鬼の瑕』が示唆する怪奇的恐怖や人間心理の哀哭を深く自己のものとして感得することが出来る。

昂允伯爵が徹底的に拘泥する哲学的思惟は、生きて居るモノ=存在者生きて居るコト=存在の差異であり、彼の致命的な論理の矛盾と概念把握の瑕疵は、ハイデガーがその存在論的差異を巡る思索的営為において落ち込んだナチス肯定のレトリックや論理とオーバーラップする。

この小説を読み終えて、ハイデガーの『存在と時間』やフッサールの『純粋現象学及び現象学的哲学のための考案(イデーン)』を再読したい欲求に駆られ、儒教関連の古典文献を渉猟したい衝動に襲われた。
ハイデガーの論理の瑕疵とは、存在論的差異の壮大無比な本質に接近する過程において、現存在である人間の生命・主観性の価値を忘却したところにあるように思えるが、世界の全ての『あるもの』をあらしめている作用としての“存在”とは何なのかという問いに憑り付かれると果てしのない懐疑と思索の循環に呑み込まれる。
とはいえ、『存在の意味は、存在者の中でも特異な存在形式を持つ現存在である私達人間にしか解き明かせない』という事もまた確かであり、いずれは死すべき運命にあるという事実に直面する『本来的な在り方』を自覚し、安穏平和な日常性を脱却する時点において存在と対極にある非存在を直観できるのかもしれません。

しかし、私達が念頭に置いておくべきなのは、存在と非存在の狭間で揺れる本来的な不安な存在者である私達が認識する価値や意味は、存在を巡る言説とは無関係であるという事であり、非存在と死は必ずしも同義ではないという事ではないでしょうか。
形而上学的な観念・概念を操作する思考に囚われすぎる余り、現実的な人間感情による悲哀や苦悩を無視するような冷厳とした態度や価値判断に行き着くのは拙劣かつ安直であり、倫理的に取り返しのつかない誤謬や錯誤に陥る恐れもあります。ナチスホロコーストのような人類史上の悲劇や罪悪さえも、存在と非存在を巡る形而上学的な思索を捏ねくり回す事によって免罪される可能性があります。

最終的に存在の意義を判断する際に用いる判断基準は、結末としての非存在(世界からの消滅)を見据えた機械的な価値判断ではなく、結末に到るまでの時間を自律的に生きる『主観的な個人の生』や『唯一性を持つ個人の生命』を最大限に尊重する価値判断であるべきです。

「ぱちもん」心理学研究所を読んで:沈黙のオーディエンスと主体的オーディエンス


id:cosmo_sophy:20050213で私が記述した『「いんちき」心理学研究所を巡る沈黙のオーディエンスの意識化と孤独感について』の記事を踏み台にして、id:santaro_yさんが『オーディエンスとブロガーの関係性』『沈黙のオーディエンスから主体的オーディエンスへの発展可能性』『ブログのトラックバックを利用した関連記事の有機的連結』など興味深いテーマを立てて更なる議論を複数の方々と深めてくれています。
この話題に関心のある方は、santaro_yさんのブログの「ぱちもん」心理学研究所を是非一読される事をお薦めします。



■「ぱちもん」心理学研究所関連の記事……id:santaro_y:20050226,id:santaro_y:20050301,id:santaro_y:20050304


様々な視点と事例から“ブロガーとオーディエンスの関係にまつわる心理・欲求・反応”が詳細に分析され、複数の方々との有意義な意見交換が生産的に行われる事によって、より客観性の高い“多面的なメタブログ論”が展開されているといった印象を受けました。

特定のテーマに対する言説・説明の客観性や一般性が高まり、議論を構成する見解・意見の多様性が増すほどに、新たな意見を付け足す必要性や意義は低減します。
とはいえ、メタブログ論を展開する追加記事が増えれば増える程、見解の多様性や議論の生産性は微小低速ながら増加していくとは思いますので、santaro_yさんの考察や見解も参照しながら自分の『沈黙のオーディエンス論』『閲覧者にまなざされる快楽の階層構造』を少し再考してみようかと思います。
私自身は、『一般的コミュニティ型・アクセス重視型・気ままな唯我独尊型』などが当て嵌まりますので、自分の書きたい内容の記事を書き、ある程度の閲覧者が読んでくれて、私と対話したいと思った人が書き込みをしてくれるだけで十分に書くモチベーションを維持できています。




1.現実世界でURLを知らせた友人知人のみが閲覧して反応してくれれば良い……リアル直結コミュニティ型

2.インターネットの内部で知り合いになった友人知人を中心として“批判的でない信頼できる人”だけが閲覧して反応してくれれば良い……mixiに代表されるようなSNS的ネットコミュニティ型

3.自分のテキストの魅力に応じた閲覧者数が適度に確保されていればよく、余りに多い閲覧者は逆にプレッシャーになることがある……儀礼的無関心を求めるマイペース型

4.閲覧者数の最大化を求めず、自然に集まる閲覧者と穏やかな交流を深めていければよい……一般的コミュニティ型

5.リンクや検索エンジンを辿って出来るだけ多くの人に閲覧して貰いたいが、特別反応を求めるわけでもない……トータルアクセス&ユニークアクセス重視型

6.リンクや検索エンジンを辿って出来るだけ多くの人に閲覧して貰うと同時に、批判的であっても構わないので感想や意見を活発に貰い、対立的な論戦さえも楽しむ事ができる……議論促進コミュニティ型

7.出来るだけ多くの人に閲覧して貰うと同時に、共感や承認のメッセージを貰って友好的な交流を行っていきたい……理想的コミュニティ型

8.閲覧者の存在やアクセス数を余り意識せず、自分の書きたい内容の記事を自由に書ければそれでよい……気ままな唯我独尊型


santaro_yさんは、更に、観客に過剰な反応を期待するブロガーを『問題提起指向』『クリエイター指向』の大きく二つに分類しています。


浅野教授は間違いなく「クリエイター指向」だ。彼の記事は他の記事にリンクしたり引用したりしているわけではなく一個の完結した”作品”になっている。こういう風に記事を作品として書いている人が観客に求めているのは「評価」である。自分の作品を面白がってくれるファンや支持者といった人を求めていて、そのファンからの作品への評価、という反応を引き出したかったのだ。

しかしオレの目指しているものは明らかに違う。オレは「問題提起指向」だ。基本的に記事は読んでいて違うと思った記事へのリンクや引用をした上での「反論」という形であったり、あるいは面白いと思った記事を更に発展させたり転回させたりしたものである。当然その記事は一個で完結したものではなく他の記事との関係性の中に位置付られている。そこでオレが観客に求めているのは「批評」である。面白いと言われるのももちろんうれしいが、本当に求めているのは自分が記事を書く時のようにオレの考えに対する反論、もしくは発展、転回させた意見を引き出したいのだ。

このブロガー分類の提示は、『自分が望む閲覧者の反応を引き出す記事の書き方』と『ブログを書く目的に応じたブログの基本機能であるトラックバックの有効活用』を示唆する非常に面白い角度からの有意義な分類です。
ここで、クリエイター指向のブロガーが覚悟しなければならないのは、『事実の誤認・論理の矛盾・極端な価値観の提示が存在しない完成度の高い作品ほど、閲覧者の反応や評価を引き出しにくい』というアイロニカルな事実ではないかと思います。

完成度が高ければ高いほど、一つの作品としての完結性が強化され、他者の補足や指摘を受け入れる余地が狭くなっていくわけですから、クリエイター指向の人は『完成度と他者の反応の非対応性』に対して意識的でなければ、非常に辛い孤独な製作作業を延々と継続していく悲劇的スパイラルに嵌まり込んでいくでしょう。

つまり、『誰もが同意し納得せざるを得ないような論理の矛盾がなく、事実認識の誤謬がない完成度の高い作品を書き続けていれば、大勢の人から称賛や評価の反応がフィードバックされてくるに違いない』といった信念や価値観は、『全身全霊を傾けて努力し続ければ、人生は成功し、私は幸福になるに違いない』といった人生訓や社会道徳と同程度に『現実状況と矛盾した認知に基づく誤謬』だと言う他はないでしょう。

苦労すれば苦労するほど良い結果が得られるわけではないし、努力すれば努力するほど幸福になるわけでもないという現実世界の不条理な現象と同様に、一般的・学問的・ユーモア的価値の高い完成度の高い作品を制作する労力を傾ければ傾けるほど閲覧者の好意的な反応を引き出せるわけではないという事実を、クリエイター指向のブロガーは深く理解する必要があるのではないでしょうか。
私は、クリエイター指向のブロガーに対する閲覧者の反応は、完成度が高ければ高いほどに沈黙のオーディエンス現象として顕現しやすくなると思いますが、その現象を悲観的あるいは虚無的にしか解釈できないのであればそのブロガーがブログを閉鎖するのもやむを得ないと思います。

しかし、現実事象の事実と評価は似て非なるものであり、膨大な沈黙のオーディエンスの存在を、自分に対する評価・肯定と受け取るか、無視・批判と受け取るかはブロガーの認知傾向に全面的に依拠することとなります。
私は、“アクセス数の多さとリピート率の高さ”こそが、閲覧者の興味関心を引き寄せ続けているという意味で、“ブロガーに対する肯定的評価”であると解釈できると思います。

それと同時に、“記事に対する情報提供者としてのブロガーへの肯定的評価”に過ぎないという認知も成り立つと思いますので、“自分という個人に対する肯定的評価”を得たいと希望するブロガーであれば、クリエイター指向で一般的なテーマや事件を取り上げて批評するような記事執筆のスタンスを放棄して、自らの生活や性格、趣味嗜好といったものを前面に出したキャラクター指向へと転換する必要があるかもしれません。
同好の士と共に緩やかなコミュニティを築いていく事が、自分個人に対する肯定的なコメントを頻繁にやり取りする為の王道と言えるでしょう。

禍福は糾える縄の如しといった偶然性に結果は翻弄されますが、自分が長期間にわたって書き続けている記事や方法では、閲覧者の沈黙の反応しか得られないという事が経験的に分かれば、今までの記事の内容を見直し、問題提起の方法を工夫していくしかありません。
他者に対する問題提起そのものをせずに、自分一人の思考・感性・知識・経験の中で閉じた記事をクリエイティブに書き続けていくのであれば、閲覧者からの反応を偶然的な確率に任せる他はないという結論に行き着きます。

閲覧者の反応がないことを災禍であると認識するブロガーであるならば、災禍を分析的に考察して反応が乏しい原因をまず特定する必要があるのではないかと思います。
閲覧者の反応頻度の低さの原因がある程度絞り込まれてきたところで、閲覧者の反応が頻繁にある状態へと転化させていくにはどのような内容の記事を書けばよいのかを考え、どのような形へと自分のブログを発展変化させていくべきなのかを実証的に試行錯誤していかなければなりません。

過去記事でも触れましたが、『閲覧者の好意的な反応=評価』を引き出す黄金律や方法論というものは存在しませんが、好意・悪意を問わないという前提であれば、閲覧者の反応を引き出しやすい『問題提起指向』の記事の書き方には、以下のようなものがあるのではないかと思います。




1.時事問題即応法……その時々で、大勢の人々が関心を持っている“政治・経済・芸能・社会・流行に関する時事問題”を出来るだけ早い段階で取り上げると同時に、独自の見解や解釈を提示する。

2.議論促進法(アジテーション型)……対立する見解が必然的に生まれるテーマを選んで、反対意見を有する個人・集団を想定しながら、意図的に、ワンサイドかつ扇情的な内容の記事を書く。

3.議論促進法(シリアス型)……自分自身が強い興味を抱いていて、世間一般でも話題になっているようなテーマを選んで、閲覧者の発言意欲や知的好奇心を高めるような『反論・補足・疑問の余地を残した記事』を書くように努める。

4.問題提示・アンケート法……自分自身の記事の中では、事実の記述と問題の提示に心がけ、最終的な結論や判断を出さずに、多くの人々の意見を集めたいという気持ちを明示する。例えば、『この問題について、皆さんはどう思いますか?よければ、ご意見をお聞かせ下さい』というような疑問形で記事を終えたり、幾つかの選択肢を用意して『以下の選択肢の中で、皆さんの考えに当て嵌まるものはどれですか?よければ、それを選んだ理由や根拠もお聞かせ下されば幸いです』といった“回答する労力の少ないアンケート形式”の回答を求める。

5.トラックバック&コメント法……1〜4の方法に依拠して、他者の意見・反論・補足を受け入れる余地がある記事を書き上げた後には、自分と類似した問題意識に基づくブログの記事や関連事項や関連情報を取り扱っているブログへとより多くトラックバックを打ち、頻繁にコメント欄への書き込みをして建設的な議論の提案をしてみる。

6.人気ブログ活用法……多種多様な趣味嗜好や価値観を持つ人が数多く集うと思われる、アクセス数の大きな有名ブログへ問題提起的な内容の記事をトラックバックしたり、新たな視点や立場からコメントをしてみる。その事によって、今まで自分のブログに訪れなかったコミュニケーションや議論を好む層を引き寄せることが出来る可能性がある。


1〜6の問題提起指向のブロガーに適した方法を試してみても、最終的に、自分が望むような『建設的な議論への展開・発展・転回』が起こる保証は勿論ありません。
特に、相手が閲覧者からの反応をそれほど望まないクリエイター指向のブロガーであり、興味関心の範囲が多岐にわたっていて単一のテーマや問題に留まることを潔しとしない場合には、トラックバックを打ったり、コメントを書き込んだりしても、相手にとって既に結論の出た議題についての好奇心を喚起し、深化発展に繋がる再考を促す事は難しいかもしれません。



santaro_yさんの以下の意見は、『何故、同じ問題意識を持っている相手との議論や対話が、思い通りに活性化しないのか?』という問いに対する模範的な解答に成り得るのではないかと思います。


おそらく多くの「沈黙のオーディエンス」にとってコメントするのがめんどいのは実はコミュニケーション自体を求めていないから、だったりする。まぁはっきりいって面白い記事なり有益な情報なりを取得できればそれで満足なのであって別にコミュニケーションしたくて読んでいるわけじゃない。コミュニケーションなんて煩わしいだけだ。しかしこの情報屋コメンテーターはコミュニケーションをする為に書くのではなく記事を関連付けさせる為、要するにブロガーに対する情報ではなく同じ記事を読んでいる多数の利用者の為になされるわけだ。

そこでは単にアドレスと簡潔な内容の説明だけを書けばいいわけで一々ブロガーに挨拶とかはいらない。ブロガーもそれにお礼とかする必要はない。というかしてはいけない。それをしたらコミュニケーションになってしまうわけでそういう煩わしさを無くさなければならない。

というわけでひとまず非ブロガーである大多数の沈黙のオーディエンスにはこの情報屋コメンテーター(いやもうコメンテーターとは言えないか)になってもらうしかない。人海戦術だからあっという間に記事は繋がり始める。


関連記事を精力的に探索し、関連記事を引用・参照した上でトラックバックを頻繁に打つ傾向のある人ほど、議論促進型あるいは問題提起指向のブロガーである確率が高く、他のブロガーや閲覧者との闊達な意見交換や生産的な議論を望んでいる傾向があると思います。
単純にアクセスアップの為だけにトラックバックを多く打つというブロガーもいるかもしれませんが、その場合には他のブロガーの関連記事を読み込んでからトラックバックするわけではないので、引用や参照が乏しく、無作為に単純なキーワード一致やアクセス数の多い人気ブログの選別によって送りつけているといった印象があります。

何故、類似した問題意識や興味関心を持ち、関連した記事を書いていても、議論や意見交換が思った通りに発展しないのかという理由は、私は『思考・記述・対話・時間の節約の意識』に還元されるのではないかと思います。
santaro_yさんがおっしゃるように、一般的に、記事を書く事は大変な作業であり、記事を読む事は容易な作業です。
多くの人が、書かれている記事に何らかの意見や感想を抱いたとしても実際にコメント欄に書き込まないのは、『書く行為と読む行為の労力・時間の非対称性』に原因があります。
簡単に言えば、コミュニケーションや議論は、心理的・思考的・時間的なコストが大きいので、そのコストを議論や対話から得るメリットが上回らない限り、閲覧者による書き込み行為は起こらないという事です。

大多数の閲覧者は、単一のブログだけを読んでいるわけではないので、一つのブログの記事を読み終えれば、他のブログの記事を読む行為へと自然に移っていきます。
一つのブログの記事内容を深く掘り下げて、その記事に対する意見や反論を考え文章に書き起こすというのは、一定以上の時間・労力・思考作業を必要としますから、余程、その記事やブロガーに対する興味関心が強いか、議論のやり取りをする事自体が好きであるかでないと書き込みの行為は生起しないでしょう。

また、一回限りの書き込みを行って、それで終わりという場合には、時間と労力はそれほど必要とされないのですが、コメント欄への書き込みを行えば、多くの場合、ブロガーからの返事が書き込まれるわけで、それに対する返答をまた書かなければならないといった義務的な心理に追い込まれることが想定されます。

コメント欄への返事や回答は義務ではありませんが、『相手の対応が丁寧で真摯である場合』には、他者配慮性や共感感情・常識的な道徳感覚によって返事をしなければならないという義務感が芽生え、『相手の返答が自分の意見・考えを否定するような場合』には、優越欲求や自尊心・自己正当化によって反論しなければならないという競争心が湧き起こってくる可能性がある為、好意によっても悪意によっても時間的・精神的コストが高まるケースが考えられます。


最終的には、『何を目的としてブログ運営をしているのか?閲覧者とのどのような関係を求めてブログ記事を書いているのか?』という問題意識の原点へと回帰していく事になるでしょう。

活発で意欲的なコミュニケーションを求めているのであれば、トラックバックやコメントを有効活用して主体的オーディエンスを誘導する形を取り、『私はこう考えますが、あなたはどういう意見をお持ちですか?』という基本姿勢を持った問題提起指向のブロガーを目指すべきですし、コミュニケーションよりも完成度の高い記事や知識の整理紹介を主眼とする記事を書きたいというのであれば、沈黙のオーディエンスの数や反応を意識せずに『自分が書きたい・伝えたいと思う内容の記事』を丁寧に作りこむクリエイター指向のブロガーを目指すべきではないかと思います。

まず、ブロガーが意識すべきは『情報提供・情報収集・人間関係(コミュニティ形成)・議論促進・自己満足・自己内部での完結性・他者との対話による発展性』のいずれを主軸としてブログの記事や返答を制作しているのかという事であり、それを文章表現や記事内容、コミュニケーションの中でオーディエンスに開示していく必要があるのではないでしょうか。
ブログ運営を頑張っているのに、自分が望んでいるブログの形態や閲覧者との関係性を実現できない場合には、それを実現する為に現在行っている懸命な努力や創意工夫が目的達成に適応しておらず、努力や工夫が逆効果となって皮肉な悪循環に陥っている場合も多々あるのではないかと思います。

自分の情報の提示や意見の公開そのものを求めていれば沈黙のオーディエンスは空虚感や重圧感として認識されませんが、情報の提示や意見の公開は参照項や叩き台に過ぎず、そこから他者とのコミュニケーションを活性化していきたいと考える人には沈黙のオーディエンスは記事制作の意欲を喪失させるに十分な破壊的な圧迫感を持つものになるでしょう。

沈黙のオーディエンスを主体的オーディエンスへと転換させていく為には、上述した問題提起指向のブロガーへの処方箋が役立つかもしれませんが、共感的オーディエンスを増大させていく為には、『隗より始めよ』の精神を謙虚に実践する以外に実践的な対応策はないと思います。
即ち、自分がまず率先して時間的・労力的コストを背負ってブログ巡回をし、共感的オーディエンスとしての肯定的評価と友好的態度に基づいた書き込みを行っていかなければならないでしょう。